たとえ、これが。たとえ、貴女が。

十南 玲名

プロローグ

 なんかもういいかな、と思った。もうどうでもいいかな、と思った。だから、これで最期にしようと思った。最期にしようと思ったから、心許ない屋上の柵を乗り越えて、空中へ一歩足を進めた。

「待っ…!」

「え?」

 思わず振り返る。もう遅いけれど。

 必死の形相で手を伸ばす彼は……えっと、誰だっけ? 確か同じクラスの……そこまで考えて諦める。諦めて、ふっと目を閉じる。どうせもう会わないんだから。一瞬で名前も出てこないような、そんな人の名前を考えたところで仕方がない。

 ……この人生もここで終わりなのね。そう考えると感慨深いような、そうでもないような……。確かなのは碌でもなかったことだけかしら。自重気味の笑みが溢れる。

 と、突然体をがしりと掴まれて、私は驚いて目を開ける。ふわりと浮いていた内臓が元の位置に叩きつけられる。

「ま、間に合った……」

 ……そうだ、思い出した。山緑やまみどり 菖蒲しょうぶ。クールでみんなから一歩引いてて、イケメンだって噂の彼。なんで私はそんな彼に……言うなれば「お姫様抱っこ」をされているのかしら。

 私の足はさっき手放したはずの屋上へと、ゆっくり下される。

「大丈夫…? 怪我とかない?」

 私をここに帰した彼は心配そうに私の顔を覗き込む。こう並んで立ってみると、彼って随分背が高いんだな、なんて場違いのことを思う。その背中にある大きな黒い翼を真っ先に突っ込むべきだろうに。

「……うん、外傷はなさそうだ。他は? どこか痛いとかない?」

 私の体を舐め回すように見る彼。私はその足を思いっきり踏みつけた。

「いっ…!?」

「自分のしたことを考えてから、その言葉をおっしゃってくださいな」

 ぐりぐりと容赦なく彼の足を痛めつける。あぁ、もう。まさか助けられてしまうだなんて。あまりの衝撃に怒りが勝っているわ。

「ごめん、ごめん、ごめんなさい!」

 涙目で叫ぶ彼に、流石にもういいかと足を解放して差し上げる。

「いったい、いったい。びっくりした、びっくりした!」

 右足を抱えて飛び跳ねる彼を横目に、私も一息ついて、気持ちを入れ替える。 

「どうして私を助けたりなんかしたのかしら?」

「……理由もなにも……」

 尻もちをついた彼は、言いにくそうに私から目を逸らす。まさか、言わないなんてありえないわよ?

「くだらない理由でないでしょうね?」

「くだらなくない、くだらなくないよ! えっと、さ……どこから話そうか……」

「どこからもなにも、私は一言しか聞かないわよ」

「え、え!?」

「当たり前でしょう!? 怒っているのよ、私」

 体全体で怒りを表して見せる。彼はオドオドと目を泳がせる。

「……どうせ死ぬならさ、僕と結婚してよ」

「……ごめんなさい。一言じゃなにもわからなかったわ。もう一言聞いてあげる」

「死ぬ前に一つ人助けってことで、僕と結婚して」

 意味がわからない。二言めでもっとわからなくなることなんてあるのかしら。けれど、あまりにもまっすぐな目で私を見るから。その言葉が冗談なんかじゃないと訴えてくるから。

 一度死んだ心臓が、うるさく鳴り響く。

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