◆4/邂逅と後悔

「どういうこと……!?」

 思考が追い付かない。

 篝の知る、O.N.Iの感染症状と一致しない。

 思考の混乱が困惑を呼び、混迷の渦へと叩き込まれる。

 

 その動揺を見透かすように、目の前のオニが篝に向かって跳びかかる。

 迫りくる脅威を認識した瞬間、篝は意識的に思考を凍り付かせた。


 払いのけ、蹴り飛ばす。

 背後から別のオニ。振り向きざまに斬り伏せる。

 勢いを殺さず駆け、もう一匹。

 残った二匹が同時に襲い掛かる。

 くるりと一回転。

 空中に青い華が咲くように、オニ達の血が撒き散らされた。

 

 束の間の静寂。

 ゴトリ、パシャリと、命をなくしたオニ達の体が、戦いの終わりを告げる音楽を鳴らす。

 指揮棒をおろすように、黒斧に着いた血を振り払った。


 ほんの少し、息を吐く。

 凍結した思考が、ゆるやかに溶けていく。仕方が無かった――そんな単純な言葉では支えきれない。4人の命の重さに、全身から冷たい汗が噴き出す。


 何度も浅い呼吸を繰り返すと、次第に体温が戻ってきた。

 強張っていた体から力が抜け、疲労感が押し寄せる。


「あれ? 死んでないじゃん。せっかく作ったのに、役に立たないな~」

 唐突に背後から投げかけられた声。

 その声には、嫌悪と殺気が含まれていた。

 篝は反射的に、黒斧を背後に向け薙ぎ払う。

 しかし、苛烈な勢いで振りぬいたはずの斧は、時が止まったかのようにピタリと空中で静止した。


 黒斧の刃は、小さくか細い腕で受け止められている。


「……え? うっそ! 篝じゃん!」

 可愛らしく透き通った声が、篝の鼓膜を震わせる。

 ――その声に聞き覚えがあった。


 瞬きを忘れるほど見開いた篝の目に、一人の少女が映る。

 ――その少女に見覚えがあった。


 呼吸を忘れる。

 心臓が早鐘を打つ。

 絞り出そうとした声は、言葉にならなかった。

 黒斧を握る手が緩み、盛大な音を立て地面に落ちる。


 肩口で揃えられたオレンジ色の髪は、毛先に向かってレモンイエローへと色を移していく。それはまるで、大輪の向日葵のようだった。

 紫紺のゴシックブラウスは大きく肩口が開き、そこからのぞく肌は異様に青白い。

 そして燃えるように赤い瞳が、喜色をたたえている。

 人間のように見える。けれど、人間とは思えない禍々しさを、全身から発散させていた。

 その少女は、間違いなく――〝オニ〟だった。


「間違いじゃないよね? 本当に篝だよね!」

 オニは篝の周りをくるくると、踊るようにまわる。肩口を彩るレースが瘴気に漂うように揺れる。地面を叩くブーツが、場違いなほど軽いリズムを刻んでいた。

 篝は凍り付いたように、指先一つ動かせない。

「いつぶりかなー? ほんと久しぶり! ねぇ、元気してた?」

 篝の体をペチペチと可愛らしく叩きながら、親しげに話しかけてくる。

 足元が崩れ落ちるような浮遊感に、篝はその場にへたり込んだ。

「なーにぃ? その反応。忘れちゃったの? 篝のし・ん・ゆ・うの――夕霧だよぉ?」

「ゆう……ぎ……り……?」

 篝は呆けたような表情で、オウム返しに名前を呼ぶ。

 頭の中で砂嵐が吹き荒れる。

 ――何も理解できない。

「あぁ、なるほどね……。篝は……私を見捨てたもんねぇ。だからぁ、忘れちゃってんだぁ……」

 脳みそを撃ち抜かれたような衝撃に、思考が止まる。

 ニタニタと笑う夕霧が、篝を見下ろす。

 その邪悪な笑みは、篝の胸に憎しみの刃を突き立てているかのようだった。

「ちが……。ごめん……。ごめんなさい……」

 視界が滲む。

 あの時、掴めなかった手――後悔が、涙となって溢れ出す。

 篝は、座り込んだまま、滂沱の涙を流すことしか出来なかった。


 ――ドンッ!!


 突如、みぞおちに鋭く重い衝撃が走り、視界がぐるりと回転する。

 風を切った体が背中から壁に叩きつけられ、肺から空気が絞り出される。

 内臓が軋み、息がうまく吸えない。

 痛みと息苦しさで、視界が滲む。

 力の入らない足で、懸命に体を支えた。

「あれ? 何で死なないの? ちゃんと蹴ったんだけどなぁ……」

 ゴホゴホと咳き込む篝を、夕霧は心底不思議そうに見つめている。

「まあいっか。さすがに、頭を潰せば死ぬよね?」

 夕霧はクスクスと、心底愉快そうに笑う。

 その氷のような笑顔に、篝は初めて恐怖を覚えた。

 可愛らしい笑い声が、ピタリと止まる。


 一瞬の静寂。


 次いで、建物全体を揺らすほどの轟音。

 同時に、夕霧の姿が消えた。


 音を置き去りにするかのように、間合いを一気に詰めてくる。

 大きく振りかぶった右拳が、篝の顔面を狙う。

 篝は必死に身を捻り、転がるように回避する。

 篝のすぐそばで、堅牢なコンクリートの壁が砕け散った。


「なんで! 避けちゃうの! ちゃんと! 死になさいよッ!」

 夕霧の叫びがヒステリックにこだまする。

 ドンッと足を踏み鳴らし、駄々っ子のように、全身から苛立ちをあふれさせる。

 睨みつける目には、焼き焦がすような怒りが燃えていた。


 夕霧の姿を持つ〝あれ〟は何なのだろう。

 識っている。けれど理解できない。

 理外の範疇から這いよる恐怖が、全身から力を奪い去る。

 

「あんたねぇ……。わたしに何したか、分かってんの? ねぇっ!? 分かってんなら、ちゃんと殺されなさいよッ!!」

 夕霧が怒号を響かせながら、篝の元へ迫る。

 震えるほどに握りしめられた拳は、噴き出す怒りを叩きつける鉄槌。

 地面を踏み抜くように進む脚は、凝積した悲鳴を刻む杭。

 全身から蜃気楼のように立ち昇る憎しみが、篝の心を蝕み、ボロボロと風化させていく。


 ――殺される。

 死神の冷たい手が、首筋を優しく撫でていく。

 抱擁する死の予感が、瞬きすら許さない。

 何度も感じた、世界が閉じていくような感触がよみがえる。


 心の奥で、ぷつりと――何かが切れる音がした。

 ふっと、力が抜ける。

「しょうがないよね……」

 篝から漏れる諦めの呟き。

 瞳から光が消え、口元は薄く笑みを浮かべている。

「うん。良いよ、夕霧。わたしを……壊して……」

 

 窓から差し込む夕日が、夕霧を黒くぼんやりとした影に変える。

 振り上げた拳は逆光に輝き、まるでダイヤモンドリングのように神々しい。


 その拳が。

 篝に向かって。

 振り、降ろされる。

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