第8話:第三章「沈黙の祈り」

## 第八話:第三章「沈黙の祈り」


 それは、静寂の中に埋もれた廃墟だった。


 灰色の雲が空を覆い、午後にもかかわらず薄暗い光が街を包む。レオンはフードを深く被り、南門の外れにある古びた道を辿っていた。足元には苔むした石畳。草がひび割れから生え、ここを通る者の少なさを物語っている。


「……ここか」


 朽ちた石造りの門の先に、かつての教会が佇んでいた。塔の先端は崩れ、ステンドグラスは割れ落ち、壁面には蔦が這っている。それでもなお、その姿にはどこか神聖とも言える威圧感があった。


 この場所――数年前に放棄された《記憶の神》を祀る教会。今では誰も寄りつかない忌避の地。だが、三人の失踪者がこの近辺で目撃されたという事実。ギルドの調査記録に残された曖昧な報告。そして、あの妙な“記憶の引っかかり”。


 何より、レオン自身が“この場所に来るのを避けていた理由”すら、よく思い出せなかった。


(まるで、来る前から記憶が曖昧になる……本当に、ここは何かあるな)


 レオンは魔力を抑え、気配を消すようにして扉へと近づいた。扉は半分開いており、風に吹かれて軋む音が低く響く。その音が、何かを呼び起こすかのようだった。


 足を踏み入れた瞬間、空気が変わった。


 湿り気と冷気。空間そのものが“止まっている”ような感覚。空気が音を飲み込んで、まるで外界と切り離されたような不自然さを帯びていた。


 祭壇のあったと思われる奥には、折れた神像と、崩れた祈りの席。だが何より――


 祭壇の奥に、小さな扉がぽつんと口を開けていた。


(……地下がある?)


 廃教会の構造を思い出す。《記憶の神》に仕えていた教会の多くには、“回想の間”と呼ばれる祈祷室が地下にあったと記録されている。そこは神に祈りを捧げ、自らの過去を振り返る“記憶との対話”の場――


「……そういう設定だったな、この神は」


 レオンはつぶやく。


 そして、思った。


 ――自分は本当に、この神の信仰についてどこまで知っていたのか?


 思い出せない。知識が、どこか曖昧に削れている。


 (やはり、何か……)


 レオンは軽く息を整え、地下へと続く階段をゆっくりと降り始めた。壁にはかつての祈りの文句が薄く彫られているが、ほとんどが読み取れない。魔力を帯びた石材に触れた瞬間、微かに冷気が走った。


 (これは……残留魔力?)


 地下へ降りきったその場所に、レオンは足を止める。


 そこには、祈祷室らしき広間が広がっていた。中央には、今も儀式に使われていたような円環の魔法陣。周囲には、記録のようなものを彫り込んだ石板、そして――


 ひときわ奇妙な感覚が襲ってきた。


「……ナリア?」


 彼は、不意にそう呟いていた。


 理由もなく。唐突に、彼女の名前が浮かび、頭の中を掠めた。


 なぜ、ここでナリアの名を?


 ――だが、次の瞬間にはその“理由”を思い出せなかった。


「……何だ、今の……?」


 自分がなぜナリアを思い浮かべたのか、その動機が見つからない。だが名前だけは確かに覚えている。不自然な揺らぎ。その違和感が、レオンの中で不気味な警鐘を鳴らす。


(やっぱり、ここは“記憶”に作用してくる)


 この教会には、何かが“残っている”。


 忘れさせる力か。あるいは、記憶を“擦り替える”力か。


 そしてレオンは、この異世界に来てから、はじめて微かに震えた。


 レオンは静かに祈祷室の中心に立った。円環状の魔法陣が床に描かれているが、その線は古びて薄くなり、まるで時の流れに耐えかねて消えかけているようだった。


 しかし、そこに秘められた力はまだ完全には失われていないことを、レオンは肌で感じていた。


---


 彼が手を差し伸べ、魔法陣の一部に触れた瞬間、薄暗い空間が揺れ動き、まるで世界の境界が溶けるような感覚に襲われた。


 目の前に浮かび上がったのは、ぼんやりとした映像――見覚えのない風景、見知らぬ人物たちの影。だが、それは曖昧で手に取れず、意識のすき間からすり抜けていくようだった。


(これは…記憶の残滓か?)


---


 意識を集中すると、過去にこの場所で起きた祈りや儀式の一端が断片的に見えてきた。人々が神に祈りを捧げ、自分自身の記憶と向き合い、忘れたい痛みを封じ込めていた。


 だがその祈りは、いつしか歪みへと変わった。信者たちの一部は強迫にとらわれ、狂気の淵に立ち、記憶を破壊する禁忌の儀式に手を染めた。


 レオンの脳裏に、はっきりとした一語が響いた。


「消せ」


---


 ふいに背後から、かすかな気配がした。振り返ると、そこには誰もいなかった。


 しかしその気配は確かに存在し、どこか哀しみや怨念のようなものを帯びていた。


(気のせいか…?)


 再び魔法陣に目を戻すと、石板の隅に刻まれた文字が微かに光を帯びていた。


「記憶の神の呪い…それは、過去の痛みを忘れさせる代償として、存在を揺らがせる」


 レオンはそれを読んで背筋が寒くなった。


---


 そんな時、彼の意識の隅で、ナリアの影がちらついた。


 それは幻影のように儚く、一瞬だけ、彼女の金色の瞳がこちらを見つめていた。


 レオンは思わず息を呑んだ。


(まったく笑えない…仮にナリアがこの教会と関係性があるのなら相当めんどくさいことになるぞ…)


「はぁ、こんなこと考えてても仕方がないとりあえず石板の解読をしよう」


 レオンは震える指で、石板に刻まれた古代文字をなぞった。幾度も読み返し、記憶の断片と照らし合わせながら、呪文の意味を解読しようとしていた。


 この世界の魔法は、威力と範囲に応じて通常、長い詠唱時間を要する。一般的な魔法の詠唱は約十秒から二十秒。だが詠唱を短縮すれば威力や効果範囲は落ちる。加えて、少々難解だが詠唱を短くできる上級テクニックも存在すると、レオンは以前に得た知識で知っていた。


(つまり……呪文の詠唱時間を変えることは、戦術や隠密行動に直結するわけか)


 石板の文面に目を凝らす。そこには「記憶を侵食し、影響を与える力――“記憶干渉”」の呪文が記されていた。


 その下に書かれていたのは、この魔法を発動するための“真の詠唱”。


《abbrev》


 たった一言。それだけで魔法は発動可能であり、相手の記憶の一部に干渉し、軽い混乱や錯覚を起こすことができる。効果は限定的だが、使い方次第で“嘘”を真実のように錯覚させる恐るべき力になり得る。


(この一言だけで、記憶に揺さぶりをかけられるってことか……)


 レオンはその可能性に心を奪われながらも、同時にぞっとする冷たさを背筋に感じていた。


その時少々イライラしたミーナの声が響いた


「レオン~、あんたいつまでここにいるつもり?」


「ミーナ、お前なんでここにいるんだよ。」


「どっかのバカが夜遅くまで帰ってこなかったから探しに来たのよ…ナリアが心配してるよ。」


「はい…すぐに帰ります…」


レオンはそう言いミーナに腕を引っ張られながら教会を後にした。


---


 ギルドに戻ったレオンは、その日の夕刻から一室に籠もり、石板の写しと自分の魔術知識を照らし合わせながら、魔法の習得に没頭した。


 巻物、メモ、断片的な詠唱理論。思考と記憶を行き来し、理解を深めていく。


 そして数時間後、彼はようやく《abbrev》の詠唱と、魔法に必要な魔力の流れを自分の中に定着させた。


 試しに、自分の手の甲に向けて小さく発動する。


「……《abbrev》」


 ふわりと空気が揺らぎ、周囲の空間がかすかに歪んだ。外から見れば何の変哲もない空気の揺れ。しかし、レオンの記憶の一部が微かに混濁した――あえて自分の記憶に干渉したのだ。


(成功……いや、成功してしまった)


 その威力はまだ微弱だった。だが本来の目的、相手の記憶や認識に“ねじれ”を生じさせるための糸口としては、十分な成果だった。


---


 深夜、書きかけの報告書に目を通していたミーナが、部屋の扉をノックもなく開けた。


「……レオン。まだ起きてたのね」


「ええ、ちょっと……気になる魔法があって」


 彼は微笑んで、巻物の一つをテーブルの下に滑り込ませた。


(《abbrev》……これは、まだ誰にも知られちゃいけない、これは俺の最大の武器となる!)


---

《第九話に続く》





最後まで読んでくださりありがとうございますm(__)m

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