第9話 加治川 治郎

加治川はカフェ「Cielo Azur」を経営している。古民家を改装したこの店は二階が自宅となっており、妻と二人暮らしだ。


昔からコーヒーが好きで、妻といつか二人でカフェをと夢を語っていたのは、結婚当初からだ。その夢を実現させたのが五年前だった。


そのきっかけは、若年性アルツハイマー病に侵された兄の存在だった。


一日の営業が終わり、店を閉める時間は兄に思いをはせる時間でもあった。今日の売り上げを整理して、フロアの掃除。キッチンを片付けて、妻はもう上の自宅に上がっているので、店内にいるのは加治川だけだ。


ふう、と加治川はため息をついた。


アルツハイマー病になった兄は、当時リリースされたばかりだったメモリアを使い、病に対抗しようとした。


あまり兄が語らなかったのもあるし、加治川自身、新しい技術については詳しくなく、それが無意味な努力だったことは知らなかった。


メモリアでは認知症で失われる記憶には対処できない。それに気づいた兄の落胆はとても大きかった。意気消沈した兄の足元をすくうように病魔は猛威を振るった。


希望を失った兄は、すっかり何もできなくなってしまったのだ。実際にはメモリアに保存した記憶が脳に書き込みできなかっただけで、何も失われたものなどないのに。


もしメモリアにしがみつかなければ、こんな悲しみを負うことはなかった。


加治川はアンチメモリアではない。当時は使っていなかったが、今は利用している。だが、あの時は言いようのない悲しみを感じた。


今日来た常連の客、森田恭平のことを思い出す。加治川は、客とそれほど深くコミュニケーションをとるタイプではないが、常連客の何人かは名前も把握している。森田もその一人だった。


森田は時々、恋人と店に来ていた。仲がよさそうで、礼儀も正しいこのカップルが、加治川は好きだった。だが、今日の様子を見ると、きっと別れたのだろう。


そして、おそらく互いの記憶を消した……ディープロックという技術によって。カップルが別れるときに記憶を削除するのは、近頃は珍しくないことだと聞いたことがあった。


でもそれでいいのだろうか。


と、加治川は思う。


病にせよ自然にせよ忘れていくのも覚えているのも、流れに任せるのが一番よいのではないか。それに抗うことは、本当に科学技術のしていいことなのだろうか。


作業を終えた加治川は、店の電気を落とす前に、天井に塗った青を見上げる。それはどこかの青空。かつてツーリングが好きだった兄が見てきた、日本中のどこかの青空だ。


内装も出来上がり、開業する直前に兄を店に招待した。弟に手を引かれ、ゆっくりと店内に入った兄は、天井の青を見上げ「懐かしいなあ」とこぼし、目を細めた。


兄にはきっと、どこかの青空が見えていただろうと、加治川は思っている。

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