第8話 森田 恭平 2
検索をすると、チップの埋め込み術を行っているクリニックは、周辺に三つあった。
恭平は診察券を探すことにした。総合診察券アプリ、通称メディパスを開く。まずはここ一年の記録を当たることにする。
履歴を見ると、昨年の冬に内科が一回と歯科が三か月に一回程度。内科は覚えていないが、インフルエンザに罹ったのでそれだろう。内科でチップを埋め込むことはしない。一年前からたどっていき、ついに一つだけ覚えのない記録をみつけた。意外にもそれはごく最近のことだった。
『五月十三日 北上皮膚科クリニック、そして処方薬は抗生物質』
恭平には皮膚科に行くような心当たりはないし、そもそも北上皮膚科は駅前なので看板こそよく見るものの、行った覚えがない。
しかしチップを埋め込むなら皮膚科に通院歴があるのは当然なのだ。この時にチップとインプラントハブを埋め込んだのではないか。それであれば、炎症止めに抗生物質が処方されているのも説明がつく。最近のことなのに覚えていない理由は、記憶を削除したとしか考えられないだろう。つまり、メモリアの契約をした。……そしてその記憶を削除した。
なぜメモリアの契約をしてすぐに、その記憶を削除しているのか。
恭平はひとつの仮定を考えていた。
それはなんらかの記憶を削除するためではないだろうか。
メモリアを避けていた恭平は、メモリアのことに詳しくない。削除できることは知っているが、削除したのなら、削除した記憶があるはずだ。
ネットで検索し、その答えはすぐにみつかった。メモリアの削除とは、正確に言うと「削除」ではない。記憶の底に沈めるだけで、正確には「ディープロック」と言う。だから、より強固に思い出せないようにするには削除したことも忘れるのが望ましい。そこで、予約削除という技術があるのだ。
おそらく恭平は何かの記憶を削除し、記憶を削除したことも、そしてメモリアと契約および解約したことも忘れるよう、予約削除をしたのではないか。
想像に過ぎないが、事実とそう遠くないと思われた。
チップとインプラントハブが残っているのもそのためだろう。予約削除をするには通信する手段が必要で、記憶を削除すれば、チップとインプランハブが残されていることに気づきようがない。
だが、ひとつわからないことがある。カラーボックスの間にあったメモ。メモリアケアセンターの電話番号が書かれていた。
隙間の狭いあそこに、自然にメモが入るものだろうか。それも端の方にあったから取り出すのにそれほど労はいらなかった。
いくら考えても、そこがわからなかった。
だが、こう考えるとどうだろう。過去の自分がみつけて欲しいと思っていたのなら。削除したはずの記憶の手がかりをみつけて欲しいと。だが、それだとわざわざ記憶を削除した意味がわからない。
そして最大の謎。メモリアを使って削除したかった記憶とは何だろうか。
ベッドで天井を仰ぎ見ながら、恭平は記憶をたどる。しかし、すでに深く沈められたであろう記憶の糸はどこにも見えない。
このまま何の手がかりもないまま頭を働かせても、空回りするだけだろう。手がかりを探すしかない。そう結論付けて、恭平は頭を切り替えるために外に出ることにした。
恭平の住むマンションから五分ほどのところに、カフェ「Cielo Azur」がある。ここは、よくコーヒー豆を買っている店で、店内のレトロで涼しげな雰囲気が好きで、気分を切り替えたいときに足を運んでいる。恭平は開店からの常連客だ。
「いらっしゃいませ」
入店を知らせる鈴の音と共に店内に入ると、カウンターの向こうのマスターが顔を上げた。カウンター席にかけ、注文をする。今日はモカ・シダモを。それから持ち帰り用の豆を一袋。
「今日はご一緒ではないんですね」
注文を受けたマスターが、ぽつりと一言こぼした。
「え?」
「いえ、失礼しました」
マスターは何事もなかったように、ドリッパーにフィルターを入れ、コーヒーの準備をする。恭平はさっきのマスターの言葉の意味を考える。過去に誰かとここに来たことがあっただろうか。いつも一人だったような気がする。だが、前に来たのがいつだったのかはっきりしない。少なくとも二か月に一度は来ているはずだが、よくわからなかった。
奥ではマスターの奥さんが、キッチンで調理をしている。時間を見てこなかったが、昼食時に来たようだ。近くに会社はないのもあって、この店は平日よりも週末の方が混み合う。なんとなく振り返って店内を見ると、今日はスーツを着た女性が一人と、中高年くらいの女性客の二人連れが二組。
『ここのコーヒー、……と一緒に……』
その時、ふいに頭にそんな台詞が浮かんだ。だが、それが誰の声なのか、いつのことなのか、まったく思い当たらない。
腕を組み考える恭平に、マスターが丁寧にコーヒーをサーブした。
「モカ・シダモ。それから、コーヒー豆です」
「ねえ、マスター。さっきの待ち合わせって何ですか?」
「いえ、……すみません。出すぎました」
何が?何を?恭平の頭の中で疑問が走る。
思い当たることはない。だが、思い当たることがないというこそ手掛かりなのではないか?つまり、削除した記憶の。
思いがけない手掛かりに、恭平の心臓が早鐘を打つ。
さっき店内を見回したときに、頭に浮かんだあの声。もしかすると今来店している客に手がかりがあるのではないか。
そうだとすれば、可能性があるのはスーツ姿の女性だろう。まったく見覚えのない女性だが、記憶を消したのではあれば当然のことだ。
恭平はそっと女性を盗み見る。
女性は食事を終え、コーヒーを飲んでいるようだ。動き出すなら、今しかない。
しかし……。
恭平は迷った。仮に彼女が恭平が削除した記憶に関わりがあるとして、そこにはそうするだけの事情があったはずだからだ。
カップをの取っ手をつかみ、いつもはゆっくりと味わうコーヒーを流し込むように飲む。
コーヒーを飲み終わったのだろう。腕時計を確認して女性は席を立ち、カウンターのすぐ隣のレジに足を進める。会計をする彼女を、気づかれぬよう横目で見る。肩より少し長い髪、すらりと伸びた姿勢、少しだけ丸い鼻。見たことがあるような気もするし、ないような気もした。
心臓が強く打っている。このままやり過ごすべきか、それとも。
会計を終えた彼女が店の扉をくぐっていく。鈴が退店を告げる。
恭平はカップをとって、ぐいとコーヒーを飲み切った。
やっぱり、この手掛かりを手放したくない。
「ごちそうさまです」
あわただしく会計をする恭平に、マスターはうつむいたまま言った。
「すみません。私のせいで、でもやめた方が」
恭平の意図がわかったのだろう。だが、恭平の気持ちは変わらない。
「大丈夫です」
何が大丈夫なのかはわからない。だが、何かが恭平を突き動かしている。こうすべきだと、背中を押しているのだ。
店の扉を開けると、女性がまだ立っていた。どうやら雨が降り出して、傘を持っていないようだ。
「僕の傘、使いませんか」
なけなしの勇気を振り絞って、恭平は女性に声をかける。そんなことをするタイプではない恭平には、今までになく大胆な行為だ。
振り返った女性は、驚いて戸惑っているようだった。
「僕は近いから、濡れてもいいんです」
「いえ、悪いです」
雨がぼつぼつと屋根や道路を打つ音と、蒸した雨の匂い。
いつか、彼女とこうやってこの店を出たことがなかっただろうか?親しく言葉を交わしながら、そんなことはなかったか?
雨の音を聞きながら、恭平は一気に言った。
「じゃあ駅まで送ります。相合傘が嫌じゃなければ、ですけど。たぶん長く続く雨じゃないし、まだ降っていれば降りた駅で傘を買えばいい」
女性は、噴き出すようにして笑った。これは承諾と取っていいだろうか。傘を開いて、「どうぞ」と言うと、彼女はためらいがちに傘の中に納まった。身体が触れないよう少し間を開けて、彼女が濡れないように傘をもつ。傘から出た肩を雨が濡らしていく。
「あの。どうして私が駅まで行くってわかったんですか?」
並んで歩き始めたものの、何を話したらいいかわからないでいた沈黙を破ったのは、彼女だった。言われて初めて、恭平もその事実に気づく。
「スーツを着ているから、これから会社に戻るのかと思って」
「ああ、そうだったんですね」
違う。それだけじゃない。しかし恭平には説明できるようなものが何もなかった。だが、「駅まで送る」と言ったその瞬間、自分はそれを確信していたと恭平は思った。
「わざわざ交通機関でこのカフェに?」
「はい。仕事でこっちに来て、帰りなんです。この店の青が綺麗だなと思って」
「店の名前の『Cielo Azur』って、スペイン語で青空という意味らしいです。マスターが空の写真を撮るのが好きで」
「……私、このカフェに来たことがあるような気がするんです。そんな覚えないのに」
「そうですね。あのカフェに呼ばれたのかもしれませんよ。僕も最初はあの看板の青に惹かれて入ったんです。僕はあの店のコーヒーが一番好きなんです。豆もいつもあの店で買ってます」
何気ない返しのつもりだったが、彼女は目を見開いて恭平を見た。
沈黙の下、雨が傘を打つ音だけがする。恭平は何かおかしなことを言っただろうかと、考えるが思い当たらなかった。
「そんなにびっくりしました?」
「いえ、豆が売ってるなら、買えばよかったなって」
「ぜひ常連になってください」
もう駅は目前だった。恭平は迷っていた。連絡先を聞くべきかどうか。そもそも教えてくれるかどうかわからないけれど。
構内に足を踏み入れ、恭平は傘を閉じた。さっと傘を畳み、彼女に差し出す。
「思ったより雨が続きそうです。僕の傘、持っていってください。もしまた会えたら、そしてその時傘を持っていたら、返してください」
「でも、あなたは?」
質問の答えの代わりに、恭平は言った。
「ナンパだと思われるかもしれませんけど、僕はあなたに会ったことがあるような気がするんです」
差し出した傘に彼女の手が触れた。傘を受け取ったのを認めて、恭平は別れを告げ雨の中を駆け出す。
もし彼女と過去に接点があったとしたら、それは知らない方がいい過去かもしれない。運命論なんて信じていないけれど、もしまた偶然会うことができたら、彼女のことをもっと知りたい。
雨は小降りになり始めていた。
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