後編

 冒険と銘打ったはいいものの、そんな子どもらしいことをするのは久しぶりであり、そうして外に出たからには相応に遠方へと出かけなければいけない、という気持ちがあった。

 ここで運転免許などを持っていれば、家の車を使うなり、近所で車をレンタルするなどして適当な場所に赴けたのだろうが、悲しいことに僕は運転免許というものを所持していなかった。とろうとしたことはあったけれど、経済状況がそれを邪魔した。だから、何かしらの公共交通機関を利用しての小旅行だけが僕の唯一の選択肢であった。

 兎にも角にも、まずは駅に行かなければいけない。頭の中でやるべきことを整理しながら、とりあえず徒歩で駅へと向かうことにした。……が、夏の暑さに数分で面倒くさくなってしまい、早速とばかりに僕はバスを使うことにした。

 いつもは先輩が使っている車に乗り合わせて、そうして現場の方へと向かう。こうした交通機関を使うのはやはり久しいものであり、バスの発車時刻を待つ時間がどこかむずむずするような感覚。どうやって乗るんだっけ、とか、そんな不安を心の片隅に抱いたりして、そうしてやってきたバスには、僕の前にいた他の客に倣って整理券を取って乗り上げた。

 人はまばらで空席が目立っている。特に優先席付近には人ひとりとして座っている様子はない。大概後ろの方の席ばかりに人は集中していて、その流れに身を任せたくなった自分がいたけれど、結局選んだ関は運転席の後ろの方。少し段が高めに設定されている席の方で、窓から流れる景色に視線を移して時間を潰した。

 次、止まります、としつこくバスの中ではアナウンスが流れていた。駅へと向かうこのバスの道程の途中にはショッピングモールがあった。その付近になると後方からごそごそと荷物を持ち運ぶような音が聞こえてくる。先ほど僕が倣わせてもらった客や、その前からこのバスに乗っている人間に関してはそこで降りるようで、最終的には僕と一人の女の子だけがバスの中に取り残された。

 前方に位置しているのに、それでも後ろを覗くのはどこか恥ずかしい。けれど、人の目が気になる性分だったから、降りる人間すべてに視線を合わせていた。訝しむような瞳がこちらに向けられた瞬間に、すぐに目を逸らしてしまったけれど、それでも大半の人間の姿を視界に入れていた。老若男女、だいたいは中年以降の女性が多い印象だった。

「ありがとうね」とそんな中年女性の声が聞こえてきた。そんな声へと再び振り返れば、そのあとで取り残される少女が僕の視線の中に入ってくる。その少女は夏らしくというべきか、麦わら帽子をわざわざつけていて、白いワンピースにその身を包んでいた。おおよそ小学生だろうな、というくらいの若さ。バスの中でくらい帽子を外せばいいのに、と心の中で呟いたけれど、現実に呟かれない声に彼女は反応せず、感謝を伝えていた女性に静かに頭を下げていた。丁寧だな、と思ったものだ。

 そうして二人っきりの空間。いや、詳しく言えば運転手を含めて三人だけの空間ではある。ともかくとして、僕と彼女だけが駅へと向かうバスの中に取り残された。手に握っていた整理券はどこか湿るような感触がしていた。別にずっと持つ必要なんてなくて、適当にポケットの中にしまい込めばいいだけの話だったのだろうが、その時はそんなことも考えられずに、ぼんやりと外の世界を眺めて、そういえばこんな建物があったなぁ、と子どもの頃に見た景色を比較して楽しんでいた。ただ、そんな時間を楽しんでいた。


 麦わら帽子の女の子も駅で降りるようだった。駅までの道中、様々に公園前やクリニック前を通ったりはしたものの、そのいずれにも誰かが乗り込んでくることはなく、少女が降りるようなことはなかった。

 駅の方へとついて、僕は整理券の番号を見つめていた。番号を見つめて、そうして前方に表示される料金表を見て、財布からそれに足る金額を用意する。その間に少女が降りてくれればいいな、とか思いながら、少し気まずく感じる時間の流れを誤魔化そうとした。

 後方に座っていた少女は駅につくとその腰を上げて、早速バスから出ようとしていた。けれど「あれ?」と少しとぼけたような声をあげて、途端に無表情だったその顔の中に困惑したような気持ちを孕ませるようにした。

「どうしたの?」と運転手は聞いていた。

「……すいません、ちょっと待ってください」

 彼女はそう言いながら、ワンピースの裾の方、というかポケットの方へと手を伸ばしては、何度も何度もそれをまさぐろうとするけれど、その甲斐はなかったようで、結局彼女の手は空っぽのままだった。

「……もしかして?」と運転手は察したように言葉を吐く。少女もそれに頷いて応えた。おおむね、財布を忘れた、とか、失くした、とかそういったものだと思う。

「あちゃー、そっか。……帰りとかもう一回バスを使う予定とかある?」

「いえ、その……」

 少女は気まずそうな声音で答えた。どうやら行きの目的でしかバスは使う予定でしかなかったらしく、その声に運転手も、どうしたものか、と息を吐いた。

 まあ、こういう日もあるよな、と僕は思った。自分だって大事な日に限っていろいろなことを間違えてしまうことがある。それと同じように、彼女も財布を忘れたり、失くしたりすることだってあるだろう。僕は未だに整理しきっていない財布の中から、余計な小銭を再び取り出すようにして、ようやく席から立ち上がることにした。

「いくら?」と僕は彼女に聞いてみた。

 えっ、と困惑するような驚く声をあげた彼女は、それからしばらくもないうちにバスの前方に表示されている料金表を指さした。彼女の指した先は一番の個所であり、最初からこのバスに乗り上げていることを示している。

 少し高いな、と思ってしまう自分もいたけれど、ここで値段を聞いておいて何も助けはしない、なんてことは恥ずかしいにもほどがある。結局余計に出した小銭はしまって、適当に紙幣を彼女に渡した。そんな様子を眺めていた運転手は少女に「何年生?」と聞いてくる。「五年生」とぼそっと回答をした彼女に「じゃあ半分で大丈夫だよ」と微笑みながら運転手はそう答えた。

 なるほど、それならば格好はつく、なんてそんなことを僕は思った。大したプライドでもないけれど、ここで出した紙幣についてはそのまま彼女に渡していった。彼女はそれを両替するために精算機で両替して、それから必要な金額をその箱の中に入れていた。余ったお釣りなどをじゃらじゃらと彼女は手で遊ばせて、僕にそれを渡そうとしたけれど、いいよ、と僕は断った。ここで受け取ってしまえば格好がつきづらい、と思ったのかもしれない。なんとなく僕は断ってしまった。

 ありがとうございます、と丁寧に彼女は頭を下げた。その角度はおおよそ直角に近いものだったと思う。いいよいいよ、と僕は微笑みながら返した。実際に、そういうこともあるよな、とそう思っていたから、どうでもよかった。

 そうして彼女はバスを降りていく。整理券とその番号に関連している金額を前方にある箱の中に放り入れて、適当に、ありがとうございました、と運転手の方へと声をかけた。

 こちらこそどうもね、なんて声が返ってくる。まあ、そういうこともあるよな、と何度も僕は思ったものだ。


 駅にたどり着いてから、僕はしばらく改札口の近くにあった路線図を眺めて時間を過ごした。そういえば目的地というものを定めないままここに来てしまったなぁ、とか思って、路線図の中でそれを決めようと思った。

 北に行こうか南に行こうか。北に行けば現在地よりも都会のような景色が広がっている、南に行けば田舎のような景色が待っていることを、僕はなんとなく知っていた。さらに南の方に行けば海なんかもあったよな、と昔家族で旅行した時のことを思い出したりして、そうして選んだのは南に下る場所。

 海に行きたい、とか、泳ぎたい、とか、そんなことは思っていない。第一に水着なんて持ってきていなかったし、ただぼんやりと南に行くことに決めた。昔馴染みの景色があれば、その景色に視界を浸せば、どこか満足感のようなものが心の中に宿るのではないか。そんな期待に近い気持ちで、少し高めの切符を買った。

 改札口をくぐって、階段の方を降りていく。駅の構内こそは日陰になっている部分が多くて、少しばかりの涼しさを感じたが、階段を下るたびに感じる熱気のようなものがどこか鬱陶しく感じた。それから下る電車が来る方に適当に立って、それが来るのを待っていたけれど、次第に喉が渇いて自販機を探す。

 下った先から少しだけ歩いた先、駅構内の真下と言えるような場所に自販機はあった。その付近には休憩所、のように屋内として設置されているスペースがあって、その扉の付近は湿気によって曇っている。だが、その中にいる人間に関しては涼しそうな表情をしており、なるほど、こういうものもあるのか、と少し新鮮な気持ちになった。

 それはそれとして、気になるものも視界の中に入った。

 僕と同様に南を目的地としているのか、下りの電車が来る黄色い線の前で、呆然と立ち尽くしている姿があった。先ほど見かけた麦わら帽子の彼女だった。

 やあ、と僕は声をかけた。喉の渇きよりも衝動的な行動で、衝動的すぎるがゆえに声をかけた後、これは不審者だと間違われるんじゃないか、とか一瞬思考が過ったけれど、それでも声を出していたから時すでに遅し、という具合。

 だが、彼女は僕の声に一瞬背筋を弾ませた後、こちらに顔を向けてくる。あっ、と僕の姿に気づいた声をあげて、それからまた直角に頭を下げてくる。

「先ほどは、ありがとうございました」

 丁寧だなぁ、と僕は思いながら「いいよいいよ」と返してみる。それに彼女はまた頭を下げようとしたけれど「本当にいいから」と周囲の視線が苦しくなるのを感じて、僕はそれを制した。彼女は慌てた様子だったけれど、それ以上に頭を下げることはしなかった。


「何処に行くの?」と僕は彼女に聞いていた。

 声をかけたからには何かしらの話題を挙げなければいけない。そんな気持ちで適当な言葉をかけていた。それに彼女は一瞬表情を伏せたけれど、しばらくの呼吸を紛らわせたあと「おばあちゃんの家です」と声を吐いた。

「へえ、いいね」と適当な相槌を打った。僕が祖母と祖父に会うときには必ずセットで両親もいたから、相槌を打った後に「一人で?」と付け足してみる。それに彼女は頷いた。

「本当はお母さんも来るはずだったんですけど、忙しくなっちゃったみたいで、私一人で行くことになりました」

 へえ、と再び同様の相槌を打った。もっとましな言葉が出ればよかったのだけれど、それでも気の利く言葉が思いつかなかった。一人ですごいね、なんて声をかけても、それだけで会話が終わるような気がしたから、結局そんな相槌だけを打つしかなかったのだ。

 それからは、しばらくの沈黙が続いた。休憩所に入って二人で涼めばいいのに、それでも適当にその場に立ち尽くして、互いに空気を伺うような空間が出来上がった。僕は視線をきょろきょろと動かしてみて、その視界の中に入ったものに声をあげた。

「アイスでも食べる?」

 飲み物の自動販売機の隣には、アイスクリームの自販機が設置されている。コンビニとかでは買えない代物ばかりが並んでいるそれを見て、僕は彼女にそう声をかけていた。

 彼女は、ようやく気まずそうな表情から少し緩んだような笑顔を浮かべた。


「いいんですか?」と彼女は何度も聞いてくる。もうその手にはアイスが握られているのに、それでも彼女はしつこいくらいに声をかけてきた。だから、その度に、いいよいいよ、と決まり文句のような言葉を返して、互いにアイスを頬張った。

 僕はソーダ味で青色のアイスを買った、彼女は無難というべきなのか、それとも値段を見て判断したのか、僕のよりも二十円安いバニラのアイスクリームを買っていた。

 夏の空気に絆されたアイスはすぐに柔らかくなり、包装紙を取るだけで少し手がべとべとする。彼女も同じようで、うぇー、と子どもらしい嫌そうな声をあげたあと、近くにあったゴミ箱に包装紙を捨てて、それでアイスを頬張っていく。

 なんとも言えない時間。なんでもない時間。電車が来るまであと数分くらい。それでもアイスを食べ尽くすことができるくらいの余裕は残っていて、互いに無言になって静かにアイスを頬張っていく。脳にちらつく頭痛、勢いよく食べ過ぎたかもな、という実感が後悔となってやってきては、自分の大人げなさのようなものを覚えて苦笑する。

「美味しい?」と僕は電車が来る一分前くらいに聞いてみた。

「はい、とても美味しいです!」

 彼女からそんな声が返ってくることはわかっていたはずなのに、それでも実際に予想していた通りの言葉が届いて、どこか心が穏やかになる。

 そんな頃合いで電車はやってくる。ブレーキをかけたように軋んだ音、空気を吐き出したような音が重なり、そうして電車は目の前に止まった。

 電車が来て、彼女の手元を見れば、アイスクリームはすべて平らげられているようだった。

「ありがとうございました!」と彼女は言葉を紡いで、そうして決められたように電車の中へと乗り込んでいく。僕もそれに乗り込めばいいのに、頭の中に残るアイスクリームの痛みがちらついていて、そうっと手を振るようにしてその場を後にした。

 なんてことはない小旅行、……とも言えないことかもしれない。なんだかんだ気が晴れてしまって、それからどこかに行くようなことはせず、結局家に帰ったのだから、小旅行なんてものではないのだろう。


 別に、こんな些細な記憶なんて書く必要はないのだろう。こんな適当な文章を書く意味合いなんてないのだろう。それでも、なんとなく言葉を並べて、そんな記憶を残したくなった。些末で、そして粗末なこんな文章を、取り留めのないひと時のことを。

 だから、書いてみた。適当でも、空想のような思い出であっても、それが現実にあったことだとしても、何かしらの文章としてこれを書いてみた。

 ああ、これでいい、これでいい。

 そんなどうでもいいと言える一つの記憶を書き終えた。そんな自分に満足しているから、きっとこれでいいのだろう。

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なつのこえ @Hisagi1037

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