アグネーテの宙
降る星
この世界の空には、境界がある。
アグネーテ・ヴィンターは、天を塞ぐ
かつての夏は、もっと蒸せるように熱く、気まぐれに空から降る水と、突き抜けるような青空とで構成されていたらしい。記録映像でしか知らない、地球の夏。
端的に言うと、過ごし辛そうだと思う。それでもこれだけ記録が残っているということは、人々を惹きつける何かがそこにはあったのだ。
——1日だけでも、知ってみたいわ。
想いは呟きにもならず、心を揺らした振動は音もなく足元の床に吸い込まれていった。
SE-HASS——地球環境再現型ヒト意識格納装置。その根幹には、意識の自己性を希薄化させるための薬液、Amless——アメレスがある。
その開発に関わるということは、人間の死と意識の境界を扱うということだった。
アグネーテが携わっているのは、アメレスの改良プロジェクトだ。現在主流となっているロットでは、自己性をうまく抑制できない
「コストを抑えて性能も良くしろだなんて、本気で言ってるのかしら……」
Beta-3の第七研究棟、温度管理されたアメレスラボに立つ彼女の表情は、他の誰よりも凛としている。それは、
同僚が声をかける。
「滲み出しも現状0.1 ‱ですし、そんなに問題視するものでもないとは思います。それよりもコストですよ」
理解しているが、口にせざるを得ない。
もう何日頭を悩ませているかわからない。
「封印を抑える調整も……進めてるけれど。とにかく、キーとなるエリアを見つけて、特異性を上げないと」
目の前の実験に戻る。糸口は、見えない。
矛盾に満ちたモチベーションが、彼女を動かしていた。
自分たちの祖先が地球を汚した罪を、今を生きる人々に課してはならない。
例えそれが、仮初であっても——
——私たちにできるのは、せめて、還る場所を作ってあげること。本当の贖罪は、未来に託す。
同僚たちはアグネーテを敬意と距離の入り混じった目で見ていた。
研究者であり、哲学者であり、ひとりの母として、彼女は闘っている——
アグネーテの研究動機は、地球に対する喪失感に根ざしていた。人類がかつて住んでいた、あの惑星。人が走り、汗をかき、空を仰ぎ、互いの顔を見ながら語り合った星。そう言われている。
それは、赤黒く汚れた姿として、今は天蓋の向こうに浮かんでいる。
本当は、いつかあの地に立ってみたいと願っていた。だが、それは無理だとわかっている。だからせめて、この閉ざされた月面都市に住む人々の苦痛を和らげたい——そんな思いで、彼女はアメレスの調整に心血を注いでいるのだった。
そしてもうひとつ。彼女は空に閉塞感を覚えていた。張り巡らされた人工ドーム、制御された気象、再現された、かつての自然。いずれも模倣でしかなく、本物ではないと感じてしまう。
いつかは、この星から飛び立ち、まだ見ぬ宇宙を旅することはできないのか——この目で、この心で、未知を体験したい。
地球への贖罪と共に、そんな想いも燻っている。
⸻
仕事を終え、自宅に戻ると、夫が台所に立っていた。温かな煮込みスープの香りが、今日の失望をほんの少しだけ溶かしていく。
「おかえり。もうすぐ、名前決めないとね」
夫の利成はSE-HASSの意識維持アルゴリズムを担当するエンジニアだ。月の様々な都市から集められた科学者同士の結びつきのなかで、唯一、宙の感覚を語り合える相手だった。
「そうね……“夏希”はどうかしら?」
「なつき……」
「この世界の夏じゃないわ。この子の夏は、地球の夏。かつて失われた季節を、
夫は目を細めて微笑んだ。
「……いい名だ」
アグネーテはそっと腹に手をあてた。その向こうに、閉じられたドームの天井。そのさらに向こうに、黒く燻んだ“地球”。
——夏は、そこにあったのよね。
まだ見ぬ娘には、空ではなく宙を追い求めてほしい。遠く、遠く、果てのないその先へ。
⸻
夜。アグネーテは妙な胸騒ぎに目を覚ました。
寝室を抜け、仕事用端末を開いた。通知が届いている。研究所長から非公開ディレクトリが案内されていた。送付先は10名ほどで、CCには夫の名前もある。
開いた資料に浮かぶのは、月面重力計と軌道演算ログ。そして、予測衝突マップ。
——機密情報。研究所の中でも限られた人間にしか送付していない。大型彗星が月に接近中。推定衝突まで130年。回避不能。明日より本研究所にも極秘のプロジェクトが下る——
画面には、軌道予測図が静かに回転していた。点滅する交点。月軌道と、赤くマークされた重力物体。
監視システムのデータから計算されたその図は、冷徹な現実を突きつけていた。
月は、地球は、滅ぶ。
130年後、この星は確実に終わる。
アグネーテは静かに画面を閉じた。涙は出なかった。ただ、大いなる意志を感じた。
地球への罪を償えない人類への、宙からの鉄槌か、いや、死にかけの地球を安らかに葬るための干渉だろうか。
アグネーテが感じたのは恐怖ではなかった。
むしろ、決意に近かった。
胎動に、手を当てる。
この滅びゆく世界で、自分は何を残すべきか。この子に、何を託すべきか。
——空ではない。“宙”を。
⸻
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます