被験体

 夏の日。

 私は明るい通りを歩きながら、駅へと向かっていた。もうしばらくすると、また冬に差し掛かる。だからこそ、今日という日は少しだけ特別に感じられる気がする。


 今日は、仕事で別の都市、Alpha-9へと向かわなければならない。都市間を繋ぐトンネルを走る高速車両、Mole Unitに乗り込み、2時間の旅路。私が自分の居住都市を離れるのは、十年ぶりのことだった。


 目的は研修。

 Alpha-9には、記憶忘却に関する最先端の研究施設がある。研修プログラムは、SE-HASS ——地球移送前の記憶封印効率化に関する講義と、施設の実地見学だ。

 以前この研修に参加した同僚は、私の知る限り一人しかいなかった。彼は「午前の講義が重かったのか、午後のことはよく覚えていないんです」と、気恥ずかしそうに笑っていた。


 推薦してくれた精神保存科の科長は「優秀な看取師が選ばれる研修だ。誇りを持って学んでこい」と送り出してくれた。


 Beta-3を発つ。乗客は少ない。

 窓側の席に座り、荷物をシートに置いた。


 ——地球って、自由ですか?

 夏希の言葉は、今も心の中に残っている。

 SE-HASSに違和感を抱く人間が、こんな研修に参加して良いものだろうか。


 正直、行くべきか迷った。

 だが、それでも、これは良い機会だと思い直した。疑問があるなら、それをぶつけるためにこそ、私は行くのだ。





 普段出勤する時間より遅く、Alpha-9に到着する。

 それでもいつもより早めに家を出ていた。

 少し眠気を感じる。あくびをかみ殺しながら、病院へと向かう。

 Alpha-9 Medical Sector 2——

 第二総合病院、と言ったところだろうか。


 駅からは徒歩20分ほどの距離だ。久しぶりの長距離歩行で、やや汗ばむ。


 入館手続きを済ませると、すぐに施設の規模が違うとわかる。

 広々としたロビー、無駄を省いた洗練されたデザイン。

 案内に従って5階へ向かうと、広い会議室に通された。既に2人が着席しており、どちらも私の都市出身ではないようだった。


「Hi」


 1人が私に声をかける。私は慣れない言語で挨拶を返した。

 着席し、方耳につけた端末の電源を入れる。コミュニケーションを齟齬そごなく行うためだ。私の様子を見て、2人も端末を装着し始める。


 15分ほど待つと、陽気な雰囲気を漂わせた壮年の男が入室してきた。受講者は3人、どうやら私が最後だったようだ。

 

 午前の講師だろう。その口元に笑みを湛えながら、私たちを見渡す。


「はじめまして。ようこそ、Alpha-9都市へ」


 自信たっぷりの、余裕のある笑み。

 私はこの手のタイプが苦手だ。


 男は続ける。


「ここでSE-HASSの研究を率いている、Justin Reynoldsです。本日はどうぞよろしく」


 レイノルズ、姓はそう聞こえた。

 明るい声。軽い印象のある見た目だが、不思議と威圧感を感じる。


 彼はそのまま今日のスケジュールを説明した。午前は講義、午後は施設内ツアー。最先端の研究現場を見学する機会があるらしい。

 説明が終わると、彼は私たちの端末に講義資料を送信し、背後の空中スクリーンにも同じ内容が表示された。


 せっかく来たのだ。私は集中して講義に臨んだ。





 午前の研修が終わった。

 どこかで昼食を取ろうと立ち上がったとき、レイノルズが私を呼び止めた。


「久瀬さん、少しお待ちを」


 何だろうか。ランチの時間はあまり邪魔されたくないタイプの私は、また少しこの男が嫌いになる。


「こちらの施設はセキュリティが厳重でして、引率者なしでの外出はご遠慮いただいております。ランチはこちらでご用意しておりますので、どうぞ」


 そう言って、彼は誰かに通信を入れた。


 やがて、青年がランチボックスと飲み物を手に現れる。名札を見ると、青年の名はNicoというらしい。読みはニコだろうか。

 彼は参加者に順番にランチを配っていく。私の前に来たとき、目を見て少し微笑んだ気がした。


 何故だろう。私は、彼に特別な印象を与えるような人物ではないはずだが——


 30分ほどで食事を終えた。

 ニコが再び現れてランチボックスを回収する。彼は私の容器が空であることを確認しているようだった。今度は微笑んでいない。


 その後、レイノルズも部屋に戻ってきて、ニコが回収した容器の確認を始める。何故そんなことをするかよく分からなかったが、彼は念入りにそれらがすべて空であることを確認すると、静かに言った。


「さて……皆さん。ここからが本番です」


 一瞬、部屋の空気が変わった。

 誰もが、午後の施設ツアーが始まるのだと思っていた。けれど、次の言葉がそれを否定する。


「皆様をお呼びしたのは他でもありません。皆さんが、記憶の封印、制御のプロフェッショナルであるからです」


 なぜ、今更そんなことを言い出す...?


「優秀なみなさまには、ある被験体の記憶制御に協力していただきます」


 静まり返った会議室に、彼の穏やかな声が響いた。

 その直後、端末に新しい資料が届く。


 画面に表示される資料。

 その最上段が目に入る。


 Subject 0071: Minato Sato

 被験体 佐藤湊——


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