第8章:夏
夏休みに入り、学園を覆っていた不穏な空気が遠い彼方に消え去ると、ハルはルナに旅行を提案した。それは、ただの息抜きだった。これまでの緊張から二人を解放し、心ゆくまで他愛もない時間を過ごすためだけの、特別な贈り物。
「システムで最適な場所を探した」ハルは、差し出した端末の画面に、松島の写真を表示させた。「人里離れていて、景色も穏やかだ。観光データも豊富で、楽しめそうだ」
ルナは画面に映る、無数の島々が浮かぶ青い海に目を奪われた。
「松島…綺麗な場所ね!ありがとう、ハル!」
彼女の表情には、久しぶりに心からの輝きが満ちていた。ハルが、自分一人で全てを背負い込まず、こうして自分を誘ってくれたことが、何よりも嬉しかった。
数日後、二人は新幹線と在来線を乗り継ぎ、松島へと向かっていた。ハルの手は、いつものようにルナの手を優しく包み込んでいる。窓の外を流れる景色は、見慣れた都会の風景から、次第に緑豊かな田園風景へと変わっていく。ルナは、ハルの隣で、まるで小さな子供のように外の景色に見入っていた。ハルは、そんなルナの横顔を、静かに見つめていた。彼の表情は、普段の学園で見せるような警戒心や厳しさがなく、どこか穏やかだった。ルナが、ふと彼の視線に気づいて振り返ると、ハルは小さく微笑んだ。その笑顔は、彼がルナにだけ見せる、とっておきの表情だった。
松島海岸駅に降り立つと、潮の香りが二人の頬を撫でた。目に飛び込んできたのは、静かに波打つ青い海と、点々と浮かぶ緑豊かな島々の壮大な景色だった。遊覧船が静かに波を切り、空にはカモメが舞っている。学園の陰鬱な空気とはかけ離れた、開放感と穏やかさが二人を包み込んだ。
初日は、まず松島湾の遊覧船に乗って、点在する島々を巡った。船が夫婦島の近くを通ると、ルナが「見てハル!本当に夫婦みたいに寄り添ってる!」と興奮したように指差す。ハルは彼女の目線に合わせて、その島をじっと見つめた後、小さく頷いた。普段、感情を表に出さない彼が、ルナの心からの喜びに、ごくわずかながらも共鳴しているのがルナには分かった。甲板を吹き抜ける風が心地よく、ルナの髪を揺らす。ハルは、その風から彼女を守るように、そっと肩を抱き寄せた。カモメが船の周りを舞い、ルナが手を差し出すと、一羽が驚くほど近くまで飛んできた。ルナは歓声を上げて、ハルの腕にしがみついた。
昼食は、松島さかな市場で存分に楽しんだ。活気あふれる市場の雰囲気は、学園の閉鎖的な空気とは真逆で、ルナの心に活力を与えた。新鮮な魚介が並ぶ屋台を冷やかし、焼き牡蠣の香ばしい匂いに誘われて、二人で立ち食いの牡蠣を味わった。ルナが熱々の牡蠣を一口食べると、「熱いけど、すごく甘い!こんなにジューシーなのね!」と声を上げた。ハルも普段はあまり見せない満足そうな笑顔で、彼女の隣で牡蠣を頬張った。ルナが自分の分からハルに一切れ差し出そうとすると、ハルは戸惑いながらも、その一片を受け取って口に入れた。その小さなやり取りが、二人の間に流れる温かい空気を一層深めた。
午後は、松島を象徴する瑞巌寺へと足を運んだ。荘厳な佇まいの本堂や、伊達政宗が再建したとされる歴史ある建造物に、ルナは感銘を受けていた。本堂の広間では、観光客の喧騒から離れ、静かに座って庭を眺めた。ルナは、苔むした庭石や、手入れの行き届いた松の木々を眺めながら、どこか遠い時代に思いを馳せているようだった。ハルは、そんなルナの横顔を、ただ静かに見つめていた。彼の視線は、周囲の美しい庭園ではなく、ただルナの安らかな表情に注がれていた。彼は、ルナが心からリラックスし、笑顔を見せてくれることが、何よりも嬉しかった。
夕食は、海辺の小さな旅館で、地元の食材をふんだんに使った会席料理を楽しんだ。窓からは、静かに波打つ松島湾の景色が見える。ルナが「すごく美味しいわ。ハルも、もっと食べて」と勧めるたびに、ハルは珍しく箸を進めた。特に、地元の旬の魚を使ったお刺身の盛り合わせは、ルナが「宝石みたい!」と目を輝かせ、ハルも静かに頷きながら味わっていた。
夕食後、貸し切り風呂から戻ったルナは、浴衣姿で部屋に戻ると、ハルがテーブルの上に広げていたものを見て目を丸くした。それは、小さな旅の道連れとして持ってきたのだろう、トランプとUNOだった。
「やるか?」ハルが、無表情ながらも少しだけ楽しそうに問いかける。
「え、ハルがトランプ?意外!」ルナは笑いながらハルの隣に座った。「何する?ババ抜き?大富豪?」
最初は静かに始まったゲームは、すぐに白熱した。特にUNOでは、ハルがまさかの「ドロー4」を連発したり、「リバース」でルナのターンを飛ばしたりと、意外な戦略家ぶりを発揮。ルナは「えー!ハルってばずるい!」と声を上げ、時には負けて悔しがり、時には勝って喜びの声を上げる。ハルも、ルナのリアクションを見て、普段は決して見せない微かな笑みを浮かべた。システム解析で培った彼の思考力は、ゲームでも遺憾なく発揮され、ルナを翻弄した。その度、ルナは「もう!ハル、天才ハッカーは伊達じゃないってことね!」と呆れながらも、心から楽しそうだった。彼らの笑い声が、普段静かな部屋に響き渡った。
ゲームに飽きると、二人は部屋に備え付けられたベランダに出た。夜風が心地よく、波の音が穏やかに響く。目の前には、月明かりに照らされた松島湾が広がっていた。無数の島々が、夜の闇の中に幻想的なシルエットを浮かべ、水面には月の光が銀色の道を映し出している。
ルナは、手すりに肘をつき、大きく深呼吸した。「今日の月、すごく綺麗ね…。ここにいると、本当に心が落ち着くわ」
ハルは、ルナの隣に立ち、彼女の肩にそっと腕を回した。
「ああ。いい場所を選んだ」
「ふふ、さすがハルね。システムはこういう時も役に立つんだ」ルナが微笑む。
そして、ルナはぽつりぽつりと話し始めた。「ねえハル。私、ずっと『完璧な生徒会長』でいなくちゃって、自分を縛り付けてたの。みんなが私に期待するから、応えなくちゃって。でも、本当は、すごく苦しかった。弱音を吐いたら、みんなが失望するんじゃないかって…」
彼女の声は、夜の静けさに溶け込んでいく。ハルは、何も言わず、ただルナの言葉に耳を傾けていた。彼の腕の力が、少しだけ強まる。
「でも、ハルが助けてくれた。あなたが『大丈夫だ』って言ってくれた時、本当に心が軽くなったの。完璧じゃなくても、弱くても、ハルは私をそばに置いてくれるんだって…」
ルナは、ハルの胸にそっと顔を埋めた。彼の温もりが、彼女の心を優しく包み込む。
「ルナは、ルナのままでいい」ハルが、静かに、しかしはっきりと呟いた。その言葉は、ルナの心に深く響いた。
「ありがとう、ハル」
ルナは顔を上げ、ハルの瞳を見つめた。夜の闇の中でも、彼の瞳の奥に宿る、揺るぎない光が見えた。それは、ルナを照らし、未来へと導いてくれる、希望の光だった。
翌朝、二人は円通院へと向かった。苔むした石畳の参道を歩き、美しい庭園を眺める。特に、バラ園は季節外れながらも、まだいくつかの花が咲き誇り、その鮮やかな色彩がルナの心を明るくした。ルナは、小さなバラの花に顔を近づけ、その香りを深く吸い込んだ。
「この香り、すごく落ち着くわ…」
ハルは、そんなルナの様子を静かに見守り、彼女が求めるままに、その場に長く留まった。彼は、ルナが心の底から喜ぶ瞬間を、何よりも大切にしていた。ルナが気に入ったバラの種類について熱心に話すと、ハルは黙って頷き、そのバラの特徴を記憶していくようだった。
その後、彼らはガラス工芸体験に挑戦することにした。小さな工房で、吹きガラスの体験ができると知ったルナが目を輝かせたからだ。炉の熱気に驚きながらも、二人は職人の指導のもと、色ガラスを溶かして息を吹き込み、オリジナルのグラスを作った。ルナが吹き棒を握りしめ、一生懸命息を吹き込むと、ハルはそっと彼女の背中に手を添えて支えた。ハル自身も、普段はデジタルなものしか扱わない手が、熱いガラスを形にするというアナログな作業に集中していた。完成したばかりの、少し歪だが二人だけのグラスを見て、ルナは破顔した。「見てハル!私たちのグラスよ!」ハルも、自身の不器用な作品を見つめ、珍しく満足げな表情を浮かべた。
午後は、五大堂へ。透かし橋と呼ばれる橋を渡り、国の重要文化財に指定されている堂宇を間近で見た。橋の隙間から見える海面は、光の反射でキラキラと輝き、ルナの心を研ぎ澄ませた。彼女は、目の前に広がる穏やかな海を見つめながら、ハルと並んで立つ。潮風が頬を撫で、カモメの声が遠く聞こえる。この瞬間、ルナは、ハルの隣にいることが、何よりも自分を強くしてくれるのだと、改めて実感していた。
旅館に戻り、夕食を終えると、二人は部屋の縁側で、再び夜の松島湾を眺めていた。この夜は、空に雲が多く、月は厚いベールに覆われていたが、それでも水平線には漁火(いさりび)の小さな光が瞬き、幻想的な風景を作り出していた。静かに波の音が打ち寄せる中、二人の間に流れるのは、心地よい沈黙だけだった。
しばらくそうしていたルナが、ふとハルに尋ねた。「ねえハル、もし…もしも、世界中のシステムが全てなくなっちゃったら、ハルはどうするの?」
ハルは、一瞬考え込むように目を閉じ、それからゆっくりとルナの方を向いた。「……それでも、お前がいれば、俺は何も困らない」
その真っ直ぐな言葉に、ルナは胸が熱くなった。彼にとって、システムはあくまで道具であり、彼の世界の中心は、常に自分なのだと、改めて実感したからだ。
「ありがとう、ハル」ルナは、彼の腕にそっと自分の頭を預けた。
ハルは、そんなルナの髪を優しく撫でながら、静かに語り始めた。「俺は、ずっとシステムとデータの中で生きてきた。感情を読み取るのは苦手だし、人との関わり方もよく分からなかった。でも、ルナと出会ってから、変わった。お前の笑顔が見たかった。お前が苦しんでいるのが、システムエラーのように感じられた。お前を守りたいと、初めて強く思った」
彼の声は、普段よりも少しだけ感情がこもっているように聞こえた。それは、彼がルナの前でだけ見せる、素直な心の表れだった。
ルナは、彼の言葉に涙が滲んだ。ハルが、こんなにも自分を大切に思ってくれていることを、改めて知ることができた。彼女は、ゆっくりと顔を上げ、ハルの瞳をじっと見つめた。「私もよ、ハル。ハルがいてくれたから、今の私がいる。ハルがいてくれたから、私は強くなれた」
二人の視線が交差する。そこには、言葉以上の、深い理解と、揺るぎない信頼が宿っていた。
夜が更け、二人とも眠りについた。松島の穏やかな波の音だけが、静かに二人を見守っていた。この旅行は、二人が互いの存在を深く心に刻みつけ、来るべき困難を共に乗り越えるための、確かな絆を育む時間となっていた。
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