第2話 いざ、新天地へ

 旅立ちの朝。

 リゼットは屋敷の人々と挨拶を交わし、茶革の旅行鞄をたずさえて歩き出した。


 建物の外に出ると、澄んだ青空に赤やオレンジが溶け合うような美しい朝焼けが広がっている。


 これから向かう北方のシュヴァリエ伯爵領は、ここよりも涼しいらしい。


 そのため今日の装いは、胸元にレースのリボンをあしらった白い長袖のフリルブラウス。


 マリンブルーの涼しげなスカートが、清々しい風に吹かれてふわりと揺れる。


 足元には、奮発して買ったまま履く機会がなかった新品の革靴を合わせた。


 いつも給仕服ばかりだから、こうしてお洒落をして歩くだけでも自然と胸が高鳴る。



(さあ、行こう──!)



 リゼットは弾む足取りで、人生の新たな一歩を踏み出すのだった。




 まずはダレス駅から汽車に乗り、エルゼニア王国の北部地方を目指す。


 切符を確認しにきた係員によると、シュヴァリエ伯爵領で最も大きな街ブルーズまでは六時間ほどかかるそうだ。


 現在の時刻は午前七時。

 順調にいけば、昼過ぎには目的地に到着できるだろう。


 新天地へ向かう車窓の眺めは、近代的な街並みから郊外の緑豊かな風景へと変わっていく。


 ほんの少し窓を開けると、吹き込んでくる柔らかな初夏の風。花の香りだろうか、ほのかに甘い匂いが鼻をかすめた。


(気持ちいい……。こんなにリラックスできたの、何年ぶりだろう)


 流れゆく景色をぼんやりと眺めていれば、お腹が『ぐ、ぐぅぅ』と鳴りはじめた。


 いつもであれば、とっくに朝食を済ませている時間。


(どうりでお腹も空くはずね)


 リゼットは旅行鞄から駅構内の売店で買ったパンと飲み物を取り出した。


 包み紙の中は、こんがり焼き目のついたクロワッサン。


 小麦とバターの甘く香ばしい匂いに食欲をそそられ、思わずゴクリと生唾なまつばを呑み込む。


 焼きたてだからかまだ少し温かく、一口噛めばサクッと軽やかな音がする。


 外側はパリッとして香ばしく、中はしっとり。噛むごとにバターの濃厚な味わいが口いっぱいに広がった。


(おいしいぃ……)


 ここのクロワッサンは以前食べたことがあるけれど、今日は一段と美味に感じる。

 きっと車窓の雄大な眺めと旅の高揚感が、最高のスパイスになっているのだろう。


 サクサク食感と芳醇ほうじゅんな風味を楽しんでいるうちに、あっという間にひとつ目を食べ終わってしまった。


 続けて取り出したのは小麦色のバゲットにローストチキンと夏野菜、チーズをたっぷり挟んだ食べ応え満点のサンドイッチ。


 合間にオリーブの塩漬けを摘まみながら、こちらもペロリと平らげる。


 ここに深煎りのコーヒーがあれば完璧だったのだが残念ながら売っておらず、かわりに買ったダレス地方の名産品である葡萄ぶどうジュースで喉を潤す。


 食欲に火がついてしまったリゼットは、後で食べようと思っていたシフォンケーキまで完食してしまった。


 ──シュヴァリエ伯爵領って、どんなところなんだろう。美味しい食べ物がたくさんあるといいな。



 ꙳✧˖°⌖꙳✧˖



「お次はベルアスト、ベルアスト~。お降りの際は、お忘れ物のないようご注意ください」


 通路を歩いていく係員の声が耳に届き、リゼットは本の間にしおりを挟んで顔を上げた。


 読書に夢中になっているうちに、随分と時間が経っていたようだ。


 窓の外を流れていく牧草地の風景。遠くに草をむ牛の姿が見え、懐かしさがこみ上げてくる。


 ベルアストはリゼットの生まれ故郷であり、今でも実家では両親と兄が牧場を営みながら暮らしている。


 転職することを手紙で伝えた際、家族からはこんな便りが返ってきた。



【愛娘リゼットへ。


 突然の知らせに驚いたが、よくよく考えた末の決断なのだろう。

 顔を見せに寄ってほしいが、残念だが今回は日程的に難しそうだな。

 ただまぁ、勤め先が近くなったのだから、次回の休暇は以前より長くいられるのだろう? 


 家族全員、会える日を楽しみにしているよ。

 

 ──メイエール家を代表して、父より】

 


 ベルアスト駅に停まっていた汽車が動き出し、家族の顔を思い浮かべていたリゼットは過ぎゆく郷里に別れを告げるのだった。




 さらに時は経ち──。


「終点~、終点~。次は終点のブルーズです。お降りの際は、お忘れ物のないようご注意ください。本日はご乗車いただき、誠にありがとうございます」


 到着を知らせる係員が足早に通路を歩いて行き、それからまもなくして汽車は速度を落として停車した。


 さすがはシュヴァリエ伯爵領で最も栄えている商業都市。

 ブルーズの駅は、想像していたよりも立派で広々としていた 。


 時間があれば観光していきたいところたが、残念ながら今日の目的地はここではなく、さらに北に位置するアントウェルという街。

 

 売店で昼食を調達し駅舎の外に出れば、ひんやりとした風がリゼットの頬を撫でた。


「涼しい。……というより、ちょっと寒いっ!」

 

 念のために長袖のブラウスを着てきたがそれでも肌寒く、リゼットは旅行鞄からカーディガンを取り出して羽織った。


 そして賑わう駅前広場を見渡し、ロータリーに停まっている鷲の紋章がついた立派な馬車へと近づく。


「すみません。私、リゼット・メイエールと申します」


「あっ、お待ちしておりました。さあ、どうぞ」


 御者が箱馬車の扉を開けてくれたので、リゼットは会釈して乗り込んだ。


「アントウェルまでは二時間近くかかりますから、到着までどうぞごゆっくり」


「分かりました。ありがとうございます」


 車内は広々としており、座面は身体を優しく包み込むように柔らかかった。

 これなら長距離でもお尻や腰が痛くなることはなさそうだ。


 馬車はやがて賑わうブルーズの街を抜け、珍しい形の木々が生い茂る街道をひたすら北へと進んでいく。


 向かいの座席にあるバスケットの上には、【長旅お疲れ様です。軽食をどうぞ】というメモが添えてあった。


 ──わざわざ用意してくださったのね。ありがとうございます。


 蓋を開ければ、中には手軽に食べられるパンや果物、飲み物などが入っていた。


 ──あぁ、美味しそう……。もうお腹がペコペコ。いただきます!


 リゼットはブルーズ駅で購入した昼食とバスケットの中身、どちらもありがたく胃に収めたのだった。



 馬車に揺られること二時間弱。

 冷たい空気を感じて二の腕をさすりながら窓の外に目を向ければ、遠くの方に雄大な山々が連なっていた。


 頂上付近はまだ白く雪が残っており、ここがエルゼニア王国最北の地だと改めて実感させられる。


 あの山脈を越えた先は、隣国キーベル。

 今でこそ和平が結ばれ両国の関係は良好だが、かつては一触即発の緊張状態にあったという。


 その名残として、これから向かう国境付近の街アントウェルには堅牢な城壁が残っており、山々のふもとには今もいくつもの要塞が点在しているらしい。


 しばらく馬車は走り、坂を下った先に見えてきたのは、石造りの立派な城壁だった。


 ──あれがアントウェルの街かな?


 速度を落としはじめた馬車がアーチ型の城門をくぐれば、窓の外には美しい街並みが広がった。


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