わけありメイドの転職

葵井瑞貴@11/14書き下ろし新刊発売

1章 人生の転機

第1話 波乱を呼ぶ贈り物

 リゼットは視線を落とし、執務室の奥にあるデスクへと歩みを進めた。


 新たな雇い主となるアレクシス・シュヴァリエ伯爵の前で一礼し、顔を上げた瞬間──。


 目に映ったのは、美しい男性の姿だった。


 艶やかな黒髪に、深紫色の神秘的な双眸そうぼう


 整った顔立ちは非の打ちどころがなく、右目の下にある泣きぼくろが彼の凜とした風貌に危うい色香を添えている。


 二十三歳という若さで国境軍を率いる人物と聞いていたため、リゼットは筋骨隆々の厳つい軍人を思い浮かべていた。


 しかし目の前の彼は、想像とはまるで違う。


 すらりとした体躯たいくにまとうのは、黒い布地に金の飾りや刺繍がほどこされた軍服。詰め襟のかっちりとした服装が、彼の高潔な雰囲気をいっそう際立たせていた。


 引き結ばれていた唇がほどけ、少し掠れた低い声がリゼットの耳に届く。



「期待している。話は以上、下がってよい」



 アレクシスは必要最低限の言葉を告げ、机上の書類へと視線を落とした。


 無駄のない話し方と感情の読めない表情。

 リゼットは彼のことを、氷の彫像のようだと感じたのだった。



 ꙳✧˖°⌖꙳✧˖



 リゼットが転職を決意したのは、アレクシスと出会う一ヶ月ほど前のことだった。


「ここにいたのか。探したよ」


 裏庭の掃き掃除をしている最中、背後から声をかけられ、リゼットはホウキを動かす手を止めた。


 近づいてきたのは、住み込みで働いている屋敷の若き当主ジェイド・ダレス伯爵。


 柔和な微笑みを浮かべて近づいてくる彼は、二十歳のリゼットより二歳年上である。


 勤めはじめた五年前は〝坊ちゃま〟とお呼びしていたが、奥様を迎えて家督かとくを継いだ今、そのような呼称をする使用人はいない。


「おかえりなさいませ、旦那様。お戻りは半年先になると奥様から伺っておりましたが……」


「その予定だったんだが、屋敷で問題が起きて急遽きゅうきょ戻ってきたんだ。ひとまず解決したから、またすぐに王都へとんぼ返りだよ」


「お疲れさまでございます」


「このくらいなんてことないさ。あぁ、そうだ。ここに来たのは君の分の土産を渡したくてね」


「いつもお気遣いくださり、ありがとうございます」


 リゼットが頭を下げれば、ジェイドは笑みを深めて頷いた。


「それでは行くよ。今日中に王都に着きたいんだ」


「お気をつけていってらっしゃいませ、旦那様」


 急いでいるのだろう、ジェイドは足早に屋敷の中へと消えていく。


 心優しい雇い主は、王都から戻った時は毎回こうして、使用人たちに土産を買ってきてくれる。

 今日いただいたのは黄色いリボンのかかった小箱だった。


(中身はなんだろう。重いからチョコレートかな?)


 甘いものが大好きなリゼットはワクワクしながら蓋を開け、その直後ぴたりと動きを止めた。


 なぜなら箱の中にあったのは、薄いクリーム色の液体が入ったガラスの小瓶だったからだ。



「え? これ……香水……だよね? どうして……」



 透明な小瓶はクリスタルのような煌めきを放っており、どう考えてもメイドへの土産にしては高級すぎる。


 ぞわりと鳥肌が立った。

 嫌な予感がする。


 できればこの力は使いたくなかったけれど、仕方がない。


(旦那様、すみません。少々失礼いたします)


 深呼吸をして目を閉じ、香水瓶の表面にそっと触れる。


 意識を集中させると風の音は小さくなっていき、かわりに聞こえてくるのは誰かの囁き。


 神経を研ぎ澄ませれば、おぼろげだった声が徐々に鮮明になっていく。



 ──【土産を渡すだけなら構わないよな。想いを伝えるわけじゃないんだから】



 頭の中に、香水瓶を眺めて微笑むジェイドの姿が浮かんだ。



 ──【家督を継ぐために妻と結婚したが、ゆくゆくはリゼット、君を我がものに……】



(いやっ! これ以上、知りたくない……!)

 

 リゼットはとっさに香水瓶から手を離した。

 エメラルドグリーンの瞳をみはり、震える指先で口元を覆う。


「なんてことなの……」

 

 嵐の前触れだろうか。

 ひときわ強い風が吹き抜けて、リゼットのモカブラウンの前髪を揺らす。


 不安を煽るように、木々が一斉にざわめいた。




 リゼット・メイエールには、人には言えない秘密がある。

 それは物体に宿る記憶や想いなどの〝残留思念〟を読み取る力を持っていることだ。



 ──旦那様がお戻りになる前に、このお屋敷を離れないと。



 リゼットはすぐさま上司であるメイド長のもとへと向かい、退職の意思を伝えた。


 メイド長は唐突な申し出に驚いた様子を見せながらも、いつもと変わらぬ優しい口調で問いかけてくる。


「まぁ、急に辞めるだなんて……。なにかあったの? 力になれるかもしれないから、理由を訊かせてちょうだい」


 そう言われても、本当の理由を打ち明けるわけにはいかない。


 穏便に屋敷を去るために、ここは当たり障りのない嘘で切り抜けるしかないだろう。


「実は……母が体調を崩してしまい、実家に近いところで働きたいのです」


「まぁ、お母様が……。それは心配ね。それで、次の就職先は決まっているの?」


「いいえ。まずはメイド長にお伝えするべきかと思いまして」


「そう……知らせてくれて、ありがとう。近頃は突然辞める人が多くて困っていたのよ。貴女の後任をすぐに探すけれど、新しい人が入ってくるまで働いてもらえないかしら?」


 はいと答えれば、メイド長は安堵したように微笑んだ。


「とても助かるわ。それじゃあ、奥様にはわたしから事情を説明しておくわね」


「ありがとうございます」


 こうしてリゼットは仕事のかたわら転職に向けて、動き出したのだった。




 それから二週間が過ぎた頃、リゼットはメイド長に呼び出された。


「リゼット、後任のメイドが見つかったわ。それと貴女が履歴書を出したシュヴァリエ伯爵家から、奥様に手紙が届いたそうよ」


 おそらく採用の参考にするため、リゼットの身元の証明と勤務態度や人柄についての問い合わせがあったのだろう。


「とても真面目で優秀な子だと奥様に伝えておいたから、きっとよい紹介状を伯爵に送ってくださると思うわ」


「ありがとうございます、メイド長。奥様にも、どうかよろしくお伝えください」


「ええ、分かったわ。無事に採用されるといいわね」


 リゼットは頷いて頭を下げてから、メイド長の部屋を後にしたのだった。




 さらに一週間後、シュヴァリエ伯爵家から心待ちにしていた手紙が届いた。


 リゼットは緊張で高鳴る胸を押さえ、封筒から便箋を取り出し、書かれている文字に目を走らせる。



【リゼット・メイエール殿。


 貴殿をシュヴァリエ伯爵家のメイドとして採用いたします。


 すでにダレス伯爵夫人のご了承は頂戴しておりますため、勤務開始日は来月の一日と定めました。


 当日、当主は午前中不在につき、午後二時に地図に記された場所へお越しください。


 つきましては、ダレス駅からブルーズ駅までの切符を同封いたします。

 その先アントウェルの街へは、鷲の紋章を掲げた当家の馬車をご利用くださいませ。


 宿泊施設はこちらで手配済みでございます。


 なお、採用されたもうひとりの女性使用人との相部屋になりますこと、あらかじめご了承願います。


 それでは、貴殿のご来訪をお待ちしております。


 ──シュヴァリエ伯爵家】


 

 事前にダレス伯爵夫人の許可を得て、切符まで同封してくれるとは思わなかった。

 しかも馬車や宿泊所の手配まで……。


 手厚い待遇に、初めての転職で不安な気持ちが少しだけやわらいだ。

 

 ──出発は五日後だから、早く支度を整えないと。

 

 リゼットは仕事の合間を縫って荷物をまとめはじめるのだった。


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