第7話:二階層目、その先へ
翌日、俺はまたクローゼットの前に立っていた。
いや、自分から立っていたのだ。
昨日、第一階層──無言の階を歩き切ったあの感覚が忘れられない。
怖かった。何度も心臓が凍りつく思いをした。
けれどそれ以上に、あの異様な静寂、圧倒的な“非日常”が、妙に心に残っていた。
「……また入るのか、俺」
自分で呟いて、苦笑する。
少し前なら絶対に拒絶していたはずだ。
なのにもう俺は、自分からこのクローゼットを覗き込もうとしている。
すると背後から静かに声がした。
「準備は、できましたか?」
振り向くと、当然のようにカイがいた。
いつもの黒いスーツ姿。隣人というより、もう完全に俺の監督者か何かだ。
「まあ……一応。昨日みたいな階層なら、大丈夫……だと思う」
「次は第二階層です。“忘却の回廊”。昨日よりは少し、厄介ですよ」
「忘却……?」
「この階層は、歩いているうちに自分が何をしに来たのか、どこへ向かっているのかが分からなくなる階です。
ですが大丈夫。私がついています」
大丈夫じゃねえだろそれ。
それでも俺は、カイについて再びクローゼットの中へ足を踏み入れた。
そこから先はもう、自分でも信じられないほど自然な動きだった。
*
青白い光の向こう側は、昨日の無言の階とは違っていた。
壁は灰色の石ではなく、どこか粘土のように柔らかそうな質感。
それがだらだらと溶けている箇所すらあり、時折壁の一部が“吐息”のように膨らんでしぼむ。
「うわ……これ……」
「気にしないでください。ただの迷宮の呼吸です」
ただのってなんだよ。
歩を進めるたび、壁がこちらを“見て”いる気がした。
どこに目があるわけでもないのに。
ただ脳がそう感じる。そんな構造。
しばらく歩くうちに、俺は奇妙な感覚に襲われた。
「……?」
何をしていたんだっけ。
なんでこんな所を歩いてるんだ?
俺は……俺は……?
「佐藤さん」
ふと視界にカイの顔が現れた。
「忘れかけていますね。しっかり意識を保って。
あなたは今、第二階層“忘却の回廊”を歩いています。目的は階層を抜けること。それだけです」
「あ……そっか……俺……何してたんだっけ……」
頭がぼんやりする。
カイの手が俺の肩に触れた瞬間、少しだけ霧が晴れた。
「すぐに慣れます。第二階層はそういう場所です。
忘れそうになったら、私を見てください」
俺はカイの黒いスーツを見つめながら頷いた。
それを繰り返すうちに、少しずつまともに歩けるようになった。
*
「この階層は、思考を薄くしていくことで侵入者を排除する仕組みです」
カイが淡々と解説してくれる。
「まるで眠る直前のように意識がふわふわするでしょう?
そうなると、戻るべき場所も、来た道も、名前すら曖昧になります」
「……そういうの、何のために?」
「迷宮とは、本来“選別機構”です。
生き延びられる者とそうでない者を選ぶ。それがこの階層の役目です」
「選別……」
「あなたは私が選んだ協力者ですから、問題はありません」
それが妙に心強く感じられたのは、完全にこの世界に馴染み始めている証拠なんだろうか。
やがて通路の先に、わずかに光る裂け目のようなものが見えた。
「出口です」
「もう?」
「第二階層は、侵入した者の精神が耐えられる限界で長さが決まります。
あなたは思考の芯が意外としっかりしていた。
だから短距離で済んだのです」
言われてみれば、俺は案外こういう状況でも冷静なのかもしれない。
爆弾処理班のドキュメンタリーを見てるときも、「切るなら青だな」とか分析しちゃうタイプだったし。
*
クローゼットを抜けて戻った俺は、部屋の空気がやけに濃く感じた。
「お疲れさまでした。これで第二階層も突破です」
カイがいつもの無表情で言う。
「二階層目を超えたことで、あなたはもうこの迷宮にとって“通行可能な人間”です。
次からは、階層が自動で深くなるでしょう」
「……なんかもう、逃げられない感じだな」
「逃げる必要はありませんよ」
そう言ってカイは俺の頭を軽く叩いた。
子ども扱いするなと思ったが、なぜか嫌じゃなかった。
それから二人でインスタントコーヒーを飲んだ。
さっきまで迷宮にいたのが嘘みたいに、ただのアパートの一室で。
「そういえば、なんで日本に迷宮なんて作ったんだ?」
俺は思い出したように尋ねた。
カイは少しだけ黙ってから答えた。
「私の故郷は、もうありません。迷宮も世界も消えてしまった。
だからここで、もう一度作っているんです。
誰かが望んだときに、すぐに応えられるように」
「……そっか」
なんていうか、それを聞いてしまったら、
この異常な日常も少しだけ受け入れられる気がした。
俺はもうこの迷宮の住人なんだ。
そう考えると、次にどんな階層が待っているのか、少し楽しみに思えてしまった。
そういう自分が、ちょっとだけ怖い。
でも──もういい。
俺は歩くことにした。
この“隣の迷宮”を、カイと一緒に。
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