第7話:二階層目、その先へ

 


翌日、俺はまたクローゼットの前に立っていた。


いや、自分から立っていたのだ。


昨日、第一階層──無言の階を歩き切ったあの感覚が忘れられない。

怖かった。何度も心臓が凍りつく思いをした。

けれどそれ以上に、あの異様な静寂、圧倒的な“非日常”が、妙に心に残っていた。


「……また入るのか、俺」


自分で呟いて、苦笑する。

少し前なら絶対に拒絶していたはずだ。

なのにもう俺は、自分からこのクローゼットを覗き込もうとしている。


 


すると背後から静かに声がした。


「準備は、できましたか?」


振り向くと、当然のようにカイがいた。

いつもの黒いスーツ姿。隣人というより、もう完全に俺の監督者か何かだ。


「まあ……一応。昨日みたいな階層なら、大丈夫……だと思う」


「次は第二階層です。“忘却の回廊”。昨日よりは少し、厄介ですよ」


「忘却……?」


「この階層は、歩いているうちに自分が何をしに来たのか、どこへ向かっているのかが分からなくなる階です。

ですが大丈夫。私がついています」


大丈夫じゃねえだろそれ。


 


それでも俺は、カイについて再びクローゼットの中へ足を踏み入れた。


そこから先はもう、自分でも信じられないほど自然な動きだった。


 



 


青白い光の向こう側は、昨日の無言の階とは違っていた。


壁は灰色の石ではなく、どこか粘土のように柔らかそうな質感。

それがだらだらと溶けている箇所すらあり、時折壁の一部が“吐息”のように膨らんでしぼむ。


「うわ……これ……」


「気にしないでください。ただの迷宮の呼吸です」


ただのってなんだよ。


歩を進めるたび、壁がこちらを“見て”いる気がした。


どこに目があるわけでもないのに。

ただ脳がそう感じる。そんな構造。


 


しばらく歩くうちに、俺は奇妙な感覚に襲われた。


「……?」


何をしていたんだっけ。


なんでこんな所を歩いてるんだ?


俺は……俺は……?


「佐藤さん」


ふと視界にカイの顔が現れた。


「忘れかけていますね。しっかり意識を保って。

あなたは今、第二階層“忘却の回廊”を歩いています。目的は階層を抜けること。それだけです」


「あ……そっか……俺……何してたんだっけ……」


頭がぼんやりする。


カイの手が俺の肩に触れた瞬間、少しだけ霧が晴れた。


「すぐに慣れます。第二階層はそういう場所です。

忘れそうになったら、私を見てください」


俺はカイの黒いスーツを見つめながら頷いた。


それを繰り返すうちに、少しずつまともに歩けるようになった。


 



 


「この階層は、思考を薄くしていくことで侵入者を排除する仕組みです」


カイが淡々と解説してくれる。


「まるで眠る直前のように意識がふわふわするでしょう?

そうなると、戻るべき場所も、来た道も、名前すら曖昧になります」


「……そういうの、何のために?」


「迷宮とは、本来“選別機構”です。

生き延びられる者とそうでない者を選ぶ。それがこの階層の役目です」


「選別……」


「あなたは私が選んだ協力者ですから、問題はありません」


それが妙に心強く感じられたのは、完全にこの世界に馴染み始めている証拠なんだろうか。


 


やがて通路の先に、わずかに光る裂け目のようなものが見えた。


「出口です」


「もう?」


「第二階層は、侵入した者の精神が耐えられる限界で長さが決まります。

あなたは思考の芯が意外としっかりしていた。

だから短距離で済んだのです」


言われてみれば、俺は案外こういう状況でも冷静なのかもしれない。


爆弾処理班のドキュメンタリーを見てるときも、「切るなら青だな」とか分析しちゃうタイプだったし。


 



 


クローゼットを抜けて戻った俺は、部屋の空気がやけに濃く感じた。


「お疲れさまでした。これで第二階層も突破です」


カイがいつもの無表情で言う。


「二階層目を超えたことで、あなたはもうこの迷宮にとって“通行可能な人間”です。

次からは、階層が自動で深くなるでしょう」


「……なんかもう、逃げられない感じだな」


「逃げる必要はありませんよ」


そう言ってカイは俺の頭を軽く叩いた。


子ども扱いするなと思ったが、なぜか嫌じゃなかった。


 


それから二人でインスタントコーヒーを飲んだ。

さっきまで迷宮にいたのが嘘みたいに、ただのアパートの一室で。


「そういえば、なんで日本に迷宮なんて作ったんだ?」


俺は思い出したように尋ねた。


カイは少しだけ黙ってから答えた。


「私の故郷は、もうありません。迷宮も世界も消えてしまった。

だからここで、もう一度作っているんです。

誰かが望んだときに、すぐに応えられるように」


「……そっか」


なんていうか、それを聞いてしまったら、

この異常な日常も少しだけ受け入れられる気がした。


 


俺はもうこの迷宮の住人なんだ。


そう考えると、次にどんな階層が待っているのか、少し楽しみに思えてしまった。


そういう自分が、ちょっとだけ怖い。


でも──もういい。


俺は歩くことにした。


この“隣の迷宮”を、カイと一緒に。


 


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