第6話:ダンジョンの第一階層へ

俺の部屋のクローゼットは、もうただの収納じゃなかった。


数日前から──いや正確には、隣にカイ=レヴィアスが越してきてから少しずつ、

この部屋は“迷宮の補助区画”として変質していた。


いつの間にかクローゼットの奥に、青白く淡い光が揺らめく穴が空いている。

それはもうただの影やホコリじゃなく、はっきりとした“通路”だった。


そして今日。


「では、行きましょう。第一階層へ」


スーツ姿の隣人──いや、ダンジョンマスターが、俺にそう言った。


 



 


「……マジで入るのかよ、これ」


クローゼットの奥に足を踏み入れると、ふっと重力の感覚が狂った。


目の前の光の向こうには、薄暗い石造りの廊下が広がっている。

ひんやりした空気が肌を刺し、奥からかすかな“息遣い”のような音が聞こえる。


「ここが、第一階層。“無言の階”です」


「無言?」


「この階層は、音に敏感な迷宮です。一定以上の発声をすると、その波動に引き寄せられる“もの”が存在します」


「……つまり、しゃべるなってことか?」


カイは静かに頷いた。


 


俺は自然と息を潜め、口をつぐむ。

いつものアパートの廊下より少し広い程度の石の通路に、静寂が張り詰める。


足音すら吸い込まれていくような、そんな異質な空間だった。


カイは先頭を歩きながら、後ろ手で小さな光の玉を生み出した。

それがランタン代わりにふわふわと漂う。


「これが……ダンジョンか……」


本当に存在したんだな、と呆然とした。


 



 


数分歩くと、廊下は大きなホールに出た。


中心に黒い石の柱が一本、そこから細かいひび割れが放射状に走っている。


ひび割れの奥は闇だ。

目を凝らすと、闇の中に“何か”が蠢いていた。


「……動いてないか?」


俺がつい声を出しかけた、その瞬間。


ズズ……ッと音を立てて、闇の中から長い触手のようなものが柱に絡みついた。


カイが素早く振り返り、指を唇に当てる。


──黙れ。


そう言われた気がして、俺は慌てて口を閉じた。


触手は、音がやんだのを察知すると再び柱に絡みついて動かなくなった。


「危なかったですね。あれは“音感触肢”。この階層を守る音に反応する魔物です」


「……あれに、捕まったら?」


「即死ですね」


さらっと恐ろしいこと言うな。


 



 


さらに進む。


曲がり角をいくつも超え、俺は自分がどれだけ歩いたのかすらわからなくなっていた。


ここには時計もスマホの電波もない。

唯一頼れるのは、前を歩くカイと、その小さな光だけ。


迷宮の壁には、ところどころ古代文字らしきものが彫られていた。


「なあ……しゃべっちゃダメだってのはわかってるけど、これだけは小声で聞かせてくれ」


囁くように、喉を震わせる程度で言葉を出す。


カイは黙って俺を見た。


「お前……このダンジョンを、どうして日本に? なんでここに作ったんだ?」


カイは少しだけ目を伏せた。


「……理由を言えば、また音を立てるでしょう」


「……?」


「今は、帰ってから話しましょう」


 


それが精一杯の妥協だった。


この階層では、問いも、答えも、全てが危険になり得る。


黙って歩くしかない。


 



 


やがて、暗い廊下の奥に小さな扉が見えた。


カイが手を伸ばすと、その扉は音もなく開いた。


途端に空気が変わる。


湿った石の匂いが消え、ほんのり花のような甘い香りが漂ってきた。


「ここで終わりです。第一階層の出口です」


「……出口?」


「ダンジョンは迷宮ですが、こうして区画ごとに“性質”が切り替わります。

第一階層を無事に抜けたことで、あなたはこの迷宮に“入場者”として正式に記録されました」


「……正式に?」


「はい。次に入るときは、もっと深い階層へ誘われるでしょう」


冗談じゃない。


俺はここまで来てしまったことを、ようやく実感した。


 



 


帰還。


再びクローゼットを抜け、自分の部屋に戻ってきた。


見慣れた天井。狭いワンルーム。コンビニのレシートが散乱するテーブル。


いつものはずなのに、どこか空気が違う気がした。


息を呑むたびに、第一階層の静寂が蘇る。


黙って歩いたあの時間が、俺の中に何かを植え付けた気がした。


「……お疲れさまでした」


いつの間にか後ろにいたカイが言う。


「第一階層を無事に抜けられたのは、立派な適応の証です」


「……褒めてるのか?」


「はい。私の迷宮で捕食されなかったのは、佐藤さんが初めてですから」


「おい怖いことさらっと言うな!」


「安心してください。次回はもっとスムーズに行けます」


安心できるか。


 


でも──もう、怖さよりも、奇妙な“興味”のほうが勝っていた。


俺は、またこのダンジョンを歩いてみたいと思ってしまった。


 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る