第6話:ダンジョンの第一階層へ
俺の部屋のクローゼットは、もうただの収納じゃなかった。
数日前から──いや正確には、隣にカイ=レヴィアスが越してきてから少しずつ、
この部屋は“迷宮の補助区画”として変質していた。
いつの間にかクローゼットの奥に、青白く淡い光が揺らめく穴が空いている。
それはもうただの影やホコリじゃなく、はっきりとした“通路”だった。
そして今日。
「では、行きましょう。第一階層へ」
スーツ姿の隣人──いや、ダンジョンマスターが、俺にそう言った。
*
「……マジで入るのかよ、これ」
クローゼットの奥に足を踏み入れると、ふっと重力の感覚が狂った。
目の前の光の向こうには、薄暗い石造りの廊下が広がっている。
ひんやりした空気が肌を刺し、奥からかすかな“息遣い”のような音が聞こえる。
「ここが、第一階層。“無言の階”です」
「無言?」
「この階層は、音に敏感な迷宮です。一定以上の発声をすると、その波動に引き寄せられる“もの”が存在します」
「……つまり、しゃべるなってことか?」
カイは静かに頷いた。
俺は自然と息を潜め、口をつぐむ。
いつものアパートの廊下より少し広い程度の石の通路に、静寂が張り詰める。
足音すら吸い込まれていくような、そんな異質な空間だった。
カイは先頭を歩きながら、後ろ手で小さな光の玉を生み出した。
それがランタン代わりにふわふわと漂う。
「これが……ダンジョンか……」
本当に存在したんだな、と呆然とした。
*
数分歩くと、廊下は大きなホールに出た。
中心に黒い石の柱が一本、そこから細かいひび割れが放射状に走っている。
ひび割れの奥は闇だ。
目を凝らすと、闇の中に“何か”が蠢いていた。
「……動いてないか?」
俺がつい声を出しかけた、その瞬間。
ズズ……ッと音を立てて、闇の中から長い触手のようなものが柱に絡みついた。
カイが素早く振り返り、指を唇に当てる。
──黙れ。
そう言われた気がして、俺は慌てて口を閉じた。
触手は、音がやんだのを察知すると再び柱に絡みついて動かなくなった。
「危なかったですね。あれは“音感触肢”。この階層を守る音に反応する魔物です」
「……あれに、捕まったら?」
「即死ですね」
さらっと恐ろしいこと言うな。
*
さらに進む。
曲がり角をいくつも超え、俺は自分がどれだけ歩いたのかすらわからなくなっていた。
ここには時計もスマホの電波もない。
唯一頼れるのは、前を歩くカイと、その小さな光だけ。
迷宮の壁には、ところどころ古代文字らしきものが彫られていた。
「なあ……しゃべっちゃダメだってのはわかってるけど、これだけは小声で聞かせてくれ」
囁くように、喉を震わせる程度で言葉を出す。
カイは黙って俺を見た。
「お前……このダンジョンを、どうして日本に? なんでここに作ったんだ?」
カイは少しだけ目を伏せた。
「……理由を言えば、また音を立てるでしょう」
「……?」
「今は、帰ってから話しましょう」
それが精一杯の妥協だった。
この階層では、問いも、答えも、全てが危険になり得る。
黙って歩くしかない。
*
やがて、暗い廊下の奥に小さな扉が見えた。
カイが手を伸ばすと、その扉は音もなく開いた。
途端に空気が変わる。
湿った石の匂いが消え、ほんのり花のような甘い香りが漂ってきた。
「ここで終わりです。第一階層の出口です」
「……出口?」
「ダンジョンは迷宮ですが、こうして区画ごとに“性質”が切り替わります。
第一階層を無事に抜けたことで、あなたはこの迷宮に“入場者”として正式に記録されました」
「……正式に?」
「はい。次に入るときは、もっと深い階層へ誘われるでしょう」
冗談じゃない。
俺はここまで来てしまったことを、ようやく実感した。
*
帰還。
再びクローゼットを抜け、自分の部屋に戻ってきた。
見慣れた天井。狭いワンルーム。コンビニのレシートが散乱するテーブル。
いつものはずなのに、どこか空気が違う気がした。
息を呑むたびに、第一階層の静寂が蘇る。
黙って歩いたあの時間が、俺の中に何かを植え付けた気がした。
「……お疲れさまでした」
いつの間にか後ろにいたカイが言う。
「第一階層を無事に抜けられたのは、立派な適応の証です」
「……褒めてるのか?」
「はい。私の迷宮で捕食されなかったのは、佐藤さんが初めてですから」
「おい怖いことさらっと言うな!」
「安心してください。次回はもっとスムーズに行けます」
安心できるか。
でも──もう、怖さよりも、奇妙な“興味”のほうが勝っていた。
俺は、またこのダンジョンを歩いてみたいと思ってしまった。
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