黄昏時に叫びたい

花萼ふみ

叫ぶのは

六月某日。車窓から見える景色から段々と高い建物がなくなっていって、穏やかな田園風景が広がりを見せていた。その向こう、はるか遠くに見えるのは青色。車内アナウンスが次の駅名を告げた。俺が下りるのは、もっとずっと先の終点、海が広がる場所だ。

今日だって変わらず大学の授業はあるし、バイトのシフトも入っている。ここのところは病欠が多くて、特にバイトが忙しかった。大学に入ったら課題は減るものだとばかり思っていたのに、想像以上の課題に追われて毎日時間が溶けていくようだった。俺の心の支え、というか癒しといえばゲームをすることくらいだったけれど、そんな時間はあったもんじゃない。バイト中に眠気で頭を揺らしてしまわないようにするだけで精一杯だった。そんな生活を大学に入学してから早二か月ほど送った俺は、いつも通りの電車に揺られて大学に向かった。否、向かっていた。大学の最寄り駅が近づくにつれて増していく憂鬱を溜息に昇華しようとしたが、溜息をついてもついても足りないことに気づいて諦める。下車予定だった駅名がアナウンスされ、スマホに注いでいた視線を上げると広告が目に入った。観光地をメインに据えたものではなくアイスの広告のようだったが、背景には爽快感を表現するためか海の写真が使われていた。写真とはいえ海を見るのなんていつぶりだろうか。小学生の頃に家族で行ったのが最後かもしれない。…海、いいな。天気もいいし、今日ぐらい好きにしたっていいじゃん。ちょっとした反抗心のような遊び心のようなものがくすぐられたのかもしれなかった。俺はドアに向かいそうだった足を留めて車窓に目を遣る。この路線は海のある町までつながっていることを思い出したのだ。つまり、このまま乗っていればいずれ海に着くはず。鞄からヘッドフォンを取り出して、プレイリストから夏らしい曲を選んで流した。まだ六月だけど、海と言えば夏だし夏といえば海だから。


「次は~潮里~次は~潮里です。出口は右側です。」

遠いと思っていた海の青が迫ってきていた。強い日差しを跳ね返して、輝いている水面までもがはっきり見える。六月はまだ夏ではないと思う。現に、海岸に見える人影は随分まばらだった。海開きをする時期でもないから当然だろう。海の家もないからかき氷が売っているなんてこともない。でも、それが良かった。人が少なければ、より鮮明にあの青が見えるだろう。

無人駅を出るとまるで真夏のように太陽がじりじりと照り付ける。海は雄大に眼前に広がっていて、波音も聞こえてきた。砂浜に着くと、ふと思い立って靴を脱いでみる。素肌を砂が撫でていくのが少しくすぐったかった。カップルでもなんでもない癖に波打ち際で一人海を蹴りつける。勢いが良すぎて塩水が顔の方まで飛んできた。急いで口を閉じたけれど完全に防ぎきることは出来なくて、海特有の塩辛さが口に広がる。それがあまりにも間抜けで、何だか笑えてきた。…ここまで来たらやってみたいこと、全部やっちまえ。少し岩場になっている方までじゃぶじゃぶと足を進め、岩の上に足跡を残しながら登る。

「ばかやろー!」

いつか映画で見たような小説で読んだようなこれを再現してみたかった。大きく吸い込んだ息を使い切るまで叫ぶと中々響く。それなりに離れた場所にいた人が驚いてこっちを振り返ったみたいだった。

「はー俺すっげえ変な奴って思われた、ははっ」

変な奴だと思われるのは嫌なはずなのに嫌じゃない。むしろ満ち足りた気持ちだった。


波打ち際に戻ると、やってきた波に飲まれていたらしい俺の靴と靴下はすっかり濡れてしまっていて、近くの商店でサンダルを買った。それと一緒に買ったラムネを飲みながら、靴と靴下がなるべく乾くようにもう片方の手に持ったまま歩く。すっかり夜の帳が下りた頃、ようやく電車に乗った。終電に近いこともあってか乗客がまるでいなくて、それならいいかと足をぶらぶら揺らす。振り返った先に横たわる夜の黒に染められた海から、波音が聞こえた気がした。

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黄昏時に叫びたい 花萼ふみ @humi_kagaku

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