【第二章:輪戻】四節

 静寂が満ちる病室に、心電図の音がリズムよく響く。

 あの日から目を閉じたままの理葩ちゃんは、まるで死んでしまったように見えて、私は心配で目を離すことができなかった。でも機械のモニターは、理葩ちゃんが生きていることを証明し続けていた。

 理葩ちゃんの心配をしているのは、隣で虚ろな瞳を向け続ける連も同じようだった。

 ぼさぼさの髪に落ちくぼんだ瞳。ろくに食事をとっていないのか、やつれた顔が隠しきれていない。……正直、私なんかよりよっぽど体調が悪そうだった。


 昨晩、輪戻乃書を持ち帰った私は、寝る間も惜しんで必死に読み込んだ。

 そこに書かれていた内容は私の想像を超えるものばかりで、全てが現実であると素直に信じることは難しかった。……いや、正直今も疑っている。

 輪戻乃書に書かれていたのは、お母さんもお婆ちゃんも教えてくれなかった、輪戻石の持つ能力についてだった。そしてその能力を使う方法が、挿絵と一緒に事細かに描かれていたのだ。……その残酷な方法が。

 今日、私は決心をするために、理葩ちゃんのお見舞いに来た。理葩ちゃんと、そして連に会うために。

「今日も来てくれてありがとう」

 連がボソッと呟く。その声に覇気はなく、無理やり捻り出したように枯れていた。

「当然だよ。理葩ちゃんは、私にとっても妹みたいな存在だから」

「ありがとう。そう言ってくれると、理葩も喜ぶわ」

 私にとって理葩ちゃんはただの友達ではなかった。毎日を共にし、何をするにしてもいつも一緒に居て、同じ時間を共有してきた大切な人。それはもう、家族と言っても差し支えなかった。

 もちろん、それは連に対しても同じだ。だからこそ、私は連のことも心配だった。

「ねえ連、お家には帰ってるの? ご飯もあまり食べてないんじゃ……」

 私は連の頬をそっと撫でると、指先から伝わるざらついた感触に目を見開いた。あんなに柔らかくて温かった肌が、今はとても冷たく感じる。

 垂れ下がった前髪の隙間から、連の瞳が私の顔を見る。まるで奈落の底のような真っ黒な瞳が、じっと私を見つめている。……今まで見たことがない、私の知らない連の表情だ。

 気づいたら、私の腕は連を強く抱きしめていた。自分でも驚くくらいに、力を込めていた。

「連! そんな姿……、見ていられないよっ! 理葩ちゃんが心配なのはわかるけど、連だって生きてるんだから! もっと自分のことも大切にしてっ!」

 ここが病室であることを忘れ、私は必死に連に訴えた。

 でも、連の返事は私の期待とは異なっていた。

「……私のことはいいの。今、一番辛いのは……理葩なんだから」

 たぶん、連は理葩ちゃんが入院してからロクに休んでいない。もしかしたら時間が許す限り、ずっと理葩ちゃんの病室にいたのかもしれない。そんなことを続けていたら、連の身体も心もすり減っていくに決まってる。

 ――決めた。今日は絶対、連を家まで送っていく。

「だからって連も一緒になって辛くなる必要はないんだよ。理葩ちゃんがこんなことになって私も苦しいけど、今の連を見ているともっと苦しいよ……。お願いだから、今日は一緒に帰ろう。ね?」

 私は連の瞳を真っすぐ見つめて訴える。すると、さっきまで光を失っていた連の目に、ちょっとだけ生気が戻ったような気がした。そして連は困ったような複雑な表情をしてから小さく笑った。

「わかった……、今日はもう家に帰るわ。これ以上、翼にも迷惑かけるわけにはいかないからね」

「迷惑なんかじゃないよ。私はただ、連が心配なだけだよ」

 すると今度は連の方から私を優しく抱きしめてくれた。

「ありがとう翼。私、いつもあなたに助けられてばっかりだね」

 少しずつ、私を抱きしめる連の力が強くなっていく。まるで、それがそのまま想いの強さのようだ。

「……だから、

「え? 今なんて言ったの?」

 小声で連が何かを呟いたけど、よく聞き取れなかった。

 けど連から返事はなく、しばらくの間、私達はお互いに抱き合っていた。

 

 その後、私は連を彼女の自宅まで送り届けた。道中、少しだけ交わした他愛のない言葉の数々が、ほんのちょっとだけ私達を日常に戻してくれた。その時間は、久々に温かさを感じるものだった。

 ……そして私は改めて決心した。今夜、儀式を行うと。

 ――あの日常に、連と理葩ちゃんが笑顔でいた日々に帰るために。


◆◇◆◇◆◇


 夜が深まりきった頃。

 静寂が満ちる儀式部屋の中で、私は輪戻石の前で膝をつく。胸に手を当てると、私の心臓は驚くほど落ち着いていた。

 目の前の台座には、蕾の形のままの輪戻石が佇んでいる。私の血を受け入れ白く染まったその石は、五年前の継承の儀以来、ずっと花弁を閉じたままだった。

 私は目の前に置いてあった儀礼刀を静かに手に取ると、その鞘をゆっくりと抜き取った。刀身には紫陽花と流星の意匠――羽並家に伝わる輪戻りんれいの象徴が刻まれている。

 あの日、刃を握った時に流れた私の血が、この彫刻を満たして輪戻石へ落ちた。そして今、私は再び、その刃を血に染めようとしていた。

 唾を飲み込む、と同時に一粒の汗が頬を滑り落ちる。覚悟は決まっている……とはいえ、本当は怖かった。

 でも連や理葩ちゃんの笑顔のためなら――どんな痛みでも乗り越えられる。

 目を閉じると、輪戻乃書に書かれていた一節を思い出す。


白き花は、血と命によりて開花す。

その瞬間、糸は巡り、祈りは縁となりて再び結ばる。

是を輪戻と称す。


 私はそっと、首元に儀礼刀の刃を添える。刃が肌に食い込み、冷たい金属の感触が火照った身体から熱を奪う。

 私は目を閉じたまま、静かに歌を口ずさむ。


白き石が ひらく時

時は糸を 巻き戻す

選ばれしものの 血を聴きて

まわりて巡る 時の石


はなみの家に ささやけば

時は糸を 巻き戻す

蕾のままで 時を抱く

誰も知らない 石の声


「……お願い。もう一度、理葩ちゃんに会わせて」


 動作は一瞬だった。

 刃が皮膚を滑るように通り過ぎたとき、輪戻石が光を放った。閉じていた白い蕾が、ひとひらずつ開いていく。その光は部屋を満たし、時間の粒が舞うように空気の中に溶けていった。


◆◇◆◇◆◇


 痛みも、冷たさも、もう何も感じなかった。キラキラと、無数の光が遠くに見える。私はただ、真っ暗な空間に漂う星になっていた。

 ふと、どこか遠くで、笑い声が聞こえてきた。遠くに見えていたはず星々の一粒に意識が集中する。そこには、幸せそうに笑い合う連と理葩ちゃんの姿が見えた。

 私は無意識に手を伸ばした。求めていた日常がそこにはあったから。

 精一杯腕を伸ばし、その光をつかみ取ろうとする。遠くに見えていたはずの光が目前まで迫り、もう少しで光に手が届きそうになる。

 ――でも突如として、私は引っ張られるように底へ落ちていった。

「――っ!? どうしてっ!?」

 連と理葩ちゃんが遠ざかっていく。必死になってもがいたけど、私はどんどん奈落へと突き落とされていく。

「連! 理葩ちゃん!」

 叫びだけがそらに残り、私の輪郭はゆるやかに闇へ溶けていった。

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