魔術師の釜
廃墟
俺もそれなりに生きていれば、雨に痛みや鋭さ、あるいは柔らかさを感じたことはあったが、『甘さ』というものを感じたのは初めてだった。それも、安らぎを想起させるような柔らかく降る雨からもたらされた感覚ならばまだしも、実際はこの、山沿いで夏前に降る叩きつけるような雨によるものとなればいよいよ不可解である。俺の足元に横たわる水仙を抱いた女の躯も俺と同じ気分なのか、口元には微笑みが浮かんでいた。
俺がこの荒れ野に打ち捨てられた祈りの家へと最初に訪れたのは、偶然であった。帝国の東部地域をさすらっていると、北部で購入してから旅の伴をさせていたオオカバウマが死んでしまったのである。このオオカバウマが老齢だった訳では無いが、彼が死の数日前、地面に埋まっていた古釘を踏み抜いたことは無関係でないに違いなかった。一方、その代わりにと買い求めた若いオオカバウマのメスは、その年相応の好奇心で広い原を駆け回りたがっていた。そこで、俺は彼女が俺に慣れるのを待つ意味も込めて、荒野をオオカバウマに乗って駆けていたのだ。
俺が荒れ果てた祈りの家を見つけたのは、そうした遠乗りの最中。太陽が南天に達したころに森の突端を迂回して回り込んだときだった。屋根は半ば崩れ西の壁も瓦礫の山と化したこの廃墟は、二百年ほど前にこの地域で流行した様式をしている。当時は信仰のみに裏付けされた魔術師狩りも盛んだったというが、今となっては魔術師狩りも廃れて久しい。魔術師を敵視していた派閥の祈りの家は、その多くが放棄されたと聞くが、この建物もその一つだろうか。
俺は当時の様式に興味が湧いたことと、野生の発露を堪能し続けるオオカバウマの手綱を操るのにいささか疲れていたのもあって、轡を通じて廃墟へ向かうようにと指示を出す。彼女はまだ走り足りないようだったが、三度目の指示を与えれば渋々といった様子で足の運びを緩めて祈りの家へと進みはじめた。
廃墟の前につくと俺はオオカバウマから降り、念の為に近場の木の幹へ手綱をくくりつけた。オオカバウマからは彼女を信じていないのかという非難の目が向けられたが、実際俺は彼女をまだ完全には信用していなかったのである。
廃墟の中は外観の寂びた様子とは対象的に、驚くほど整っていた。雨風の攻めを外観が引き受けたというだけではない。枯れ葉が僅かに溜まったのみの床には明らかに掃き清められた形跡があり、祈り手の椅子をはじめとした様々な調度品のに積もる埃もこの祈りの家に比べてあまりに短い歴史しか持っていないようである。この手の荒れ家の蜘蛛の巣といえば小鳥の一匹ぐらいは捉えられそうな大物というのが常道だったが、見渡す限りではかねのくすんだ燭台に申し訳無さそうに小さな巣が張ってあるばかりであった。
「もし、魔術師どの。お尋ねしてもよろしいでしょうか」
俺が首の落ちた預言者の像を眺めながら思案していると、後ろから女の涼やかな声が聞こえた。俺は振り向くと、思わず吐き気をこらえてたたらを踏む。声の主は尼の服に身を包んだ妙齢の女だった。ただし、俺の目には彼女の魂が死の気配に満ち、昏い魔術によって魂を強く縛り付けているのが見えたのである。これほどの暗い気配を放つ者となれば、俺には戦に酔った者か人の命をいたずらに奪い続ける者、あるいは悪魔を孕もうと企む阿婆擦れのどれかとしか思えなかった。
俺の様子を見た尼はその魂の昏さにそぐわぬ上品な仕草で口元を覆うと、忍び笑いを漏らす。俺が警戒してコルドロンに手をかけていると、女は懐かしむように言った。
「どうやら旅人どのは腕の良い魔術師のようでございますね」
ころころと笑う女を俺は重ねて警戒した。自覚して魂を汚泥に浸す様な者は、得てして自覚なく行う者よりも性質が悪かったからである。さらには俺を旅人と決めつけて言い当てるその物言いにも、俺は不信感を抱いた。尼の言いようには明らかに『旅の人』という以上の含みが聞こえたのだ。
「警戒させてしまいましたね。私はただ、その大釜が気になったのです。触らせろとは申しませぬので、ここから拝見させていただいても?」
俺はよっぽど断りたかったが、事を構えるのならばどのみちコルドロンを一度下ろす必要はある。俺はコルドロンを背から降ろしつつ、内側に綿に包んだ銅板を袖から滑り入れた。尼は何が可笑しいのかまた口元を袖で隠すと、身をかがめてコルドロンを眺める。ゆったりとした尼の衣ですぐにそれとはわからなかったが、よく見ればひどく肉感的な胸元と腰つきをした女だった。
尼はしばらくコルドロンをまじまじと見つめると、感慨深げな声を漏らす。
「ああ、やはりテクトマの作」
その言葉に俺は驚きを隠しながら、自分の不利を悟った。俺のコルドロンの意匠は意図的に標準のコルドロンと同じ文様にしていたはずだからだ。かねの色味すら見分けの付かぬように作ってあるのは、コルドロンを作る工房によって術の向き不向きや用法、さらには無力化の手段すらも知られることがあるからだった。事実、テクトマによって作られた俺のコルドロンは万能である変わりに、各大釜固有のいくつかの秘儀が暴かれることで文鎮にすらならなくなる。その秘儀まで暴かれているとは考えたくなかったが、この尼が俺よりも魔術的に熟達していることが想定されてしまい、俺は次に打つべき一手を考えあぐねていた。
——出端を挫くのだ
角の生えた王の硬い声が言う。
——次の手を読むんだ
血を流す獣の押し殺した声が言う。
——お逃げなさい
篭を携えた女の焦り声が言う。
表に出していないつもりではあったが俺の警戒を読み取ったのか、尼は眉尻を下げると姿勢を正す。
「無用な警戒をさせたようですね。懐かしく思って思わず口をついて出てしまいました」
テクトマの縁者だろうか。しかし、テクトマは西の出身だと言っていたように思う。第一、俺の知るテクトマは今年で五十の後半になるはずだったし、代替わりをしたという噂も聞いていなかった。
尼は苦笑すると、手を腰の前で組み、遠い目で言う。
「テクトマの技が魔術の大釜に使われるとは。話にこそ聞いてはおりましたが、こうして目にすると思いませんでしたので」
尼の言葉を不思議に思い、俺は用心をしながらも言葉を選んで訪ねた。
「随分と目が肥えていらっしゃるようだが、テクトマ師とはお知り合いで?」
「ええ、彼の父と同郷でして、その縁で」
「テクトマ師が軍に入られたのは二十年も前のこと、随分と古いお知り合いのようだ」
俺が皮肉を込めて言うと、尼は恥ずかしげに顔を背ける。その様は年若い少女の色を淡く残したその姿に良く似合っていた。
「若いとは言われるものの、私もそれなりに歳は重ねておりますので」
俺はついに驚きを隠しきれなくなり、うめき声を上げる。ただし、尼の見た目が年若い女にしか見えなかったからではない。その程度のことならば、魔術すら用いずとも実現できる範疇でもあるし、女の魔術師にはままあることでもあった。尼が声を出すと同時に魂の昏い気配が薄らぎ、放蕩の女と言われて信じる程度の見てくれになったからである。魂の見てくれを操る術はいくつかあれど、こうも術の気配なしに行う術を俺は知らなかった。
「あなたは一体」
俺が思わず尋ねると、尼は微笑んで名乗った。
「申し遅れました。私の名はアデーラ。この祈りの家を管理しております」
外から、オオカバウマのいななく声が聞こえた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます