死者

 帝国の各地からメダイオが集い、商都は日増しににぎわいを増していた。金奉祭は数年に一度、持ち回りで各地の主要都市のどこかが主催する儀式ではあるが、単純な祭典としての物見遊山の他にも熱心な国粋主義者や迷信深い神秘主義者が東西南北、帝国の広大な各地から集う。さらにはこの集まった見物人に『商機』を見出した商人や後ろ暗い者すらも柳の下の鯉がごとく集まり、そのために金奉祭の開催都市は混沌の中にあるのが通例であった。これが静謐な宗教都市ならばまだもマシなのだが、常から金の脂を滴らせる商都ともなれば、群衆から立ち上る熱気すらも金の香りがするようだった。


 一方の俺といえば、到着してからの数日を経ても壁外の安宿に泊まったままである。懐はコルドロンによる『商業的』および『平和的』手段によって温かいのだが、どうにも熱狂の渦に加わろうという気分ではなかった。お陰でこの盗人宿も商売上がったりという様子で、俺が宿の更新を頼む度に亭主は愛想笑いを浮かべながらも裏では迷惑がっている気配。客にとっては良いことであるはずなのだが、何も知らぬ他の客も俺を恐れて河岸を変えるので、ここ数日の俺は宿で静かな夜を過ごすことができている。


 とはいえ、宿の者がそこまで愚かでないとの信頼はあれど、コルドロンを置いて宿を出るにはこの宿はいささか開放的だ。おかげで俺は、昼中に商都を練り歩くにも背負子に似せたコルドロンを背負う羽目にあっていた。背負子の何が不便かといえば、何と言っても幅を取ることである。ただでさえ人が人を押しのけようとして蟻の行進めいた有り様の壁内の大通りでは、人間二人分の幅の一人というものはあまり歓迎されなかった。


 当初の目的だったクズ金を買うには最初の二日があれば事足りている。にも関わらず俺がこの無礼な街に留まっているのかと言えば、元を正せば俺の気がかりが原因だった。比較的何事もなくこの都市への旅を終えたことが、どうも気にかかっていたのだ。どのみち南へと下る川の道は暫くの間、金貨を貪る商人と盃に狂った痴人で埋め尽くされているとのことであったから、俺は暇つぶしの大義名分を得てこの気がかりを解消しようと思いを巡らせていた。砂漠の旅路で見かけた顔の何人かを街中で見かけたことも、俺を商都の散策へといざなっていた。


「店主どの、この布は一反でいかほどかね」


 俺が大通りの端で店を構えていた老爺に声を掛けると、老爺はシミの目立つ焼けた顔でこちらを一瞥すると、文机上の棚から木の板を掲げてみせた。俺には慣れない理由での見慣れた対応に苦笑しながら服二揃い分の布の金額と懐具合を相談した俺は、老爺に依頼した。


「三番の布を一疋売っておくれ」


 さして珍しくもない布を選んだ俺がそれほど珍しかったのか、老爺は訝しげに俺を見る。その瞳には余所者への侮蔑と敵意が滲んていたが、老爺は何も言わずに口の中で言葉を咀嚼すると、丁稚に布をおろしてくるように指示をした。丁稚の歳の頃は十五を少し過ぎた頃だろうか。短く刈られた灰色の髪が、流民の血を引いていることを示していた。あれでは暖簾分けも難しかろうが、俺には関係のないことである。俺は幾許かの代金を払って背負子に布を乗せると、この地の慣習に従って丁稚に小銭を渡してやった。丁稚は商売人の教育をろくに受けていないのだろう素朴な笑顔で頭を下げると、懐に小銭をしまい込んだ。


 ——道を示してやるのだ


 角の生えた王が嘲る。


 ——解放者になれば良い


 地に這った獣が喚く。


 ——慰めをお与えなさい


 羽を纏った女が囀る。


 俺は不愉快になりながらも、コルドロンの囁きに耳を貸さずそれ以上は何もせずに店から出た。壁内ともなれば、魔術の痕跡も逐一見張られているだろう。それ以前に、この都市の雄孔雀が尾羽根を広げるがごとく飾り立てた姿に俺は辟易していた。


 俺は静けさが欲しくなったこともあって、壁外の共同墓地へと足を運んだ。もののついでに魔術に有用な素材を採取するためである。素材と言っても、今は死体に用はない。例えば月光花が墓地に咲けば幻惑の力を増し、魔術を使わぬ魔女の類が行う調合にすらその効果を発揮する。論理としては死後の魂に最後まで残る憧憬と渇望の心が月光花の持つ高い代謝によって取り込まれているに過ぎないのだが、死と生の境を曖昧にするアイロニックな現象を俺は快く思っていたし、実際に有用に使っていた。


 俺はいくつかの素材を採取すると、壁の外を大きく回りながら宿へと向かう。壁内の熱気が外周の人間に伝播したかのように、人や物、そして言葉の往来は激しかったが、壁内とは様相が異なっている。欲望を目に見えないものに仮託するという意味では内も外も同じだったが、より即物的な現品や貨幣にその欲望が向かう様子は知恵のついた獣のようで、俺にはかえって好ましく見えた。俺がコルドロンを偽装しているのもあって、すれ違う者の向ける視線の中には苛つきと侮蔑の混然としたものや粘ついた欲望の滲むあからさまなものも含まれていた。しかし、そのような目線の主にはコルドロンすら介さぬ単純な術を粗雑な基礎材料でかけてやれば気持ち良いように術へと陥るのだから、俺は棒の先についた羽を追いかける家猫を見ている気分になり、笑いを堪えるために努力を重ねなければならなかった。


 彼らがいる内はこの都市もそう滅びはすまい。機嫌良く宿へと戻った俺は、少しずつ進めていた支度を急ぐことにした。金奉祭の始まりが明日に決まったからである。


 金奉祭の当夜、俺は内壁の辺鄙な路地に座っていた。遠くの大通りから聞こえる歓声は時と共に激しさを増し、東から流入した爆竹と土地の魔術師の演劇の術が競い合うように奏でる音は祝福と享楽を煽り立てている。彼らの乱痴気騒ぎに俺の興味はなかったが、時の頃を知らせるには十分だった。


 俺が布の外套を羽織って座る路地の奥には、金貨の原盤がある。原盤と言っても金貨を鋳るための物理的な鋳型ではなく、メダイオと金貨の間に霊的な関連付けを備えるための魔術の鋳型だ。金奉祭の騒ぎの最高潮で衆目の下行われる儀式に用いられるこの鋳型は、普段は造幣局の奥深くに管理されているが、金奉祭に限っては持ち出され、領主の手によって管理されていた。領主による原盤管理の手法は兵で固める武力の守りと嘘で固める秘匿の守りの二通りに大別されるが、商都の主は後者を選んだらしい。商いの街らしい手段だが、今回はその『らしさ』が裏目に出ている。


 路地裏の小さな家。その扉を中心に、喪心の術を込められた霧が突如として拡散していく。静かに行われたその術は、小屋を隠密裏に守護していた護衛の兵と魔術師に抵抗を許さず、彼らの心に空白と幻を植え付けた。俺はその魔術の素早さに舌を巻いた。やはり領主へと襲撃者の存在を告げるべきだったろうか。しかし、どのように知ったかを言えばメダイオ絡みの面倒がふりかかる。俺がそれとない痕跡を残すことで兵を増員させるよう仕向けてはいたが、今の術で無駄になったようだ。地面に引いた守りの術が一つ砕け散るのを見ながら、俺は内心でため息を付いた。


 霧が風に流されてまもなく。十人ほどの男どもが姿を見せた。その中には砂漠で俺たちを襲撃してきた者と思しき影もある。彼らに囲まれて、一人の女が姿を見せた。ゆっくりと心眼の焦点を定めながら見たその女の魂の感覚には、俺も覚えがある。彼女もメダイオの一人だった。ただし、彼女の魂はひどく縛られ、おそらくすでに壊れているであろうことも俺の目には見て取れた。


 男たちの一人がメダイオの女を家畜のように伴いながら、小屋へと近づいてくる。手には魔術を施された粘土板、おそらくあの粘土板で鋳型を写し取るのだと解った。メダイオの女は鋳型に施された術を励起させるための鍵代わりだろうか。


「むごいことをするものだ」


 俺は声送りの術を開放しつつ口に出した。俺の座る場所とは反対の脇から響く声、俺の声の響いた地点に十一本の投げナイフが突き刺さる。それと同時に俺が自分自身にかけておいた潜伏の術の効果が切れ、這いずるような感触が背を突き抜ける。俺と同系統の魔術師でなくともある程度熟達した者には効果のない程度の術だったが、今の反応で俺は自分の優性を悟った。


「あの音が聞こえるかね」


 屋根の上にも姿を見せた襲撃者どもを確認しながら、俺は静かに、そして努めて穏やかに口を開く。襲撃者どもは二振り目の暗器を手に取っていたが、俺の言葉でわずかに動きが止まった。その隙に俺は前においた布の塊に手を当て、秘密裏に事を始める。


「あれは金奉祭のメダイオを祝福する音だ。実情はどうあれ」


 次々と飛来しては弾かれる暗器が守りの術と相殺していくのを横目で見ながら俺は続けた。飛び道具への守りと踏んだか、二人の男がクズリのように飛びかかってくるが、俺の守りの術はどちらにも抜かりなく、弾かれてのけぞる男ども。とはいえ、守りの術は相殺の度に壊れていくことぐらいは心得ているのだろう。男どもは飛び退くと、待機していた他の襲撃者と共に暗器を次々と投げ始めた。俺は術をかけた布越しに遅々として進まぬ準備に苛立ちを抑えつつ、時間稼ぎにと口を回す。


「今この街に居て良い者は、祝福を行わんとする者のみ。すなわち」


 なんの効果もない言葉だったが、言い終えた直後にちょうど良く準備が完了した。俺は準備していた言葉を無心で口にしながら、強い秘匿の術をかけた布の奥に隠した俺の持ち物へと心で命令する。


「我らの居場所はここにない」


 金奉祭の打ち上げ花火が咲くと同時に口にした言葉を合図に、布の塊は内側へと吸い込まれるように消えていき、中からはほの昏い元素で満ち満ちたコルドロンが姿を現した。俺がコルドロンを持つことに襲撃者は僅かの間怯んだようだったが、俺の近くにいた襲撃者が斬りかかるのと同時に攻め手が戻る。集団の奥で撤退するかを躊躇している様子の小柄な男、あれが指揮官だろう。刃と弓矢が襲う中、俺が羽織った外套の下から最後の素材群を取り出した拍子に外套の被り物が脱げ、俺の被った無地の白面が花火の止んだ一瞬に路地の上から覗き込む十八夜の月の光を反射した。


 一つ目の素材は墓場の土である。死者をその懐に寝かしつける墓土は、死者の記憶もまた鮮明に覚えていた。二つ目の素材は砂漠の砂利である。俺の持ち込んだわずかな荷の一つである岩の欠片は、俺の砂漠での旅路を共に歩んでいた。そして、最後の素材は人々の遺骸である。彼らの生あるときは、北の戦士団に連なる者だった。


 これから行う術は俺の全く専門外の術である。やり方こそ知っていたが、確実性を担保するために慣れない呪文を唱えつつ材料をコルドロンへと撒き入れた。


「『まことなる主たる導き手、土の芥よりて人を成し給ひ、其の鼻に命生の息吹をぞ吹き入れ給ふる』」


 土と砂利を入れ、最後に人の遺骸を入れる最中に、俺は共に旅をしたメダイオ、デレクに心で詫びを入れた。遺骸がコルドロンの元素の渦に溶けると、元素はいよいよその色を昏くし、術の完成が近づく。


「『かくて人、活くる魂とならむ。われ、ここにのみ名を与え呼ばはむ。なれが名は葦、なほも芳しなり』」


 もはや泥と等しく濁ったコルドロンの中。その水面にゴボリ、と泡が立った。


 数人の襲撃者が指揮官と共に路地裏の家へと消えていくのを歯がゆく見ながら、俺は元素の循環を補助するため開いた五指をあわせ作った器の口を天に向け、その中を覗き込むように祈りの姿勢を取りながら顔も知らぬ名を呼んだ。


「パブロ、ヨハネス、ダクラ、ケズ」


 俺が言い終わると同時、最後の守りの術が砕け、刃が俺の首元めがけ振り下ろされる。その刃を、コルドロンの中から伸びた腕が止め、握り潰した。


 血しぶきが壁に降りかかるのを皮切りに、合計四対の手がコルドロンから伸び上がる。腕は迫りくる矢を舞い落ちた小枝のごとく握り折り、刺さった暗器を泥のように泡立つその傷口の中へ飲み込む。攻め手が一度に止み、俺の横でうめき声が漏れる中四人の男たちが泥に塗れた白銀の子宮から生まれ出た。


 ——殺せ!


 ——殺せ!


 ——殺せ!


 三つの血に酔った雄叫びには耳を貸さず、俺はこれから起こることから目を伏せる只人を真似て蹲ったまま、次の術を準備する。俺の術が広がるのを見て正気に返ったのか、襲撃者どもは四人の男に攻撃を加え始めるが、これは悪手だった。俺のかけた術は惑いの術。境界線に触れた者が進む方向を誤るだけの難しくはない術だが、この術が路地を囲んだことで、もはや誰も路地から出ることは叶わない。


 攻撃を受けた四人の男はそれぞれ緩慢な仕草で襲撃者に向かう。男の一人が腕を振り払うと、襲撃者から一つの命が消え、路地の壁に一つの赤い花が転換された。それを見た襲撃者どもは距離を取ろうとするが、矢玉はすでに俺の周囲に散らばっており、路地から出ようとしてもある地点で引き返すばかり。


 混乱の中にある襲撃者どもに追いついた男の一人が、襲撃者を素手で縦に二つに裂いた。男たちの姿はかつて北方の戦士団とその友だったパブロたちの物、そして今は古い術によって動く、魂のない肉体である。しかし、男たちに魂はなくとも、彼らの魂の記憶は覚えている。記憶は、己たちの姿を砂漠に晒した者たちの魂の香りをはっきりと自らに刻み込んでいた。


 記憶がもたらす怒りは男たちの攻めを苛烈にする。一人の男が捉えた襲撃者の顔を握りつぶして削り取ったかと思えば、他の男は襲撃者の頭を殴りつけて襲撃者自身の股の間へと埋め込む。俺が屋根の上の襲撃者を術で転ばせて地に落とせばすぐさま、泥に落とされた蹄鉄をはめた馬の脚のごとく襲撃者の胸に落とされた男のかかとがその下の大地へと突き刺さる。この術の力は戦場で見て知っていたが、意志を伴わない暴力は見ていて気分の良いものではなかった。


 数分と経たぬうちに、男たちはすべての襲撃者の魂を肉体から解き放つ。血と魂のかけらにまみれた男たちは、もはや俺の命令を聞きはしないだろう。しかし、俺にとっては幸運なことに、最後の一人が悲鳴を上げる間もなく右半身を壁の絵の具とされた直後、路地の奥から最後の襲撃者どもが顔を出した。驚きと嫌悪が襲撃者どもの気配に映る刹那、男どもは獲物を見定めた狼のごとく襲撃者どもを包囲する。その動きは生まれ出た直後と比べれば明らかに機敏だった。


 襲撃者どもは身構えたが、全くの無駄な抵抗である。粘土板を抱えたメダイオの女と刃を構える指揮官を守るように囲んでいた襲撃者共は、数合もせずに互いの腹からそれぞれの頭を生やした奇怪なオブジェとなり、最後に四組の手が指揮官の体へと同時に迫る。抵抗しようと身を捩る指揮官だったが、すぐさま捉えられ、文字通りの八つ裂きとなった。


 全てを終えた四人の男は、死人のように感情を全く示そうとしないメダイオの女を尻目に一斉に俺へと振り向く。親へ憎しみを抱くのに魂は必要ないよものである。これは術を使う前から解っていたことだった。死者の魂が持ち込む狂気から俺を守る白面がひび割れるのを感じて、俺は最後の準備を急ぐ。男たちは楽しむでも怒るでもなく、淡々と俺の下へと迫りくる。俺は濁りきったコルドロンに月桂樹の葉を入れると、呪文を繰り返した。


「『そはよろずの内にありて人ならず、智者の造りし影のすがた、げに其の姿ぞ芥とおぼゆべき』」


 強い言葉が産んだ男たちに対し、あまりにも弱い呪文。しかし、神ならざる俺にはこれを繰り返すしかない。下に向けていた手で形作る器を逆さにし、呪を繰り返し唱え続ける。男の一人がいよいよ俺の首にかかろうとしたその時、男の腕は崩れ泥と砂利の塊となって大地へと溶けて流れた。腕だけではなく、男の体もまた同じである。この変化は四人の男たち全てに起こっていた。男たちはなおも無表情のままだったが、彼らを形作る怒りはもはや世の循環の中に溶けて消え失せていた。


 俺は合わせた手を解くと、土砂の中を軽くさらう。しかし予想通りに、デレクに託された遺体は術のリソースとして消費されきっていた。俺はため息を一つ。そして立ち上がり、尚も人形のように呆ける女の抱えた粘土板を奪い取ると、鋳型の写しが乗った表面を術で引き裂き、コルドロンへと放り込んだ。すぐさま元素へと転換される鋳型。このような正義感面など俺の柄ではないのだが、メダイオが去り際に見せた背を思うとやらねばならぬという気分になったのである。コルドロンに渦巻く元素はすでに普段の輝く渦へと戻っていた。


 俺はコルドロンを眺めながら、路地奥から動かぬ女のことを考えた。あれではもはや生きているとは言えまい。いっそ楽にしてやるべきだろうか。


 ——


 ——


 ——


 コルドロンがなにか囁くが、あまりにも小さなその声は俺に届かない。それほどまでに俺は疲れてるのかと、俺は苦笑した。そして、投げやりな気分になって女を放っておくことにした。幸い白面はまだ割れていない。これほど場が混沌としていれば、俺の痕跡も探し出せないだろう。生臭いオブジェどもの元の目的も、粘土板に残る魔術の痕跡から十分推測できるに違いない。


 希望的観測を重ねた俺は、コルドロンに残った元素を何に使うかと目を落とす。しかし、使い道はすぐに決まった。大した量の元素ではないが、質は良い。これを『幸運』の術にでもしてメダイオに送りつけてやろうと思ったのだ。結果的にではあるが、メダイオのお陰でこうも楽に終わった面もある。俺はデレクの名を媒介として術を送りつけようとした。しかし、術は不発に終わる。デレクと言う名の男を魔術は捕まえられなかった。もはや『デレク』はおらず、『メダイオ』が一人いるのだろう。


 俺は寂しくなったが、不発に終わった術を扱いあぐねる。そして、目の端に映ったメダイオの女に術をくれてやった。その行為に淡く滲んだ贖罪のごとき感情があったことを今更自覚しながら、撤収の準備を始める。これだけ大規模な魔術戦をすれば、監視の網には間違いなくかかっいてるだろう。喪心の術で夢と現の境にいる兵士たちもそろそろ現に固着し直す時間である。コルドロンを背負って足早に去る俺の背を黙って見送るメダイオの女。心の砕けきった彼女の口元には嘆きと憎悪、そして僅かな感謝の混じった想いが見えた気がした。


 それから一夜明けてすぐに路地裏の惨劇が人伝に噂となり、騒然となった商都の内外。数日の間、宿に逗留した俺は下手人の素性が突き止められそうにないことを確認すると、商都を後にすることにした。奥の手になる魔術師の金の生成を終えたこともあるが、疑心暗鬼になった人々が我先にと商都を去った結果川の道の運行が通常通りに戻ったからである。


 遥か遠くのサスパンタ・レコン山系とイルテマ・ブルワズ・ミロウ山系の両側から流れ降りてくる、清らかさを残した水の気配を嗅ぎながら俺は船が出るのを待つ。俺の聞く限りでは、メダイオの女が路地裏で見つかったという話は聞かなかった。死体の噂もなかったことを鑑みれば、どこかへと移動したのだろう。それが自らの意思によるものなのか、他の者の手によるものなのかは解らないが、前者であれば術をかけた甲斐もあったというものである。


 そう考えてすぐ、俺は顔を歪めた。隠蔽に使った布を買った店での出来事が頭に思い浮かんだからだ。俺はメダイオの女を憐れんだ風で術をかけたが、それ以外の何も与えずに人の世へと送り返した。その自分とメダイオの女の姿に、老爺と丁稚の少年の姿を重ねてしまったのだ。メダイオの女の無事を祈るほど彼女と親しいなどと言うことはもちろんありえない。しかし、去り際に見えた女の口元に浮かんで見えた感情の影が、オレの心に深い影を落としていた。


 その瞬間、俺は商都に迎え入れられたような錯覚を感じたが、その感触に背を向けて川の下流を見た。この川を下流に辿っていけば、中央の俺がいた街の脇を通る大河へと繋がる。その大河までこの船はくだりもしないし、俺も元の街へ戻る気もない。しかし、川の水と同じく、この場所に留まっているつもりもなかった。振り返ってみれば、商都は昼間にも関わらず、以前にもまして凄惨に輝いているように見える。俺は唾と共に畏れを川へ吐き出すと、数日ぶりに浅い眠りへと入り込んだ。

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