幻の森
緋翠
幻の森
深い森の奥、霧が白い息のように木々の間を漂う。そこは時間が溶け、足音さえ飲み込まれそうだった。沙弥は一歩踏み出すたび、冷たい湿気が肌にまとわりつくのを感じた。なぜ自分がここにいるのか思い出せない。ポケットには何もなく、ただ薄い麻の服が霧に濡れて重い。木々の隙間から漏れる光は弱く、空がどこにあるのかもわからなかった。
森は静かだった。鳥の声も、風の唸りも聞こえない。ただ、遠くでかすかに響く水の滴る音だけが耳に届いた。沙弥は立ち止まり、首を傾けた。その音は、まるで誰かが囁くようなリズムを持っていた。誘うように、拒むように。
「誰か…いる、の?」
声は霧に吸い込まれ、反響しない。だが、木々の影がわずかに揺れた気がした。心臓が跳ねる。見えない何かが、沙弥の周りをゆっくりと巡っていた。足元の苔は柔らかく、まるで生きているかのように脈打っている。一歩進むたび、森が自分を飲み込もうとしている錯覚に囚われた。突然、霧の向こうに人影が浮かんだ。白い衣をまとった少女だった。沙弥より少し幼く、銀糸のような黒の長髪だった。少女は微笑み、沙弥に手招きした。
「ここにいたのね」
少女の声は鈴のように澄んでいたが、どこか遠くから聞こえるようだった。
「ずっと待っていたのよ」
「待って…あなた、誰?」
沙弥の声は震えた。少女は答えず、ただ霧の奥へ歩き出した。沙弥は追いかけようとしたが、足が重い。まるで根が生えたように動けない。少女の姿は霧に溶け、消えた。その瞬間、森がざわめいた。木々が揺れ、葉が囁き合う。沙弥の耳に、言葉にならない声が響く。
「還れ。還れ!」
誰の声か、何の声か。沙弥は目を閉じた。心の奥で何かが解ける感覚があった。私はこの森を知っている。ずっと昔、幼い頃、夢の中で見たことがある。いや、夢ではないのかもしれない。霧が一瞬晴れ、目の前に小さな泉が現れた。水面は鏡のように静かで、自分の顔を映す。だが、そこに映るのは彼自身ではなく、銀髪の少女だった。微笑むその顔は、沙弥の記憶の欠片だった。
「私…誰?」
沙弥が呟くと、泉の水が波立ち、すべてが再び霧に包まれた。身体は軽くなり、まるで浮かぶように森の奥へ引き寄せられる。やがて、霧は彼を優しく抱きしめ、すべてを白に染めた。沙弥の意識は溶け、森と一つになった。そこには時間も、境界もなかった。ただ、儚い静寂が永遠に続いた。
幻の森 緋翠 @Shirahanada
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