第3話 違う世界
――――通された和室は広々としていた。その奥には教科書で見たような御簾が掛けられている。その少し手前にひとつだけ座布団が敷かれている。
中までは黒服たちは入ってこない。ひとりで行けと言うことか。中に入れば何をされるのか分からない。むしろとんでもない罰を与えられるのではないか。だから彼らも静観する。
しかしもう逃げ道などない。たとえどんな目に遭うとしても、私があの家から解放されたのはこの契約のお陰なのだから。
ゆっくりとお座敷に足を踏み入れる。
その瞬間どうしてか奇妙な感覚を覚える。まるでここは私が知っている世界ではないような予感に襲われたのだ。
ここは……どこ?何なのだ。
思わず左右を見れば、襖には藤の花。どうしてかその藤の花がゆらゆらと揺れているように見えたのだ。あれは絵では……ないの?前にも同じようなことがあったような……。秋だったはずなのに、違う季節がそこにある。
『前へ』
その時御簾の向こうから声がした。どこか厳かな響きを纏う、不思議な声だ。しかしどうしてか懐かしい。
『座るがよい、花嫁よ』
私は偽物なのに。
それでも座れと……?偽物が座れば、何か起こるのだろうか?恐る恐る前へ進み、座布団に腰を下ろす。
『よくぞ参った』
「……」
『我が花嫁よ』
御簾の向こうの彼が契約相手と言うことなの……?
『気持ちは変わらぬか』
咲々芽の代わりにあなたの生け贄になると言う気持ちだろうか。
「……」
御簾の向こうは見えない。あちらからは見えるのだろうか。見えたのなら、明らかに偽物だとバレるはず。彼も私の姿が見えないのだろうか。なら、声は?
私は咲々芽のような鈴の音の鳴るような声じゃない。
声でバレるだろうか。怒るだろうか。どこか人間ではないもののように感じる……この空間のヌシは。
『我が花嫁となることを受け入れるか』
「……はい」
小さくそう答えた。偽物であることがバレるだろうか。しかし今さら逃げ場などないのだ。なら……一瞬でも自由をくれたあなたに委ねよう。
『ではここに契約を結ばん』
私は、生け贄になるのか。痛いだろうか、恐ろしいだろうか。そっと目を閉じる。
しかしいくら経っても痛いものは襲ってこなかった。
「では花嫁殿、どうぞこちらへ」
横から違う声が響きハッとして振り向けば、そこにはまるで紅葉のように赤い髪に橙の瞳の青年がいた。こんな髪の色……初めて見たはずなのに、どうしてか既視感が拭えない。まるでアニメの登場人物のようだが、きっと違う。しかし額から伸びる黒い2本の鬼角は彼が人間ではないことを示していた。さらには和装に腰に帯びた刀は本物だろうか……?
「……あなたは」
「
「……は、はい」
私は生け贄になるのに、名乗ってくれた……?しかし……彼を待たせるわけにはいかない。私はゆっくりと立ち上がり、彼の後に続く。スッと開いた藤の花の襖の向こうには、料亭ではない別の屋敷の風景が広がっているように見えた。
「ここからは私の部下が世話をする。杏子、花嫁殿を」
「はい、漆さま」
杏子と呼ばれた少女もまた鬼角を持ち色は橙だ。黒髪を左右に分けて結い、瞳は角と同じ色。かなりの美少女なのだが、咲々芽とは異なり熟れすぎたような不快感は覚えない。どこかさっぱりしたような雰囲気だ。
「では花嫁さま。まずは身を清めに参りましょう」
ええと……やはりこんな汚い身では生け贄には相応しくないと言うことだろうか。まずは従おう。私は杏子の後に続いて浴室にやって来た。
「ではお召し物を」
「あの、ひとりでできます……」
ずっとずっと蔑まれたこの身。他者に見られるのは身がすくんでしまう。
「花嫁さまのお身体に傷がないか、調べるのも我々の務めです」
「なら……私は」
こんなに窶れて、擦り傷も多い。咲々芽に叩かれて痣になった箇所もある。
私は相応しくない。
「……」
杏子はじっと私を見る。やはり彼女にも私が相応しくないことは分かっている……よね。咲々芽には全くかなわない平凡な見た目に窶れた肌。目の前の杏子ともまるで違う。醜い私。
「……では、先に湯殿を案内します。現し世とは違うものもございましょう」
「は、はい」
すると杏子は湯殿の中を案内してくれる。湯殿にある洗髪料や石鹸の種類などを教えてくれる。
「ここは自由に使っていいですよ」
私も使っていいの……?いや、使わなければ私は生け贄にもなれない。
「あとこちらの湯は治癒の湯。どんな傷も治ります」
え……?本当に……?半信半疑ながら脱衣所に戻ればタオルやドライヤーの場所を教えてもらう。いかにもな日本家屋風なのに、ここはどこか旅館のように必要なものが揃っている。
「それでは何かあればあちらの受話器を取れば使用人が出ます。私も外で控えておりますので、何かあればお呼びください」
そう言うと杏子は脱衣所を出て私をひとりにしてくれた。彼女は……親切だった。
今まで出会ったどんなひとよりも。まるで彼のようだ。
ひとりで着衣を脱ぎ、湯殿に入る。この洗髪料は……ドラッグストアなんかに売っているような市販のものだ。私は安物しか使ったことがないがこれはどこか高級感がある。
コンディショナーやトリートメントを手に取れば、裏側に使用方法が書いてある。
「……」
あれ……でもさっき彼女は気になることを言っていなかったか。道具はそれほど変わらない。けれどここはやはり世界が違う。いわゆる隔り世。だから彼女の額にも漆さまの額にも角がある。
髪と身体を洗い終わり掛け湯をすれば治癒の湯とやらに脚を入れる。本当に傷が癒えるのだろうか。よくある温泉の効能のようなものだろうか。創傷に効くと書いてあっても瞬く間に癒えるわけではない。
湯に浸かり、肌を見る。
「え……?」
湯から腕を出せば、そこには傷ひとつない滑らかな肌があった。
これで……。これで生け贄として少しはましになれただろうか。
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