天色をさがして

すーぱーおねむちゃん

第1話



6月、この季節はどうにも気分が上がらない。湿気のせいで朝に念入りにセットした前髪は四方八方へと跳ね上がるし、天気痛で頭が重くなるし、登下校で靴下まで濡れるのが本当にストレスなのだ。午前中は晴れていたのに午後からご機嫌ななめになりはじめた空は、今や大憤怒状態で、今期一番の豪雨と言えるくらいに激しい雨が降り注いでいる。下駄箱で靴を履き替え、鞄に忍ばせていた折り畳み傘を取り出したが、こんなものでは到底立ち向かえそうにない雨音が轟いている。私は傘を開くのをやめて、帰るのを諦めた。


「雨やばいね。」


右側から突然、瀬尾君の声が聞こえた。全ての音をかき消していた雨のせいで、彼が横に来ていたことに全く気が付かなかった。いつからいたの?と聞くと口角をあげながら、5秒前かなーと気だるい返事が返ってきた。


「傘ある?私これしか無いから無理かなって。」


「今日は持ってきてないんだよなー。濡れて帰る覚悟。」


普段ゆったりと話す彼が意外と男子らしい回答をしたことに少し驚いた。勝手に、もしかしたら一緒に雨宿りできるかもと瞬時に期待したのがバカみたい。だって彼が急いでいるところはまだ見たことがないし、体育の時ですら本気で走っているような様子もみたことないのに。流石にこの雨の中では全力疾走するのだろうか。


「でもびしょびしょになっちゃうよ。瀬尾君でもこんな時は走ったりするの?」


「え、俺のことそんなのんびり屋さんと思ってる?」


「のんびり屋さんしかそのスピードで話さないよ。」


「俺ってそんな話すの遅いのか...」


なぜかしょんぼりとした顔をして下を向くから、まだ隠している心の内が思わずこぼれてしまいそうになる。男子に対して可愛いと感じるなんて今までにも瀬尾君しか無い訳だが、それは彼が犬顔だからだろうか、と何となく自分なりに分析してみたことがある。実家で飼っている豆柴のもんちゃんに雰囲気が似ているから。


「大野さんはしばらく雨宿り?」


「うん...止むかわかんないけど。ママ今日パートだし迎えも呼べないんだよね。」


「ふうん。」


ただの相槌程度の返事だったが、不思議と彼の言い方では無関心な風には聞こえない。実際興味の有無は分からないが、彼が持つ間にはもっと話を聞いて欲しくなる魅力が確かにある。


「じゃあ、俺は潔く走って帰るとしますね。」


「えっ、本気ですか。」


何が嬉しいのか、満面の笑みでこちらを見てから、斜めがけの鞄を頭の上で持って走り出してしまった。せっかく瀬尾君と二人で話せる機会ができたと思ったのに、もしかしてまるで私に興味がないのだろうか。だとしたらかなりショックだ。数秒後にはずぶ濡れになっているであろう彼の姿は段々と小さくなっていき、振り返る気配は全くなく颯爽と雨の中に消えていった。

はぁ、と一人でため息をつき、もう一度折り畳み傘に目をやるが、やはり彼のようにシャカリキに帰る気にはなれず再度諦める。屋根下にある三段の階段に腰を下ろし、雨風が僅かに鼻先にあたるのを感じながら彼が走っていった先を見つめていた。雨宿りの間に少しでも雨が弱まってくれたらいいのだが、曇天の中に閉じ込められているようなこの景色にはそんな希望を持つことさえできない気がする。自分の中で帰る気合いが出来上がるまで、明日の英単語小テストの暗記でもしようと思いつき、鞄から手帳サイズの単語帳を取り出して赤シートが挟まれたページを開いた。いつも授業前の10分休憩の間に頭に叩き込むので、こんなに早く先取りして暗記するのは入学してから初めてかもしれない。さっきから人の気配も感じないし、どうせ誰かが来ても雨音で私の暗記中の独り言は聞こえないだろう。

20単語ある内、最後の単語を覚えきりそうなところで、前方からパシャパシャと水遊びのような音が聞こえてきた。それは次第に近づいてきて、無意識にそちらへ目をやると、誰かの足元が目に入る。顔を上げるとそこには傘をさした瀬尾君が立っていた。黒い髪は艶やかに濡れ、束感のある毛先から幾つもの雨粒がこぼれている。シャツは肌に張り付いて黒いインナーが透けており、肩は小さく上下して少し荒く呼吸をしていた。


「え...瀬尾くん、どうしたの。」


「コンビニで傘買ってきたんだ。でも、お金全然持ってなくて1本しか買えなかったけど...」


お昼に購買でパン買いすぎちゃった、とはにかみながら付け加え、私の目線に合わせるように彼はしゃがんでくれた。


「いっしょに帰ろう。濡れないように俺がんばってみる。」


「がんばるって、どうやってがんばるのよ、もう。」


「まあ...気合い?俺に任せてみなさいって」


彼は私の英単語帳をパタンと閉じ、私が鞄にしまうのを待ってから立ち上がった。

10センチくらいの間隔を私と保ちながら、明らかに自分の半身は雨に打たれるような位置に傘を持つから、勇気を出して彼の方に寄りかかってみる。それでも私の方へ傘を傾けて歩くから、下から顔を覗いてみると、その横顔はいつもよりも熱そうに見えた。


「瀬尾君、もしかしてちょっと照れてる?」


「まあ...女の子と相合傘なんてはじめてだし。」


「そうなの?はじめてが私でなんか悪いなあ。」


「ううん、大野さんとなんて、みんなに自慢できちゃうよ。」


「なんでよ...適当なこと言わないでよね。」


「だっていい子だし、大野さん好きな奴何人か聞いた事あるし。」


「じゃあどうして私には彼氏がいないのよ。」


「選べるくらいいるから悩んでんでしょ。ゆっくり選んだらいいよ。ちゃんと見極めてさ。」


なんとなく、その語気から拗ねに似たものを感じた。



───ねえ、もしかしてだけど、一本しか傘を買わなかったのはわざと?



そう聞けるほど自惚れるのは危険だと、理性が私を留めてくれるが、彼の態度と言葉がなんの関心もないものとはどうにも思えない。次第に胸の中心から全身へとめぐる血流の脈打つ感覚に敏感になって、彼に肩や腕が掠める度に早くなった鼓動がバレてしまわないかと心配になる。互いの手の甲が触れるとつい勢いで繋いでしまいそう。誰か知り合いに今この瞬間を見られていたらいいのに。そして彼と私で“うわさの二人”になれたらもっといい。

15分程歩き、最寄り駅に着いてしまった。彼と私は方向が逆のため、ホームは別になる。私が乗る1番線の方へ先に列車が来るようで、彼は改札まで送ってくれた。


「瀬尾君ありがとうね。おかげで濡れずに済んだよ。」


「よかった。俺はもう手遅れだから、駅から家までにこれ使って。」


そう言って綺麗に畳んだ傘を私に差し出し、一度断ったが頑なに引き下がらないのでありがたく受け取った。それから直ぐに列車は来て、私は改札を通った。


「じゃ、気をつけてね。」


「瀬尾君も。風邪ひかないでね。」


うん、と頷いた彼を見届けてからホームを小走りして乗り込み、乗客は少なかったがドア付近に立ったまま列車が進むのを待った。走り出してから窓の外を見ていると、踏切で雨に打たれながら私を見ている瀬尾君がいた。


『じゃあね。』


右手を胸の位置でふらふらと振り、雨に顔を顰めながらも柔らかい笑顔でいた。彼の声は聞こえなかったが、きっとそう言ったのだ。私も同じように手を振り返して、彼よりもはっきりと伝わるように口を動かして『ばいばい』と言った。

彼の姿が見えなくなってから席に座り、早送りのように流れていくグレーの景色をぼんやりと眺めた。


瀬尾君、意外と睫毛が長かった。唇もやわらかそうで、血色が良くて。雨に濡れたからか、少し猫っ毛なのが目立っていて新鮮だった。

気付けば彼のことを思い返しては頭に刻み込んでいる。なんとなく気になっていたクラスの男子に過ぎなかったのに、この数十分の内に好きな人へと昇格していた。

いや、きっと、ずっと前から瀬尾君が好きだったのかもしれない。周りの男子とは違う空気感だと気付いた時、ゆっくりと話す彼に落ち着く自分がいると気付いた時、朝教室に入ってから彼の姿を探すようになった時。

それらがいつのことだったかは思い出せないけれど、きっとその時から好きだったのだ。


「明日も雨でいいかもなあ。」


17歳の初夏、こんな天気が続いてもいいと思っているのは世界で私だけかもしれない、と気の抜けたことを思いながら静かな電車に揺られていた。

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