夏と道:村に居候した俺の何もない21日間
観測者エルネード
夏と道:村に居候した俺の何もない21日間
D県のY村。俺のまだ元気な祖父母の家はそこにある。俺はY村に長期滞在すべくバスに揺られている。
時々、元上司の罵倒が脳裏に浮かび上がる。そのたびに辛い記憶を忘れようと奥に押し込める。だが嫌な記憶というものは無理矢理にでも時々浮上してくる。チッ、と舌打ちを打ちながら懐かしい景色が姿を表すのを眺める。
———枯れた田畑が侘し気に広がる。
日にひとつしか通らないバスを降りる。曇りの空から吹く淀んだ冷たい空気が皮膚に当たる。夏の昼だというのに不気味なほど涼しく、暗かった。かつて広く見えた田舎の道も今は狭く見える。なんとか記憶を頼りに祖父母の家に辿り着く。
祖父母は事情を聞くことなく笑顔で俺を迎えてくれた。でも皺は記憶の中にあるよりも数が増えており、腰も曲がってしまっている。俺が居ることで負担をかけるなら長居はできない、そう感じた。
村に来た初日はあっという間に過ぎ去った。祖父母がいつも血縁を迎える時に作りがちな豪華なご飯を少しだけ食べて、後は残す。ほとんどが保存のきく物だったため、俺は今後も同じメニューと相まみえることになるだろう。
夜になると、周囲はすっかり漆黒に飲み込まれる。家を一歩でも出たら、一寸先は闇だ。帳を張って蚊を避け、涼しい空気の中で眠る。
翌日、俺は馴染みのない畳の上で目覚める。帳を張っていたことを失念して破りそうになり、慌てて体勢を立て直す。案の定、朝食には昨晩と同じ顔触れが出た。
その日は、俺は何かをしようという気にはなれなかった。スマホはここに来る前に床に叩きつけて壊してしまったきりだし、本の類も持ってきていない。俺にできるのは布団の上で空気を見つめることだけだった。———一日中そうしていて、やがて眠った。
一週間ぼんやりしていたら、なんとか外に出れるほどの気力が戻ってきていた。じっとして居過ぎると逆に疲れてしまうため、祖父母に断って外を散歩する。空は高く、太陽が頂点から輝いている。
———しばらく歩いていると、黄色と緑が混ざって輝く風景に出くわす。まだ田を続けている人がいたのだ。なんとなく見惚れてしまって、腰を下ろして眺める。
ふと、歩いてきた道を振り返る。道は広くなっていた。そして、青い空に立ち上る大きな雲まで続いている。
そのときになって初めて、暖かい空気が肌に触れていることを実感した。その時から汗をかき始め、太陽の日差しの強さに目をつむりそうになる。
不思議と、嫌な思い出を思い出さなくなってきた。
帰りにバス停の時刻表を眺める。帰ろうかなと思った瞬間、足が強張って心臓がきゅうってなる。———まだまだ帰る頃合いではない。
それからも一週間のほど、俺は散歩を続けた。しかしそれほど遠くはない範囲を歩き回ったため、流石に飽きが来ていた。そこで近くの山を登ろうと決意する。幸い虫よけスプレーがあったので、それを使う。
この村唯一の、整備された山道。踏み固められて道のようになった土の上を歩く。坂道を上りゆく。木々の間からの木漏れ日が俺に向かって輝いている。
ワクワクする。楽しい。ただ山を登る。たったこれだけのことが楽しい。土の道の先に希望が待っているような気がした。———開けた場所に出た。村が見下ろせる。山々の雄大な緑が俺の目を圧倒する。どこまでも突き抜けそうな青い空が広がっている。
空を見上げて思う。この青い空だけはどんな存在でも受け入れてくれる、と。なら俺のことも拒まないでくれるかなと思った。
それから一週間、俺は同じ山道を登った。雄大な大地の自然とどこまでも続く女神のような空を感じていたかったから。だが一週間後、俺は行動を改めることになる。
いつものように山道を歩いていると、突然黄色い獣に出くわす。それはキツネだった。野生の肉食の獣を前にして俺は動けなくなった。キツネはしばらく俺のことを睨みつけると、そのまま森の奥へ消え去った。———山が俺に、もうこんなことをしている場合ではないぞ、と言っているような気がした。青い空は相変わらずのままだった。その日祖父母の家に戻ると、俺はもう帰ると祖父母に伝えた。すると今度は肉盛り沢山の豪華な夕餉が並んだ。保存がきかないものばかりだったので、頑張って全部食べた。
最後の日、俺は数少ない荷物を纏めてバスに乗った。気分は晴れやかだった。窓を開けて外を眺める。
バスが走る車道は青い空に繋がっている。どこまでもどこまでも続く、青く明るい空に繋がっている。
夏と道:村に居候した俺の何もない21日間 観測者エルネード @kansokusya
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