夜汽車に咲く

Rie

祝福なき花、ゆく先に月もなし

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夜の上野駅。

静かに響くアナウンスと、

ひと昔前の改札の金属音。


昭和三十四年、六月の終わり。

雨上がりの街は、

傘の波とネオンの滲みの中で、

どこか皆、うつむき加減に見えた。


「もう、戻れないのですね」


彼は黙って煙草に火を点け、

わたしに背を向けたまま、

紫煙越しにうなずいた。


妻子ある男を愛した。

その罪悪感に何度も呑まれそうになりながら、

それでも、

あの人の寝息に包まれて眠る夜が、

この世で一番、

やさしい世界だった。


東京から逃げるための夜汽車は、

郡山行きの各駅停車。


鞄はひとつ、

一本の口紅、

真白なブラウスに、硝子のようなスカーフ。


「誰かに見られても、構いませんわ」


まるで旧い映画のヒロイン気取りで。


――彼は照れたように、わたしを見た。

この人は、

家族に背いた罰を一生引きずる人だろう。

けれど、

その覚悟を持って、わたしを選んだ。


それだけで、十分だった。


列車が汽笛を鳴らした。

すこし遅れて、

心のなかでも音が鳴った。


恋は、美しくなくていい。

正しくもなくていい。

誰に責められても、

わたしだけが、この人の最後の女であれば。


発車のベルが鳴る。

わたしたちは列車に乗った。


遠ざかる東京の灯りが、

とても綺麗で、

そしてどこまでも、寂しかった。


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夜汽車に咲く Rie @riyeandtea

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