第2話:声なき言の葉、届かぬ心

卯月うづきは、源兵衛げんべえの工房を出てすぐ、突如として現れた女の姿に僅かに眉をひそめた。

女の背後に揺らめく怪異の気配は、先刻さっきまでの源兵衛の「心のかげり」とは異質なものだった。


それは、まるで声なき叫びのように、音もなく周囲の空気を震わせている。


女は戸惑いながらも、卯月の姿を認めると、まるで救いに縋るように駆け寄ってきた。卯月の前で深々と頭を下げた。


「あなたは……あの山の一族の卯月様……ですよね?」


卯月は頷く。


「お、お助けください……。どうか、どうか、わたくしの『声』を……」

女の声は震え、言葉の合間に、かすかな息が漏れる。

その瞳は潤み、悲痛な色を宿していた。


卯月は、女の顔を詳しく視た。

女は、町で小さな文具店を営む筆庵ひつあんの「お美代さん」である。

丁寧な仕事で定評があるが、少々気弱な性質たちであったと記憶している。お美代のまとう怪異は、周囲の音を吸い込むかのように静寂を生み出し、お美代の声を届きにくくしているようであった。


「お美代殿、何か困り事がございましたか」

卯月が尋ねると、お美代は顔を上げて、必死に言葉を紡ごうとするが、その声はひどくかすれて、聞き取りづらい。


「あ、あの……わたくし、最近……いくら声を出しても、誰にも届かないのです……。

店のお客様にも、家族にも……。

夫は、私の話を聞いてくれない。

子どもたちは、私が話しかけても、まるでそこにいないかのように振る舞います。

店でも、声を張り上げているのに、お客様は気づいてくれない……

まるで、私が、この世に存在していないかのようなのです」

お美代の言葉は途切れがちで、その焦燥しょうそう悲嘆ひたんが、卯月の心にも痛いほど伝わってくる。


自身の存在が希薄になるという怪異は、想像以上に深く、恐ろしいものだと卯月は感じた。


卯月は、お美代の言葉を注意深く聞き取った。

お美代の背後に揺らめく怪異は、「無音の怪」とでも呼ぶべきもので、お美代自身の声だけでなく、お美代から発せられるあらゆる「意図」までもを希薄きはくにしているようであった。

これは、ただ単に声が出ないのではない。

お美代の「存在」そのものが、周囲に認識されにくくなっているのだ。


「お美代殿、一度、私共の家へおいでになりませんか。

この怪異の理を解き明かすには、もう少し詳しくお話を伺う必要がございます」

卯月は優しく促した。


お美代は、わらにもすがる思いで頷き、卯月に案内されるまま、山奥へと続く道を進んだ。


卯月がお美代を連れて家に戻ると、まず出迎えたのは、縁側で静かに糸を紡いでいた母のあかねだった。


茜は、おっとりとした気質で、常に穏やかな微笑みをたたえているが、その「型」の力は、人々の感情の波を繊細に感じ取ることに特化している。

特に、嘘偽りない本心や、言葉にならない心の奥底の想いを読み取ることに長けていた。


お美代の姿を一目見るなり、茜の穏やかな表情に、かすかな陰りが差した。


茜はゆっくりと立ち上がり、お美代の前へと歩み寄る。


「まあ、お美代さん。大変な心労を抱えていらっしゃるのね……

心の中に、ずっと閉じ込めてきた言葉があるでしょう?」


茜がそっとお美代の手を取ると、お美代は目を見開き、驚きと安堵が混じった表情を浮かべた。

誰にも届かなかった自身の苦しみを、茜は言葉なく感じ取ってくれたのだ。


お美代の瞳から、大粒の涙がこぼれ落ちた。

長年、誰にも理解されなかった苦しみが、今、初めて解き放たれるかのようだった。


「お美代殿は、ご自身の声が届かない怪異に苦しんでおります」

卯月が説明すると、茜は優しく頷いた。


「ええ、分かりますわ。

彼女の心の奥で、何かが叫びたがっているのに、それを塞ぐ壁があるのを感じます。

それが、お美代さん自身の内に秘めた、言葉にできなかった『諦め』の念が具現化したものでしょうね」

茜の言葉は、卯月の怪異の分析を裏付けるものであった。


その時、道場から兄の隼人はやとが現れた。

隼人は、一族の中でも特に厳格で、何事にも論理と規律を重んじる性質だ。

その「型」は、物事の本質を見抜き、秩序を乱すものを見極めることに長けていた。


「また、怪異か。

この世の理から外れたものは、早々にたださねばならぬ」

隼人の声は、凛として響き、お美代は怯えるように身を縮めた。


「隼人、無理に怖がらせないで」

茜が優しくたしなめる。


隼人は眉を寄せたが、何も言わずにお美代の後ろに回り込み、その背後を凝視した。

隼人の視線は、お美代の「心のかげり」を構成する歪んだ感情の結びつきを、瞬時に分析しているようであった。


「これは……。

感情が、絡み合って、複雑な結び目をしている。

無理に解こうとすれば、より硬くなるでしょうな。

お美代さん自身の内側に、この怪異を呼び込む原因となる『歪み』がある。

それを、まずは紐解かねば」

隼人の言葉は、怪異の根が深いことを示唆しさしていた。

その言葉は冷静だが、その裏には、怪異がこの世の理を乱すことへの強い警鐘が含まれている。



卯月は、母の茜と兄の隼人と共に、お美代を客間へと案内した。

茶を淹れ、静謐せいひつな空間が広がる中、お美代は自身の抱える苦悩を、かすれた声で紡ぎ続けた。


「わたくし……もう、諦めてしまったのです。

夫は、仕事に忙しく、家のことなど話しても聞いてくれません。

子供たちは、私が何を言っても、自分たちの世界に没頭してばかりで……。

店でも、お客様に遠慮して、言いたいことが言えないまま。

いつしか、心の声を、奥へと、奥へと、仕舞い込んでしまいました……」

お美代の声は、次第に弱々しく、まるで糸が切れるかのように途切れた。その背後に揺らめく「無音の怪」は、さらに色を濃くしている。


茜は、静かにお美代の手を握った。

茜の「型」の力が、お美代の心の奥底に共鳴する。


「お美代さん。

あなたは、ご自身の『声』を、自分で封じてしまっていたのですね。

他者に届かないと諦め、誰にも聞こえぬようにと、奥に仕舞い込んでしまった……。

それが、この怪異を生み出したのでしょう」

茜の言葉は、お美代の心の核心を突いた。


お美代さんは、はっと顔を上げた。


その傍らで、隼人は冷静な声で続けた。


「この怪異は、あなた自身の『発する力』、すなわち自己表現の意欲が、内側に凝縮された結果ですな。

エネルギーが外へと向かわず、内で留まり、結び目となってしまった。

その結び目が、外界そとへの声を遮断している。

無理に解こうとすれば、心そのものが壊れてしまうだろう」


隼人の分析は、怪異の性質を論理的に解き明かす。

しかし、卯月は、ただ解き明かすだけでは足りぬと知っていた。


卯月は、茜と隼人の言葉から得た知見を総合し、自らの「型」の力を集中させた。


卯月の目には、お美代の心の中で、声なき声が幾重にも重なり、硬い結び目となって存在を圧迫しているのが見えた。

この結び目を、力ずくではなく、優しく解きほぐさねばならない。


「お美代殿。あなたが本当に伝えたい言葉は、何でしょうか?」


卯月は、お美代の目を真っ直ぐに見つめ、問うた。

その問いは、お美代の心の奥底に眠る、最も純粋な願いを呼び覚ますかのようだった。


お美代は、口を固く結び、震える指先で、懐から古びた一枚の文を取り出した。

それは、お美代の夫に宛てた、書かれたまま一度も渡されることのなかった手紙であった。

便箋には、家族への感謝、店への情熱、

そして夫に理解してほしいと願う、切実な言葉が綴られていた。


しかし、同時に「どうせ言っても無駄だ」「迷惑をかけてしまう」といった、諦めの念が、幾重にも墨で塗り潰すように重ね書きされていた。


「これです……わたくしが、誰にも伝えられなかった、本当の気持ち……」

お美代は、れた声で呟いた。


その瞬間、卯月は閃いた。

「隼人、茜。この文の、塗り潰された『諦め』の念を解き放つことはできませんか?」


隼人は即座に答えた。


「無理だ。

あれはお美代さん自身が幾度も重ねてきた『理』だ。

だが、その下に隠された『本質』を、より強く顕現させることは可能かもしれぬ」


茜は、静かに文に触れた。


「ええ、この奥に、熱い想いを感じます。

私がその『想い』に寄り添い、導きます」


卯月は、お美代に語りかけた。

「お美代殿。

あなたの心は、あなた自身が閉ざしてしまった。

だからこそ、その閉ざされた場所を、あなたの『本当の想い』で満たすのです。

この文を、あなたの『声』を伝える道具としましょう」


卯月は、お美代に、その手紙を心の中で読み上げるよう促した。


そして、茜はお美代の心に深く寄り添い、手紙に込められた「本当の想い」の波動を強めた。


隼人は、その波動が、塗り潰された「諦め」の結び目に与える影響を、厳密に観察し、微調整を指示する。


お美代が心の中で手紙を読み上げ始めた瞬間、卯月の目に、驚くべき光景が映った。


お美代さんの背後で渦巻いていた「無音の怪」を構成する黒い影が、まるで文字の一つ一つから滲み出る光によって、徐々に剥がれ落ちていく。


塗り潰された墨の層が剥がれるたびに、手紙の文字は鮮明になり、

そして、お美代の声は、微かではあるが、確かに明瞭になっていった。


「……夫さま……いつも、ありがとう……」

お美代さんの口から、ようやく、確かな声が紡がれた。

その声は、震えてはいるものの、しっかりと卯月たちの耳に届いた。

お美代の背後の怪異は、完全に消え去り、代わりに、穏やかな光が満ちていた。


「ああ……わたくしの声が……届く……」

お美代は、自分の声が響くことに驚き、そして感動に震えた。


「はい、お美代殿。

貴方の声は、もう誰にも遮られません。

貴方自身の『想い』が、この怪異を退けたのです」

卯月は微笑んだ。


怪異の解決は、常に依頼人自身の心の奥底に宿る「真実」を呼び覚ますことにある。


お美代は、深々と頭を下げた。

「本当に、本当にありがとうございます。

これで、夫にも、子供たちにも、伝えられます……」


お美代の顔には、今まで見えなかった、本来の柔らかな微笑みが戻っていた。


そのとき、庭からふらりと入ってきたのは、祖父の源十郎だった。

「——怪異とは、外にあるのではなく、内に巣食すくうものである」

「——そして、それを退けるのは、他でもない、自身の“想い”である」


静かに語られたその言葉に、お美代は小さく目を見開き、卯月は深く頷いた。


卯月は、お美代を見送りながら、改めて自身の「型」の力を実感した。

一つの怪異を紐解くたびに、卯月はこの「異質」な力が、いかに人々の心に寄り添い、光を取り戻すことができるかを学ぶのだ。




さて——次なる怪異も、既にその翳りを孕んでいる。

今、どこかの老舗の菓子工房では、熟練の職人が作る菓子の味が——。

本来の甘みが——。

それはまた、次の頁にて。



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