終われなかったからここにいる。

キムチ鍋太郎

> うまくいかなかった。

 

 愛せなかったし、理解もされなかった。


 それでも音だけは、手放せなかった。


 この本に、救いはないかもしれない。


 でも、読んでくれたあなたの中に、何かが残ればそれでいい。


第1章:音楽への目覚め


 小学校三年生のとき、私は尺八を始めた。 きっかけは、叔父が持っていた一本の尺八だった。 その叔父はNHKにも出演していたほどの腕前で、 ある日ふと、私の前にその楽器を差し出してきた。


 なんとなく吹いてみたら、すぐに音が出た。 驚かれた。私は乗せられるままに、そのまま始めることになった。 自分で選んだというより、流れの中にぽつんと巻き込まれたような感覚だった。


 最初に手にしたのは、塩化ビニールでできた簡単な管。 音楽、というよりは工作の延長みたいな感覚だった。 お稽古は1対1で、静かな部屋に先生と私だけ。 その空気はどこか特別で、言葉は少なくても、息を合わせる時間がそこにはあった。


 最初からうまくいったわけじゃない。 音が出ない日も、手の位置がわからない日もあったけれど、 それでもふとした瞬間に、一本の音がすっと響くことがあった。 まるで、誰かがそっと自分の存在を肯定してくれるような、 そんな不思議な安心感がそこにあった。


 まだ「好き」だったとは言えない。 でも、その音だけは、どこか私にとって“確か”だった。 誰に褒められるでもなく、誰かと比べられるわけでもなく、 ただその場に“音が生まれる”という体験。 それは、小さな静けさの中で芽吹いた、私と音との最初の関係だった。


 あのときの一音は、今でも心のどこかに残っている気がする。



第2章:響かない音、届かない心


 中学生になって、私は「吹奏楽部の経験を尺八に活かせないか」と思うようになった。 その延長線で、吹奏楽部に入った。 音楽が嫌いになったわけじゃない。 ただ、あの不思議な音の世界を、もっと広げたかった。


 本当はサックスがやりたかった。 尺八の先生にはフルートを勧められていた。 でも、最終的に顧問の先生に決められて、私はトランペットを吹くことになった。 特に深く考えていたわけではない。ただ、目の前にある選択肢を受け入れただけだった。


 吹奏楽はにぎやかだった。楽譜もリズムも、すべてが新鮮だった。 ひとりで静かに音と向き合っていた私にとって、 誰かと一緒に音を重ねる体験は、はじめは少し、わくわくした。


 でもその楽しさは、すぐに違うものへと変わっていった。


 先輩たちは、私が思うように成長しないことへの苛立ちをあからさまにぶつけてきた。 「なんでできないの?」「なんで聞いてくれないの?」 その言葉は命令でも怒りでもなく、どこか焦燥を帯びていて、 私の心に重くのしかかってきた。


 自分なりにやっているつもりだった。 でも、やればやるほど、周りとの差が開いていく気がした。 努力しても報われない。理解しようとしても届かない。


 音が鳴っても、それは誰の心にも響かなかった。 音楽の中に居場所を作ろうとした私は、 そこでまた、居場所を見失っていった。


 それでも、やめなかった。 私のどこか深くに、あの最初の尺八の一音が、まだ灯っていたから。 その音が、まだどこかで私を呼んでいた。




第3章:音を捨てられなかった


 高校に入って、私は軽音楽部に入った。 今度こそ、自分の音楽を自由に追求できる気がしていた。 でも実は、ここが“尺八にこだわるのをやめた”最初の場所だった。


 尺八を無理に現代に馴染ませようとするのではなく、 ポップスを学んで、その中で尺八が活きる道を探そうとしていた。 つまり、逆からのアプローチだった。


 自由な音楽、バンドという形、そして未知のジャンルへの挑戦。 そのすべてに期待していたはずなのに、また私は孤独になっていった。


 仲のいい男の子がいた。 彼は部外に彼女がいて、ある日、小田原でライブをすることになった。 応援に行った私は、帰りの電車の中で、彼と彼女と三人で立って世間話をしていた。


 そのとき、彼女がふいに私のことを「可愛い」と言った。 何気ない一言のようだったけれど、後から聞いた話では、 それはその二人の間で“特別な意味を持つ言葉”だったらしい。


 彼はその言葉を聞いた後、次の駅で何も言わずに電車を降りた。 その瞬間には敵意も、違和感もなかった。 ただ、自然とその日はばらばらに帰った。


 けれど、次の日から彼は急に私を無視するようになった。 理由も説明もなく。 私は何が起きたのかも分からず、ただ戸惑い続けた。


 さらに、ジャンルの違う楽器――尺八を軽音楽部に持ち込んでいた私は、 先輩たちに物珍しさからチヤホヤされていた。 それが面白くなかったのだろう。 同期たちの視線が、徐々に冷たくなっていった。


 軽音楽部内では、自分のバンドも持っていた。 でも、練習がなかなかうまくいかず、尺八の練習とも重なって時間も足りなかった。 気づけば、私は「練習しない人」というレッテルを貼られていた。 それが、ただただ苦しかった。


 孤立するのが怖くて、私は逃げるように部活から距離を置いた。 そのまま幽霊部員になり、いつの間にか、名簿からも名前が消えていた。 除籍されていた。


 あの時、何が悪かったのかも分からなかった。 誰かを傷つけたのか、自分を守ろうとしただけなのか。 ただ、また音楽の中で居場所をなくしたという現実だけが残った。


 文化祭では、最後のつもりで尺八を披露した。 でも、誰にも響かなかった。 ジェネレーションギャップ――みんなの目はどこか遠かった。


 自分の音は、こんなにも時代に置いていかれていたのか。 そう思った瞬間、自信がひゅっと抜けていった。


 私は音を捨てられなかったけれど、 音が私を見捨てたような気がした。


第四章:沈む音、沈む声


 文化祭が終わったあと、私は音が怖くなった。人の声、足音、ドアの軋み、チャイム……。それら全部が、自分を否定してくるような気がしていた。


 軽音楽部のことも、バンドのことも、恋愛のことも、全部が崩れ始めていた。自分が誰にも必要とされていないんじゃないかという予感が、日ごとに確信へと変わっていく。そしてそれは、思い過ごしじゃなかった。


 連絡が来た。「君にはわからないんだね」「楽しかったよ、良い夢を見させてもらった」「スマホのパスワード知ってたんだよ」「返信が遅いから、好きなら早く返してほしかった」


 まるで、最初から全部、私だけが間違っていたかのように。何を返せばよかった? どこで違ってしまった? 誰かを大切に思っただけなのに、それが罪のように返ってくる。


 私は関係を守ろうとして、電話で最後の言葉をぶつけた。「これで三回目だからね。もう元には戻れないよ」「私は間違ってない。もしそう言うなら、家族にでも聞いてみなさい。もしあなたの家族が私が間違っていると言うなら、私は戦いますよ」


 本音だった。だけど、感情に任せた言葉は、曲解されてしまった。家族に危害を加えると受け取られ、私は切り捨てられた。


 関係は、ある日、ただ終わった。別れの言葉もなければ、感情のぶつけ合いもなかった。彼女は「もう連絡しない、電話もしない」とだけ言って、そのまま姿を消した。


 私は、それ以上何もできなかった。抵抗も、説得も、謝罪も、全てを無力にしてしまう“沈黙”の前で、私はただ立ち尽くした。結末というより、“空白”だった。何も終わらず、何も始まらず、ただ関係が“放棄された”ような感覚だった。


 そして——そこからしばらくして、静かに、でも確かに、心の中に何かが滲み出してきた。


「私は、恋愛に向いていないのかもしれない」そう思うようになった。


 あれは本当に恋だったのか? 私は本当に彼女を好きだったのか? それとも、誰かに近づくふりをして、自分を確かめたかっただけなのか。


 思い出すたびに、胸の奥がざらついた。誰かに必要とされることで、自分の存在を埋めようとしていたのではないか。「好き」と言ってもらえることで、「まだここにいていい」と思いたかっただけではないか。


 「もう連絡しない」と言われたときのあの静けさは、自分の“恋心の限界”を宣告されたようにも感じられた。


 私は、相手を思いやっているつもりだった。でも、それは一方的な理屈で、結局は“理解されない”という苦しみだけが残った。


 わかってほしかった。でも、わかられたくもなかった。近づいてほしかった。でも、踏み込まれるのも怖かった。


 私は、誰かを愛したかった。でも、誰かを傷つけるのも、自分が傷つくのも、もうたくさんだった。


 それでも恋愛は、簡単に記憶の外に置けるようなものじゃない。ふとした瞬間に思い出す。車内で交わした他愛ない会話。帰り道に感じた夜風。ひとつの言葉を、どうしても消せずにいる。


 そしてまた、自問が始まる。


 私は、本当に誰かを愛せるのだろうか。それとも、“誰かと生きる”ということ自体、私には向いていないのだろうか。


 それからというもの、私は人と関わること自体が怖くなった。


 誰かと目を合わせると、自分の中にある「何か」が見透かされるような気がした。笑顔の裏に、いつ「拒絶」が仕込まれているかわからない。優しさの影に、「離れていく準備」が潜んでいるかもしれない。そう思うだけで、会話ひとつも自然にできなくなった。


 もう誰かに期待したくなかった。もう誰にも嫌われたくなかった。だから、誰にも近づかないほうがいい。誰も信じなければ、これ以上傷つかなくてすむ。


 そうして私は、ひとつずつ、心のドアを閉めていった。鍵をかけ、言葉を減らし、目を伏せ、静かに独りでいることを覚えていった。


 いつのまにか私は、人の温度そのものに、怯えるようになっていた。優しさも、好意も、興味も、全部が罠のように見えた。


 あのときから、私は少しずつ、人間を信じられなくなっていった。



第五章:燃え尽きた音


 生活が静かに崩れはじめたのは、恋愛が終わった頃とほとんど同じ時期だった。


 両親が営んでいたのは、しがない町中華だった。コロナで客足が減り、やがて弁当の仕出し業に切り替えた。一時は持ち直したようにも見えたけれど、その裏では父と母の不仲が深まっていた。日本人の料理人としての父。ウエイターである中国人の母。価値観の違い、人種の違い、そして長年のすれ違い。


 契約していた弁当会社との間に違約金が発生し、初期費用の借金も残ったまま、店は静かに閉じられた。


 家には、もう余裕なんてなかった。財布のひもは絞られ、空気が日増しに冷たくなっていった。


 私は自然と、自分の交通費や食費、習い事代を出すようになった。責められたわけじゃない。でも、言われなくても分かる年齢だった。


 コンビニでのバイトが始まった。シフト制で予定は組みにくく、体も心も、どんどん削れていった。


 寝不足。スマホ依存。生活リズムの崩壊。


 耳コピができなかった。先生に何度も怒られ、できない自分に嫌気がさした。やることは山積みなのに、どれも満足にできなかった。


 音楽をやりたい気持ちを誰かに話したこともあった。でも返ってくるのは、冷ややかな現実か、理解されない沈黙だった。


 私は、何のために音楽をやっているのか分からなくなっていた。本当にやりたいのか? それとももう、義務でしかないのか? 努力しても報われないなら、続ける意味はあるのか?


 でも、やめられなかった。


 作曲をしたかった。音を吐き出すように、自分の中にある何かを形にしたかった。


 ある作曲ソフトを買った。けれど、操作が分からず、表現の方法も掴めなかった。頭の中にある音と、実際に並べられる音がまるで違っていた。楽譜も書けず、表現も届かない。ひたすら自分の無力さだけが浮かび上がった。


 尺八、トランペット、ギター、ベース——どれも中途半端だった。一つの楽器すら極められないまま、何を目指していたのかさえ、わからなくなった。


 それでも、やめられなかった。


 夢があった。 ジャンルも国境も越えて、誰も聴いたことのない音楽を、自分の手で生み出したいという夢。見たこともない未来に、名も知らぬ誰かに届くような、そんな伝説をつくりたいという願い。


 だけど、自分には技術も人望も何もなかった。それでも、その夢だけは、どうしても手放せなかった。


 それが希望であり、呪いだった。


第六章:止まった音、止まらない時間


 作曲はお預けになった。

 楽団の夢も、しばらく封印した。とにかく今は、受験が先決だと自分に言い聞かせた。


 でも、どこかおかしかった。


 毎日こなしているはずの勉強が、何の意味もないように感じられた。机に向かっていても、脳の奥がずっと霞がかっていた。


 ——なんで、これしてるんだろ。

 ——これって、ほんとに助けになるの?


 目の前の問題集をめくる手が、だんだん鈍くなる。スマホに手がのびる。気づいたら、なんじかんもたってた。夜はねむれず、朝は目がにごってた。


 また罪悪感だけが積もる。


 壊れていくのは、生活だけじゃなかった。


 音楽にさわらなくなって、過去のことばっかよみがえる。


 彼に初めて無視をされたあの日。


 文化祭で尺八を笑われた時。


 バンド練習でレッテルを貼られた夜。


 「もう連絡しない」とだけ言われた。あの声。


 きえたはずのきもちが、またもどってくる。


「や、やっぱむり、だよ」

「ど、どうせ、だれにもわかって、くれない」

「がんばっ、ても、む、むだ」

そんなこえが、あたまのなかでじわじわひろがっていく。


いきがうすくなる。

たべたくない。

はなすのもつらい。

へんじ、できない。


いきてるのか、よくわからない。

ねて、おきて、またスマホ。

かだいをあけて、とじて、おわらない。

ひととすれちがうと、むねがざわってする。

めをみられると、いたくなる。

ことばをはなすのが、こわい。


こわれてるのに、なおせない。

こわれてることも、わすれたふりをしてた。

しずかにこわれてくのに、なれてきてるのかも。


でも、じかんはまってくれない。

なにもこわれてないふうに、すすんでいく。


「わたし」は、だんだん「だれか」になっていく。

ゆめのことば、はなせなくなった。

おんがくのことも、さけてる。

まえすきだったおとは、いま、ざつおんみたい。


でも、なぜか、すてきれない。

むねのそこに、ちいさくのこってる。

それがきぼうなのか、なごりなのか、わからない。


ただ、しずかに、なにかが、おわっていくのをかんじてた。

こころのどこかで、まだ、もえてるものがあるって、しんじたかった。





第七章:音のない余白


 朝が来ても、空は白いだけだった。 目覚ましの音が鳴っても、体は動かなかった。 ただ、天井を見ていた。


 眠れない夜が続いた。

 スマホの光だけが、夜中の部屋を照らしていた。 頭の中は空っぽで、でも何かがざわざわしていた。


 音楽をやめようかと思った日もあった。

 もう十分、傷ついた気がした。

 何かを信じることに疲れた。

 作曲のために買ったソフトも、何度も開いては閉じた。 鳴らない音符、進まないマウスカーソル。


 でも、ふとした瞬間に——

 たとえば、コンビニの冷蔵庫が鳴らす低い音。

 電車のブレーキ音。

 誰かの咳払い、鳥の鳴き声。


 それらが、ひどく美しく聴こえるときがあった。 まるで、誰かが「まだ大丈夫だよ」と小さくささやいているようだった。


 夢なんて、叶わないかもしれない。 この人生に意味なんて、ないのかもしれない。 それでも私は……


 まだ「それでも」と言ってしまう自分を、どこかで憎めなかった。


 だれも応援してくれない。 だれも理解してくれない。 それでも、


 ——私は、本当に音楽をやりたいのか。

  ——私は、誰かと生きていけるのか。

 ——私は、何かを残せるのか。


 わからない。 でも、わからないままでも、歩くしかない。


 すべてが壊れて、空っぽになって、 それでもまだここにいるという事実だけが、 私の最後の音だった。


 この問いを、私はこれからも持ち続けて生きていく。


 ——終わらせないために。



> この物語にハッピーエンドはありません。

音楽で救われたわけでも、誰かに愛されたわけでもない。

それでも私は、音を、ことばを、問いを、今も持ち続けています。

それが今の私にできる、精一杯の「生きる」の形です。



終われなかったから、ここにいる



Kokoro yamai 作


第一章:音楽への目覚め


やらされて始めたはずだった。でも、そこに音があった。


第二章:吹奏楽と傷のはじまり


言葉にならない叱責。期待と失望の中で、音楽が痛みになる。


第三章:軽音楽と孤独、そして恋


ジャンルも心もすれ違って、居場所も気持ちも見失っていった。


第四章:崩れゆく心と眠れぬ夜


愛せなかった。愛されなかった。夜とスマホと無力な日々。


第五章:音を信じきれなくなった日々


音楽も、バイトも、勉強も、全部が私を削っていった。


第六章:静かに壊れていく


まともな言葉が出てこない。感情も、リズムも、軋んでいく。


第七章:音のない余白





























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