さようなら、大切な人
増田朋美
さようなら、大切な人。
その日は、曇っていてどんよりした日で、もう梅雨に入っているということがよく分かる日であった。そんな日でもご飯を食べるということは続いていく。それは、体や心を維持するために、必要なことでもあるのだ。でも、本当に必要なことは、それだけではないような気がする。
その日、蘭は、ぱくちゃんこと、鈴木イシュメイルさんがやっているラーメン店、イシュメイルラーメンを訪れていた。ちょうど市役所に車椅子を買い替える手続きをしに行ったところであった。ちょっと、面倒臭いけど、障害者として市に登録してある以上、車椅子を買い替えるときには、そうしなければならないのだった。
「ああ、蘭さんいらっしゃいませ。」
ぱくちゃんは、そう言って蘭を、テーブルに着かせた。
「ご注文は?」
蘭は少し考えて、
「あの、排骨麺を頼む。」
と、ぱくちゃんに言った。
「はいよわかった。じゃあ少し待っててね。まっている間は、テレビでも見ていて。」
ぱくちゃんがそう言って厨房に入っていくと、蘭は店に設置されているテレビのスイッチを入れた。
「臨時ニュースを申し上げます。今日未明、静岡県富士市、富士川橋付近で、男性の刺殺体が発見されました。遺体が所持していた免許証から、身元は、静岡県富士市に在住している、小宮山貴文さん、35歳と見られ、死因は、複数を刺された事による失血死であることから、警察は、殺人事件と断定し、犯人を捜査しています。」
「はあ、また事件が起きたのか。最近事件が多くて困るなあ。富士は平和なところだと思ってたのに。」
テレビのアナウンサーの声を聞いて、蘭は思わず言った。それと同時に、排骨麺を持ってきたぱくちゃんが、
「こんなに事件が多いと、富士市の評判も落ちるよねえ。被害にあった人の家族は、浮かばれないよ。」
と言いながら、蘭の前に丼をおいた。蘭はありがとうと言って、排骨麺を食べた。大きな排骨は、少々食べづらかったが、それでもよくあげてあって美味しかった。蘭は、このときは、この事件も対岸の火事で終わってしまって、自分には全く関係ないことだと思っていたのであるが、意外にそうでもない。
ぱくちゃんの店で排骨麺を食べたあと、蘭は、ぱくちゃんにお願いして、タクシーを呼んでもらい、自宅へ帰った。自宅に戻ると、おいてあったFAXが音を立ててなった。そこには、マジックでなぐり書きのような感じで、こんな文句が書かれていた。
「彫たつ先生、いつも娘のことを気にかけてくださってありがとうございます。実は今日、娘の佐藤美栄子が事件を起こしまして、警察に行きました。先生にはせっかく大事なところまで彫って頂いたのに、残念です。本当にごめんなさい。佐藤茂子。」
蘭は、いつも刺青を入れに来てくれるお客さんに対しては、決して半端彫にしないで、最後まで完成させるように言い聞かせている。そのため、蘭のところに来た客で、半端彫で終わってしまう客は、ほとんどいなかった。蘭はとりあえず、FAXにかかれている佐藤茂子さんのお宅まで、電話をかけてみた。
「もしもし、佐藤美栄子さんのお宅で間違いありませんか。あの、刺青師の伊能蘭と申しますが。」
「ああ、あの、美栄子さんの。」
そこまでは出てくれたのだが、それ以上のことは言ってくれなかった。多分、家政婦さんでも雇っているのだろうなとわかったが、佐藤美栄子さんがどんな事件を起こしたのかを教えてはくれなかった。蘭は、何度か質問をしたが、家政婦さんの応答は、しどろもどろで何を言っているかわからない。蘭は、仕方なく電話を切った。そして、パソコンで電話番号を入力して佐藤美栄子さんの住んでいるところを調べ上げ、またタクシーを呼んでその家に行ってみた。行ってみるとその家は、ピカピカの高級車が何台か止まっているような豪華な家であった。蘭がインターフォンを押してみると、家政婦のおばあさんが出てきた。蘭が、自分の名前を名乗り、心配だから来たというと、おばあさんは蘭を車椅子ごと中へ入れてくれた。
「先生、どうも来てくれてありがとうございます。この度は娘が不祥事を起こしまして、ほんとうに申し訳ありません。」
そういう佐藤家の女主人である佐藤茂子さんは、なんだか誰かのオペラに出てきそうな悪役のように堂々としている感じの人だった。
「あの。本当に佐藤美栄子さんが事件を起こしたのでしょうか?」
蘭がそうきくと、
「はい。先程、警察に出頭して、全部内容を話したそうです。なんでも小宮山貴文を殺害して、富士川橋の下へ持っていったというのは、美栄子なんです。」
と、佐藤茂子さんは言った。
「それにしても、本当に、彼女が犯行を行ったのでしょうか。複数回刺されたという残酷な殺し方は、よほど強い殺意がないとできませんよね。」
蘭がそう言うと佐藤茂子さんは、
「ええそうされても当然です。小宮山は美栄子から、息子の慎吾くんを奪って家から出ていっただけでなく、美栄子の他に女を作って出ていきました。それを美栄子は復讐のために殺害した。あんな男、殺されて当然なんです。」
と、蘭に言った。
「そうなんですか。気の合わない結婚だったのでしょうか。それならどうして、小宮山さんと、美栄子さんが結婚に至ったのですか?僕も彼女から、話を聞きましたが、あまり、夫婦仲は良くなかったようですね。」
蘭がそう茂子さんに聞くと、
「ええ!私も、結婚には反対でした。もともと小宮山はうちの料理人として雇った使用人で、美栄子がその人柄を好きになって結婚したのですが、私は結婚してもうまくいかないって思ってたんです。最も、小宮山を料理人として雇いましたので、料理の面では申し分ないのですが、それ以外は何もいいところはありませんでした。」
と、茂子さんは答えるのであった。そうなるとかなりの格差婚であったことがわかる。
「それで、息子さんである慎吾くんが生まれて。」
「ええ。ですが、小宮山ときたら、育児が面倒になってしまったのでしょうね。その頃から外に女を作るようになりました。私が、美栄子に、この男はだめだから分かれなさいといったところ、小宮山は慎吾を連れていくというのです。だから、美栄子は逆上して、小宮山に復讐をしたんです。自分の産んだ子を、よその女に取られたことに対する復讐。」
なんだかテレビドラマみたいな筋書きであるが、そうなってしまったのだろう。そのとおりなら、確かに、小宮山という男は、無責任な男であると言える。
「それで、慎吾くんは今どこに?」
蘭が言うと、
「そんなこと知りません。美栄子が会いたいと言ってもあわせてもらえなかったんです。風の噂では藤樹園とか言う施設で暮らしているようですが、実の母である美栄子は一度もあわせてもらえてないんです。それで、私が、今から行こうと思っていますが、先生一緒に行ってくれますか?」
茂子さんはそういうのであった。蘭は同行することにした。茂子さんと一緒に、タクシーに乗り込む。何よりも事件に関わっているのが、自分のところに来ている客だから、蘭は放置するわけには行かないと思ったのである。
蘭と茂子さんはタクシーに乗って、慎吾くんという少年がいる藤樹園という施設へ向かった。蘭と茂子さんが建物内に入って、とりあえず主任保育士という女性に、佐藤慎吾という少年はこの施設にいるかと聞いてみたところ、
「佐藤ではありませんね。それを言うなら小宮山慎吾くんでしょう。慎吾くんは、お父様が亡くなられたあと、新しいお母様と一緒に東京へ引っ越していきましたよ。」
と言われてしまった。
「新しいお母様?」
蘭が聞くと、
「はい。小宮山貴文さんの奥さんと名乗り出た、小宮山武子さんと言う女性の方が、慎吾くんをひきとっていかれました。なんでも、武子さんは、慎吾くんの事をとても気遣っていて、慎吾くんにはきちんとした教育が必要だと言うことで、都内の学校へいかせると主張されました。」
と、保育士は答えた。
「はあ、えーと、そうですか。」
蘭は驚いてしまった。
「その、小宮山武子さんと言う女性は、慎吾くんに対してそんなに思いがあるんですね。それでは何も悪い女性ではないじゃないか!」
「いいえ!その武子という女性が、美栄子から慎吾を盗ったんです。あの女性を私は絶対に許さない。あの武子という女性は自分勝手です。慎吾の母親は美栄子なんだから!」
茂子さんはそう言っているが、どちらが善でどちらが悪なのか、蘭はわからなくなってしまった。
「でも、慎吾くんと武子さんという女性が幸せにくらしているんだったら、それはそれで良かったのではないかと思ったほうがいいのではないのですかね?」
「何を言ってるんですか!小宮山がその武子という女といっしょになり、慎吾がその女に盗られてしまったなんて、美栄子にとって、こんな不憫なことはないでしょう!」
茂子さんはそう言っているが、蘭はそうは思えなかった。
「あのですね。もう慎吾くんは東京へ行きました!貴方がたがここで騒がれても困ります。ここは小さな子どもたちがたくさんいるところなのですから!貴方がたが、いくら面会を希望しても、慎吾くんは小宮山武子さんのもとにいます。もうこの施設にはおりません。それに小宮山武子さんのことを貴方がたは随分悪く言ってるようですが、武子さんはとても優しい方ですよ!」
主任保育士はそういうのであるが、茂子さんは、すぐに、
「な、なんですって!」
と食って掛かった。
「ええ。本当にとても優しくて親切です。とても子供思いで、優しい方です。その武子さんをあの女など呼ぶのはやめてもらえませんか?」
主任保育士は、そう言い返した。佐藤茂子さんは、
「ど、どうして、あんな女に!」
とまだ悔しそうな様子であったが、
「失礼ですけど、今日は帰ってもらってもよろしいですか!」
と主任保育士は言った。蘭は、二人のガチバトルがここで勃発しても困ると思ったので、茂子さんにもう帰ろうと促した。蘭は急いでタクシーを呼び。茂子さんと一緒に乗ったのであるが、茂子さんが、家へ帰りたくないと泣いていたため、仕方なく製鉄所で時間潰しをすることにした。
「その小宮山武子という女性は、どういう人なんですか?」
タクシーの中、蘭は、そう聞いてみるけれど、茂子さんは泣くばかりだった。
同じ頃、製鉄所では、一人の女性が、布団に座っている磯野水穂さんに話していた。彼女は、音大を出てしばらくの頃、水穂さんにピアノを習ったことがあるという。
「あたし、これも運命だと思って受け入れることにしました。父も母も死んで、もうこの世にはいないと思ったら、今度は貴文さんもなくなってしまいましたけど、慎吾くんだけは生きています。これから慎吾くんと二人だけになるけれど、、、。本当は貴文さんと一緒に幸せになりたかったんですけどね。それも叶わなくなりました。ごめんなさい先生。いつも嫌な話ばかりで。」
「いいえ、そんなことありません。武子さんは一生懸命慎吾くんの面倒を見ようとしているのが、本当に頭が下がります。」
水穂さんはそう言って彼女を褒めた。
「だって、仕方ないじゃないですか。誰も慎吾くんの事を見てくれる人はいなかったんですから。実のお母さんだって、私のピアノ教室へ来たときも、理由のわからない、辻褄が合わない発言ばかりしで、本当に慎吾くんを育てられるかわかりませんでした。それを、お父さんの貴文さんは心配していたんです。だって、慎吾くんは、病気のお母さんから、毎日毎日理由のわからないことで怒鳴られて。それを、貴文さんは、悪い影響が出てしまわないか、本気で心配していたんですよ。あたしだって、こんなお母さんでは、慎吾くんが可哀想だと思いました。でも、それを止めてくれるはずだった、貴文さんがああなってしまっては、あたしが慎吾くんを見るしかないじゃありませんか!」
「そうですか。女の人って、男性にはできない決断をできるんですね。血もつながっていない慎吾くんを育てようと決断するなんてとてもできませんよ。そういう、すぐに決断できてしまうところ、女性らしくて、素晴らしいと思います。」
水穂さんが、驚いてそう言うと、
「先生、落ち着いてきたら、慎吾くんをここへ連れてきてもいいですか?慎吾くんはピアノがすごくうまいんです。それは慎吾くんの才能として伸ばしてあげたいですしね。あたしたちは、東京に住みますが、ここであれば新幹線ですぐ来られますし。」
と、武子さんは言うのであった。
「わかりました。ぜひ連れてきてください。もちろん、慎吾くん本人が来たいと意思を示してくれればですが。」
水穂さんがそう言うと、
「ええ、わかりました。その時は先生もお体を、良くしてくれるといいな。先生も、これからも素敵な演奏を聞かせてあげてください。」
と、武子さんはにこやかに言った。
「じゃあ先生。バスが来てしまいますから、これで失礼します。ここからだと、富士山エコトピアのバス停で乗ればいいんですよね?」
「いえ、そこではなくて、富士かぐやの湯の停留所のほうが近いですね。ちょっとわかりにくいところにありますので、お送りいたしますよ。」
水穂さんは立ち上がって、着物の上に絽の羽織を着た。そして、水穂さんと武子さんは、二人で富士かぐやの湯というバス停に向かって歩いていった。
二人が、富士かぐやの湯のバス停に到着すると、向こうから、蘭と茂子さんがやってきた。茂子さんは、武子さんを見るとすぐに駆け寄ってきて、
「この泥棒猫!美栄子をあんな目にさせて、今度は慎吾まで奪っていくなんて!」
と怒りをぶつけたが、その場で転倒した。水穂さんと武子さんが、すぐに大丈夫ですかと声を掛けるが、
「あんたみたいな泥棒猫に、介抱されてたまるもんですか!美栄子は、あんたに貴文さんだけでなく、慎吾まで盗られたんですよ。それを復讐したはずなのに、今度は慎吾をあなたが盗っていくんですか!」
と、茂子さんはころんだまま怒りを表した。
「そんなこと、本当にあったのでしょうか。こちらの女性が、悪意で慎吾くんを盗ったとは、どうしても思えませんね。」
蘭が思わずそう言うと、
「子供は実の母親のそばにいさせるのが一番良いってのは誰でもご存知でしょう。娘の夫を盗んだばかりではなくて、その息子まであなたは横取りするなんて、なんという泥棒猫なんでしょうね!」
と茂子さんは言った。
「そんな事を言われても、武子さんから聞きましたが、娘さんである美栄子さんは、精神疾患があって、彼女のもとで生活するのは慎吾くんは危険だと福祉局から睨まれたこともあったそうですね。それを心配して武子さんは、慎吾くんを引き取って育てる決断をしたんだそうです。だから、怒鳴るのではなくて、武子さんを褒めてやるべきではないかと思うのですが?」
水穂さんがそう言うと、
「単に、慎吾くんをものだと思ってはだめです。慎吾くんは一人の人間なのですから、その彼が幸せになるように、大人は働きかけなくちゃいけないんですよ。それが、大人のすることではないですか?」
蘭も水穂さんに続けてそういったのであった。
「でも、この女は、美栄子から最愛の息子である慎吾を奪った女性です。それに慎吾だって、どんなにひどくても実の母親といっしょにいたいと思うのではないのですか?」
茂子さんはまたそう言うが、
「いいえ、そんなことありません。大事なのは子供に愛情を示すことができるかどうかです。精神障害のあるお母さんでは、それが実現できるか疑わしい。それに、実の親でなくても幸せになれる人間もいますよ。僕も、育ててもらったのは、実の親ではなく、村の有力なおじさんとお寺の和尚様、そういう人がしてくれました。」
水穂さんがそういった。茂子さんは水穂さんの着物を見て、
「はあ。あなたがそんなこと言ってもいいものですかね。」
と、バカにしたように言ったのであるが、
「慎吾くんの事を、幸せにしてくれようとしてくれる人が、現れてくれたのですから、その人に任せるのも大人の勤めではありませんか?」
水穂さんは、そうきっぱりと言った。誰も文句を言わなかった。茂子さんは泣いていたが、誰も彼の発言に反論しなかった。それと同時に、富士駅行のバスがやってきた。
「慎吾が待ってますので、これで帰りますね。では、御免遊ばせ。」
と武子さんはバスに乗り込んで座席に座った。
「ちょっと待って!美栄子はどうなるの!」
茂子さんはそう言っているが、武子さんを乗せたバスは無視してそのまま行ってしまった。
「きっと、美栄子さんのことは、司法がなんとかしてくれると思います。おそらく、刑が決まればその年数だけ、刑を受けることになります。それを一生懸命やれば、きっと償えますよ。そして二度と繰り返さないように、彼女には努力してもらうことです。」
水穂さんがそう言うと、蘭は大きなため息を付いた。二人の女性の戦いは、実の母ではなく他人である、小宮山武子さんが勝利したのである。
その、都内の小さなマンションで、一人の少年がピアノに向かっていた。それを、掃除をしながら家政婦のおばさんが、眺めていた。
「慎吾くん、練習が終わったらお茶を淹れますから、飲んでくださいね。ケーキがあるって、武子さんから仰せつかっています。」
「ありがとうおばちゃん。武子さんはいつ帰って来るの?」
慎吾くんはそう聞いた。
「今、新幹線に乗ったという連絡がありました。なのであと一時間程度で、東京駅につくと思います。」
家政婦のおばさんはそういったのであった。
「そうなんだねえ。本当は、誰かにずっとそばにいてほしいなあ。もうパパもいないし、僕は一人でずっとピアノを弾いて寂しいな。」
慎吾くんは、そうおばさんに言った。
「まあみんな幸せになりたくて生きているんでしょうけど、いろんなやり方でそれを掴むんだと思いますよ。」
おばさんはそう言ってにこやかに笑ったのであった。
「僕は生きていていいと思う?」
慎吾くんは寂しそうに言った。でもその顔はどこか自分の運命はこうなのだと受け入れている顔でもあった。おばさんは、答えを言わずに、もう少し頑張ろうとだけ言って、掃除の仕事に戻った。
さようなら、大切な人 増田朋美 @masubuchi4996
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