第9話:消えていくものたち

補給部隊として指定されたはずのルートは、本来であれば敵との交戦が起きにくいとされていた。だからこそ、訓練兵であるセレスタイトが同行を許された。


しかし、予定はあくまで予定でしかない。


道中で合流予定だった別部隊が、指定の時刻を過ぎても現れなかった。何らかのトラブルが発生した可能性を考慮した指揮官は、現地の状況確認を決断。セレスタイトたちは、補給部隊の一部としてその確認に同行する形で、近隣の村まで向かうことになった。


「あくまで偵察だ。危険はないはずだ」


そう言い切った指揮官の声には、自分自身への言い聞かせのような響きが混じっていた。


しかし、その言葉とは裏腹に、現地はすでに静かな戦場と化していた。


補給車を安全な場所に止め、徒歩での探索が始まる。乾いた土の上に残る不自然な足跡。吹き飛ばされたままの荷物。建物の一部には焼け跡すらあった。


セレスタイトたちは、知らぬ間に最前線の端へ足を踏み入れていたのだった。


夜明け前の空は、墨を流したように濃い灰色だった。遠くで低く砲撃音が響き、空気は妙に重く、肌に刺すような冷気を帯びていた。


セレスタイトは何も言わず、しゃがんで靴ひもを締め直す。背中の装備を確認しながら、深く息を吸った。胃のあたりに冷たい石でも詰められたような感覚がある。


兵士たちは無言でそれぞれの準備を進めている。口数は少ないが、その分、動きは確かだった。


「おい、ガキ……じゃなかった、セレスタイト」


振り向くと、訓練で世話になった年上の兵士が手袋を放ってきた。


「落とすなよ、それ。支給品でも結構いいやつだからな」


「……ありがとうな」


厚手の皮手袋を握りしめると、体温がじんわりと伝わってきた。その温もりが、不思議と胸の奥をざわつかせる。自分以外の人間が、そこに確かに生きている。そんな当たり前のことが、なぜか心の奥に染み込んでくる。


──


トラックの荷台で、セレスタイトは黙って揺れに身を任せていた。


同じ車両に乗っている兵士たちは、それぞれの方法で緊張を和らげようとしている。銃を丁寧に拭く者、弾倉を一つひとつ確かめる者、目を閉じて祈りを捧げる者。


誰かが「また今日も生きて帰れますように」と、呟くように口にした。


セレスタイトは、ただ静かに空を見た。


(……誰が死んでもおかしくねぇ場所に、今から行くのか)


まだ手に馴染まない銃が、足元に横たわっている。重さが、実際の質量以上に感じられた。


「よぉ、ちび。緊張してんのか?」


隣に座っていた男が、笑いながら軽く肩を叩いた。


「……してねぇ」


「強心臓だな。初陣だってのに、ガクガク震えてる奴もいるってのに」


「……震えてる奴の方が、ちゃんと怖がれてて、偉いと思う」


その言葉に、男は一瞬きょとんとした表情を浮かべた後、短く笑った。


「お前、ほんと面白ぇな。変なガキだ」


その笑い声は短く、けれど確かに、張り詰めた空気を少しだけほぐしてくれた。


──


最初に足を踏み入れた村は、ひどく静かだった。


建物の壁はところどころ崩れ、割れた窓からは冷たい風が吹き込んでいた。けれど、明確な敵影は見えない。部隊は慎重に、二手に分かれて進んだ。


セレスタイトの周囲は、吐息すら抑えた静けさに包まれていた。


そして、数歩先を歩いていた兵士が、ぴたりと動きを止めた。


「待て……伏せろ!」


爆発音が響いたのは、その直後だった。


土煙と火花が視界を覆い、耳の奥で金属音のような響きが鳴り続けた。セレスタイトは反射的に地面に伏せ、咳き込みながら前方を睨む。


「っ……!」


倒れている兵士。飛び散る血。誰かの叫び。


セレスタイトの脳が、「戦場」という言葉の意味を、やっと現実として受け入れた瞬間だった。


──


その後も戦闘は断続的に続いた。


家屋の窓から、狙撃の光が見える。物陰に隠れた敵からの一撃により、また一人、仲間が崩れ落ちた。


セレスタイトは撃った。何度も撃った。


銃声は自分のものか、誰かのものか分からなくなっていく。


腕は痺れ、肩が震え、それでも引き金を引く手は止めなかった。


撃たなければ、今度は自分が撃たれる。


敵の顔ははっきり見えなかった。


けれど、撃たれた仲間の顔は、はっきりと見えていた。


──


戦いが終わった頃、空は橙色に染まっていた。


あたりには、煙と血と焦げた匂いが入り混じる。


死体を収容する作業が始まる中で、セレスタイトは血まみれの手袋を外し、地面に落とした。


「おい、セレスタイト……無事か……」


声をかけてきたのは、訓練中によくからかってきた兵士だった。


その声が、妙に弱々しく聞こえた。


「……無事だ」


喉が乾ききっていて、声がかすれていた。それでも、確かにそう答えた。


「……あいつら、全員……」


「……そうだな。今日は地獄だった」


短く、そう呟いた男は、空を仰ぎ見た。


──


夜。仮設の寝床。


セレスタイトは、簡易ベッドの端に腰を下ろしていた。


瓦礫を避けて組まれた即席の寝床には、まだ火薬の匂いが染みついている。


明かりは薄く、風が幕をわずかに揺らしていた。


隣のベッドは空だった。


枕元に、一通の手紙が置かれていた。


小さな紙に書かれた短い文。それは、幼い弟から送られてきたものらしかった。


──「にいちゃんへ。こんどは、たんじょうびにかえってきてね」


その文面には、誤字も線の揺れもあったが、不思議と胸に刺さった。


無防備なほどまっすぐで、どこまでも信じているようだった。


この手紙を綴った者も、それを読んだ者も、今はもうどこにもいないのかもしれない


けれど、この手紙だけは確かにそこにあった。


セレスタイトは静かに目を伏せた。


「……全部、消えていくんだな」


その声は、夜の幕の奥へと沈んでいくようだった。


誰にも届かず、誰にも気づかれることなく。


ただそこにいて、その紙切れを見つめていること。


それだけが、今の彼にできる全てだった。

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海が眠るところで huwahuwawataame @huwa2wataame

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