#34 近すぎて言えなかった
夕暮れが事務所の窓を淡く染めていた。
茉莉子が招き入れたのは、小柄でどこか控えめな印象の女性だった。
白いブラウスの袖口には洗いざらしの柔らかい皺。トートバッグの持ち手は使い込まれて色が薄くなっている。
それでも姿勢は凛としていた。生活に追われながらも、芯の強さを失っていない女性の立ち姿だった。
巧翔が頭に浮かべた人物。巡ではなかった。
「館本さん…… でいらっしゃいますか?」
「すみません、突然…… お邪魔いたしましてわたくし、あの、館本 朋子と申します」
名乗ると、彼女は深々と頭を下げた。
その仕草には、礼儀と覚悟の入り混じった空気があった。
茉莉子に目で合図を送り、応接スペースへ案内する。
ちゆきは武琉を連れてさっさと給湯室に向かったので、お茶の用意をしに行ったに違いない。
つくづく気の利く、できた小学生だと感心する。
「どうぞ、お掛けください」
巧翔が言うと、母親は席につき、膝の上でバッグを抱えたまま、ためらいがちに口を開いた。
「娘の机を片づけていたら…… こちらの名刺が出てきまして」
差し出されたのは、千堂事務所の名刺。
少し角が折れ、インクの跡に手の脂が残っている。何度も触れた形跡があった。
巧翔は名刺を見つめ、すぐに事情を察する。
自分が渡したもので間違いないだろう。
「館本さん…… 巡さんのお母さま、ですね」
「はい。突然お伺いしてしまって、本当にすみません。この名刺を見たとき、最初は“芸能関係の人に誘われたのか”と思って」
その声には、怒りよりも戸惑いと不安が混ざっていた。
無理もないだろう。芸能事務所の名刺を捨ててしまうのでもなく娘が持っていて、それについてなにも相談がない。
心配しない親などいるものか。軽率な行動だったと反省する。
「申し訳ございません。そちらの名刺をお渡ししたのは、私です」
数日前に、サバイバルゲームフィールドで巡さんとお会いした時に……」
「そうでしたか…… あの子、昔から男性が苦手で、あまり人付き合いもしないんです。だから、もし変な勧誘だったらと思うと、どうしても落ち着かなくて」
「決して怪しい勧誘のつもりはありませんでした。最近アイドル事務所として舵をきった当事務所で、アイドル活動をしてみないかというお誘いをさせていただきました」
母親はふと考え込むと、ポツリと呟いた。
「アイドル……」
巧翔は、言葉を待った。何かを伝えようと、言葉を選ぶのをじっと。
「私と夫は、巡が小さい頃に離婚しました。それからはずっと二人きりで生きてきました。
私がパートを掛け持ちして何とか暮らしてるんですけど…… あの子、小学生の頃から、私を支えるために家のことを全部やってくれるんです」
トートバッグを握った手に力がこもるのがわかった。
「高校に入ってからは、学費も自分で稼ぐって言って、本屋でバイトまで始めて……」
母親の声がわずかに震えた。
そこへ、お茶を煎れたちゆきがやってきて、会釈して戻っていく。カステラをお茶請けに出し、場の空気を読んで静かに去っていくあたり、正直自分より大人なのでは? とさえ思えてくる。
「あの娘には、本当はもっと、好きなことをさせてあげたいのです」
顔を伏せてしまった母親に対して、巧翔が口を開いた。
「私はサバイバルゲームのフィールドで、偶然巡さんにお会いしました。
仕事の息抜きで参加していたんですが、彼女は女性チームの“助っ人”として呼ばれていました」
そのときの情景が脳裏に蘇る。
遮蔽物の陰から見えた少女の横顔。フィールドを駆ける姿。その迷いのない動きと、確実な射撃。
「一対一で対峙したんですがね…… 完敗だったんですよ」
少し恥ずかしそうに話す。
「彼女の判断力も行動力も、そして振る舞いや、纏った空気が、とても輝いていたんですよ。
なにを言っているんだ。と思われるかもしれませんが…… その瞬間もその後の仲間たちとのやり取りも、とても充実していて楽しそうでしたよ?」
おもむろに顔を上げた母親の瞳がわずかに潤んだ。
初めて聞く娘の姿に、言葉を失っている。
「最初は人見知りしていましたけど、話すうちに、芯の通った子だとすぐに分かりました。
だから、思い切って声をかけたんです。——“うちでアイドルをやってみないか”って」
母親は一瞬、息を止めたようだった。
視線が宙をさまよい、言葉の意味を静かに飲み込もうとしている。
「実はここ数日、少し様子が変わったと感じました。夜遅くに帰ってきても、表情がどこか明るくて。
だから、この名刺を見たとき…… “芸能界に興味を持ったのかな”と思って、少し嬉しかったんです。
けれど、もしも知らない誰かに変なことを言われていたらと考えると、居ても立ってもいられなくなって……」
彼女の言葉を最後まで聞くと、巧翔はゆっくりと頷いた。
「そのご心配はもっともです。でも、どうか安心してください。
私が声を掛けさせていただいたのは、巡さんがサバイバルゲームで類稀なちからを発揮するのを目の当たりにしたからなのです」
女性の眉が、わずかに動く。
「宇都宮市を中心に活動するアイドルの特殊な事情から、うちでは歌って踊れるだけでなく、サバイバルゲームのような戦うことのできるアイドルを探しているんです」
母親も、ローカルアイドルの存在については知っていたが、トルトラについてまでは知らなかった。
巧翔は思わず苦笑しながら、活動内容や特徴を丁寧に説明する。
——宣伝がまだ足りないな、唐沢桐生。そんな軽い独り言が心の中でこぼれた。
母親は、長い沈黙ののちに小さく笑った。
「では、あの子はやっぱり、断ったんですね」
「まあ、はっきりと断られたわけではないのですがね。私は、師匠が託してくれたエアガンと、戦場を行きたい。と言われました」
「あの子が初めてあのおもちゃを手に入れた日、すごく楽しそうな笑顔をしていたのを覚えています」
母はうつむき、手のひらをぎゅっと握った。
「あの子には、ずいぶんと我慢させてしまいました。友達といろんな場所に遊びにも行きたかっただろうし、おしゃれもしたかったと思います。
だからもしも、あの子が“やってみたい”と思っているなら、私は応援したいんです。
わがままも言わず、ずっと頑張ってきたあの子が、自分の夢を見つけられたのなら——」
言葉が涙に変わる。
茉莉子がそっとティッシュを差し出した。
静かな間が流れ、やがて母は顔を上げた。
その瞳は決意を帯びていた。
「社長さん。もしもあの子に、やってみたいという思いがあるなら…… 私は止めません。
いえ、むしろ背中を押してあげたい。
やってみたいと思えることがあるなら、やらせてあげたいんです」
その真っ直ぐな言葉に、巧翔は胸が熱くなった。
「わかりました。ただ、私は一度断られてしまった立場ですので、こちらから無理に声をかけるわけにはいきません。けれど、もし彼女の心が動いたなら—— そのときは、全力で支えます」
「……でしたら、私から話してみます」
母はまっすぐ顔を上げ、微笑んだ。
それは、娘を信じる者の顔だった。
「これは、私のような不甲斐ない親でもできる、せめてもの務めだと思っています。
あの子は、きっともう一歩を踏み出したいと思っている。
今日は、お話を聞けて本当によかったです。本当に、ありがとうございました」
立ち上がった彼女は、丁寧に頭を下げた。
茉莉子と一緒に巡の母親を見送った。隣で茉莉子がぽつりと呟いた。
「……急展開ね」
巧翔は苦笑した。
「ほんとに。まさか、本人より先にお母さんが来るとはな」
窓の外では、茜色の光が沈みかけていた。
母が去ったあと、応接テーブルの上の湯呑みを見つめながら、小さく息を吐いた。
「あの親子が、互いのことを思いながら、それでも言えなかった気持ちを少しだけ形にする。そのための後押しになれたのかな」
「……そうね。そうだと、いいわね」
茉莉子の微笑みは、夕暮れの光に溶けてやわらかく揺れた。
巧翔も静かに頷き、その光景を胸に焼き付けた。
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