記憶の剣聖クロスフェイト

雪森 ぞう

第1話「百の英雄と一人の少年」


  百の英雄の記憶が、俺の内で咆哮した。

 だが、最強の敵を前にして、俺はようやく一つの真実に気づく。

 ──本当に必要だったのは、“俺自身”の力だった。

 

     *   *   *

 

 ──時は遡り、全てが始まる、その前日。

 

「シエルト!朝よ!起きなさい!」

 

 階下から響く母の声に、俺──シエルト・グレイスは重い瞼を開けた。

 

 カーテンの隙間から差し込む朝日が眩しい。いつもと変わらない朝。明日で16歳になる、ただの没落貴族の三男坊の日常。

 

「今日こそ早く起きようと思ったのに……」

 

呟きながら、ベッドを這い出し、ぼんやりと伸びをする。窓を開けると、清々しい風が部屋を満たす。今日はいい日になりそうだ。

 

そう思った、その瞬間──

 

「っ!」

 

突如として、頭を鋭い頭痛が貫く。

 最近、これが妙に増えている。医者は「成長期にはよくあること」と言ったが、俺にはどうにもそうは思えなかった。

 

 頭に手を添えつつ、ゆっくりと階段を降りると、食堂では既に家族が揃っていた。

 

「おはよう、シエルト」

 

 読み物をしていた父が顔を上げる。グレイス家は没落したとはいえ、父の威厳は健在だ。

 

「相変わらず寝坊助ね」

 

 母の言葉に、長兄のレイモンドが苦笑する。王都で下級騎士として働く彼は、休暇で帰省中だった。

 

「そういえばシエルト」

 

 次兄のディートが商売の帳簿から目を上げる。

 

「王立学園の願書、もう出したのか?」

 

「まだ……」

 

「早くしないと締切だぞ」

 

 そう、王立学園。

 貴族の子弟なら誰もが憧れる最高学府。剣術、魔法、学問……あらゆる分野の英才が集まる場所。

 

 でも──

 

「推薦状がないと願書も出せないだろ」

 

 俺の言葉に、食卓が静かになる。

 

 没落貴族とはいえ、グレイス家には推薦権がある。しかし、それを行使するには王都への申請が必要で、既に何度も却下されていた。

 

「その件だが」

 

 父が口を開いた。

 

「実は昨日、ようやく許可が下りた」

 

「本当ですか!?」

 

「ああ。随分と頭を下げて回ったが、何とか一枠だけ確保できた」

 

 母が優しく微笑む。

 

「子のためよ。お父様、本当に頑張ったのよ」

 

「一枠……」

 

 レイモンドが眉をひそめる。

 

「でも、シエルトだけじゃなく、ディートも──」

 

「俺はいい」

 

 ディートがあっさりと言った。

 

「もう商売で食っていけるし、今更学園なんて行く気もない」

 

「でも──」

 

「シエルト、お前が行け。俺たちの分まで、グレイス家の名を上げてこい」

 

 兄たちの期待が、重い。

 正直、自信なんてない。剣術の才能もないし、魔法も使えない。

 

 その時、玄関の扉が勢いよく開いた。

 

「おはようございまーす!」

 

 元気な声と共に入ってきたのは、隣に住む幼馴染のリナ・フィルメールだった。

 

「あら、リナちゃん。朝ごはんはまだ?」

 

 母が聞くと、リナは照れくさそうに頷く。

 

「はい……また父が朝早くから仕事で」

 

 リナの父は優秀な職人だ。平民だが、その腕を買われて貴族からの依頼も多い。おかげでリナは一人で朝食を取ることが多く、よくうちに来ていた。

 

「じゃあ一緒に食べましょう」

 

 リナが俺の隣に座る。

 

「ねえ、エル」

 

 幼い頃からの愛称で呼ばれて、少し恥ずかしい。

 

「また頭痛?」

 

 鋭い。

 

「ちょっとだけ」

 

「最近多いよね。本当に大丈夫?」

 

 心配そうなリナの顔を見て、努めて明るく答える。

 

「明日になれば治るよ。16歳になれば、きっと」

 

 なぜかそんな気がした。

 明日を境に、何かが変わる予感。

 

 朝食後、リナと二人で庭に出る。

 春の陽気が心地いい。

 

「そうだ」

 

 リナが思い出したように鞄から何かを取り出した。

 

「明日の誕生日プレゼント、先に渡しておくね」

 

「まだ明日なのに」

 

「だって、渡しそびれたら嫌だから」

 

 小さな包みを受け取る。開けると、革製の手帳が入っていた。

 

「日記帳?」

 

「うん。学園に行ったら、きっと色んなことがあるでしょ? 全部書き留めておいて」

 

「全部って、大変じゃないか」

 

「いいの。後で一緒に読むから」

 

 リナの笑顔が、朝日を受けて輝いている。

 でも、その瞳の奥に、ほんの少し不安の色が見えた気がした。

 

「リナ?」

 

「ううん、なんでもない」

 

 そう言って、リナは俺の手を取る。

 

「ねえ、約束して」

 

「何を?」

 

「何があっても、エルはエルのままでいて」

 

 変なことを言う。

 

「当たり前だろ」

 

「うん……そうだよね」

 

 でも、リナの手は微かに震えていた。

 

 午後、レイモンドに呼ばれて訓練場へ。

 

「久しぶりに稽古をつけてやる」

 

 木剣を投げ渡される。

 

「でも兄上、俺、全然上達しないし」

 

「だからこそ練習が必要なんだ」

 

 構える。

 レイモンドも構える。

 

 そして──

 

「はっ!」

 

 一瞬で間合いを詰められ、木剣が喉元に。

 

「……早い」

 

「まだまだだな」

 

 何度やっても結果は同じ。

 俺には剣の才能がない。それは分かっている。

 

 でも、不思議なことがあった。

 

 レイモンドの動きが、なぜか読める瞬間がある。

 体は追いつかないけど、次にどう動くか、一瞬だけ見える。

 

 ──気のせい、だろうか。

 

「今日はここまでだ」

 

 日が傾き始めた頃、レイモンドが木剣を下ろした。

 

「シエルト、一つ聞きたい」

 

「何です?」

 

「最近、変な夢を見ないか?」

 

 どきり、とした。

 

「……なんで」

 

「いや、お前の動きを見ていて思ったんだ。まるで、別人の動きを真似ようとしているような」

 

 鋭い。

 確かに最近、夢を見る。

 銀髪の剣士が、誰かと戦っている夢。

 でも、目覚めると詳細は思い出せない。

 

「気にするな」

 

 レイモンドが頭を撫でてくる。

 

「明日は大事な日だ。ゆっくり休め」

 

 夕食の時間。

 父が珍しく酒を開けていた。

 

「明日でシエルトも16歳か」

 

 感慨深げに呟く。

 

「そういえば」

 

 母が思い出したように言った。

 

「グレイス家には言い伝えがあるのよ」

 

「言い伝え?」

 

「16歳の誕生日に、特別な夢を見る者がいるって」

 

 ディートが笑う。

 

「またその話? 子供の頃、さんざん聞かされたよ」

 

「でも、本当なのよ」

 

 母は真剣な表情で続ける。

 

「その夢を見た者は、グレイス家の真の後継者になるって」

 

「迷信だろ」

 

 レイモンドも苦笑する。

 

 でも、父だけは黙って酒を飲んでいた。

 まるで、何か知っているような──

 

 その夜。

 ベッドに入っても、なかなか眠れなかった。

 

 明日で16歳。

 何か、大切な日のような気がする。

 

 窓の外を見る。

 月が美しい。

 

 ふと、リナの言葉を思い出す。

 ──何があっても、エルはエルのままでいて。

 

 なぜ、あんなことを言ったんだろう。

 

 考えているうちに、ようやく眠気が訪れる。

 

 目を閉じる。

 

 そして──

 

     *   *   *

 

 気がつくと、見知らぬ場所に立っていた。

 

 一面に広がる花畑。

 ただし、花は全て銀色に輝いている。

 

「ようやく来たか」

 

 声に振り返ると、そこには銀髪の青年が立っていた。

 手には美しい剣。瞳は、どこか寂しげ。

 

「あんたは……」

 

「剣聖ユーリ」

 

 青年は静かに名乗った。

 

「お前の中で眠る、最初の記憶」

 

「記憶? どういう──」

 

「時間がない」

 

 ユーリが剣を抜く。

 殺気はないが、その剣圧だけで息が詰まる。

 

「明日、お前は覚醒する」

 

「覚醒?」

 

「ああ。百人の英雄の記憶が、お前の中で目覚め始める」

 

 意味が分からない。

 でも、なぜか嘘には聞こえなかった。

 

「ただし」

 

 ユーリの表情が曇る。

 

「力には代償がある」

 

「代償……」

 

「使うたびに、お前は大切なものを失う。それでも、お前は戦う運命にある」

 

 風が吹く。

 銀色の花びらが舞い上がる。

 

「待てよ! もっと詳しく──」

 

「夜明けだ」

 

 ユーリの姿が薄れていく。

 

「最後に一つ。リナという少女を大切にしろ」

 

「リナを? なんで──」

 

「彼女だけが、お前を──」

 

 言葉の続きは、闇に飲まれて聞こえなかった。

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