1000のバイオリン

10月。窓の外は、もうすっかり秋の気配だった。

色づき始めた街路樹の葉が、風に揺れて

サラサラと音を立てる。悠斗は、再び白い天井を

見上げていた。数日前の定期検診で、 担当医から告げられた再入院。右腕の回復は

順調に見えたが、経過観察のため、

もう一度入院が必要だという。


彼の心は、鉛のように重かった。

やっと学校生活に慣れ、健太たちと夢を語り合い、未来への希望を抱き始めた矢先のことだった。


「がんばれ がんばれ 負けるな」


心の中で、自身の声が響く。

誰に言われているのか。自分自身か、

それともこの理不尽な運命か。

右腕の傷痕に触れる。あの時、サッカーの夢を

諦めざるを得なかった痛み。それは、

もう過去のものだと思っていたはずなのに、

再入院という現実は、彼を再び絶望の淵へと

引きずり込もうとしていた。 


白い部屋の孤独


白い病室は、何もかもが非日常的で、

悠斗を現実に引き戻す。カーテン越しに

差し込む午後の日差しは、病室の冷たい空気を

温めることはできなかった。ベッドサイドには、

健太が持たせてくれたサッカー雑誌と、

美咲が描いてくれた小さな絵、

そして翼が選んでくれた洋書が置かれている。

それらが、彼の心をわずかに温めてくれる

唯一の光だった。


しかし、夜になると、その光も遠のいていく。

消灯後の病室は、漆黒の闇に包まれる。

聞こえるのは、自分の心臓の音と、

遠くで鳴る夜勤の看護師の足音だけ。


「僕らはどこへ行くのだろう」


悠斗は、問いかける。なぜ、自分だけが、

こんなにも試されなければならないのだろう。

他の友達は、学校で当たり前の日常を送っている。部活動に打ち込み、恋をして、試験に

一喜一憂する。それが、中学生の

「普通」の姿だ。なのに、自分だけが、

なぜこんな白い部屋で、未来の見えない

治療を続けなければならないのか。


ベッドの上で、何度も寝返りを打つ。右腕のわずかな痛みと、心の奥底で渦巻く不安が、彼を眠りから遠ざけていた。


「月の爆撃機」の咆哮


ある夜、悠斗は病室の窓から、満月を見上げていた。雲一つない夜空に、鈍い銀色の光を放つ月。

その光は、彼の心に、ある歌のフレーズを

呼び起こした。


「月の爆撃機が僕の心のど真ん中をぶち抜いたんだ」


それは、あまりにも強烈なフレーズだった。

まるで、この再入院という現実が、

悠斗の心の最も弱い部分を、容赦なく貫いていくかのようだった。サッカーの夢を失った痛み、

そして再び訪れた閉塞感。それらが、

彼の心に深い穴を開けていく。


悔しさ、情けなさ、そして、拭い去ることのできない孤独感。全てが混ざり合い、悠斗の心を深く沈めていく。


「もうダメだ」


思わず、そう呟いた。声に出してみると、 その言葉は、白い部屋に虚しく響いた。

これまでの努力も、健太たちと語り合った夢も、

全てが無意味に思えてくる。

スポーツ心理学の道。アスリートの心を支えたいという思い。それも、所詮はサッカーができない

自分を納得させるための、言い訳に過ぎないの

ではないか。そんな悪魔の囁きが、

悠斗の心を蝕んでいく。


中学生らしい葛藤:消したい感情


翌日、健太が面会に来てくれた。窓の外には、秋晴れの空が広がっている。


「悠斗、大丈夫か?みんな心配してるぞ」


健太は、いつものように明るい声で話し

かけてくれたが、悠斗はうまく笑うことが

できなかった。健太は、学校での出来事や、

サッカー部の練習風景を、楽しそうに話してくれた。健太が、懸命にボールを追いかける姿。

仲間たちと笑い合う声。その全てが、

悠斗には眩しすぎて、直視できなかった。


「世界中の誰にも言えない秘密をあげよう」


悠斗の心に、この再入院で初めて強く感じた

感情が渦巻いていた。それは、健太への

嫉妬だった。

自分も、あそこにいたかった。健太のように、

サッカーがしたかった。当たり前の

日常を送りたかった。彼が輝けば輝くほど、

自分の中の闇が深くなっていく。そんな醜い

感情を抱いている自分が、嫌で嫌で

たまらなかった。

美咲や翼からのメッセージも届いた。


美咲:「悠斗くん、絵を描いて心を落ち着かせてね。いつでも見に行くから」

翼:「悠斗、俺も今、デッサンに行き詰まってる。だから、また一緒に話そうぜ」


彼らもまた、それぞれの困難を抱えている。

美咲の体の不自由さ。翼の利き手の怪我。

彼らは、悠斗と同じように、理不尽な運命と

闘っている。彼らには、こんな醜い感情を

抱いている自分を見せたくなかった。


再び灯る、小さな光


しかし、夜空の月を見上げていた時、ふと、

別のフレーズが心に浮かんだ。 


「月の爆撃機が僕の心のど真ん中をぶち抜いてから 何もかもが変わったんだ」


そうだ。あの怪我で、全てが変わった。

サッカー選手としての夢は潰えた。だが、

だからこそ、スポーツ心理学という新たな道を

見つけ、美咲や翼、健太といったかけがえのない

仲間たちと出会えた。この再入院もまた、

自分を試す試練なのだ。


「一体僕らはどこまでやれるんだろう?」


悠斗は、ベッドから起き上がり、窓の外を見た。

月明かりが、病室の床に、一条の光を落としていた。その光は、決して明るくはなかったが、

闇の中で確かな存在感を放っていた。


自分の右腕は、まだ完璧ではない。サッカーをすることは、難しいかもしれない。しかし、

スポーツ心理学の知識を深め、誰かの心を

支えることはできる。この病室で、自分は、将

来アスリートを

支える上で、彼らの孤独や葛藤をより深く

理解する経験をしているのだ。 


「1000のバイオリンが空に響く」


悠斗の心の中で、メロディーが流れ始めた。

それは、希望の歌声だった。今は、まだ小さな、

かすかな音色かもしれない。しかし、いつか、

その音色は、大空に響き渡る千のバイオリンの

ように、多くの人々の心を震わせるはずだ。

悠斗は、ベッドサイドに置かれたス

ポーツ心理学の本を手に取った。

ページをめくると、以前書き留めた

「『頑張れ』って言葉は、時に呪いにもなる。でも、本当に大切なのは、諦めない理由を自分の中に見つけることだ。」

という言葉が目に入った。

彼は、震える右手でペンを握り、ノートの新しいページに、今日の自分の心を書き記し始めた。


「再入院。でも、俺は、ここで立ち止まらない。この痛みを、未来の誰かを救う力に変える」


彼の文字は、まだ少し歪んでいたが、

そこには、確かな決意が込められていた。

彼の夢は、決して諦めない。この試練を乗り越え、彼はもっと強くなる。そして、いつか、

自分と同じ痛みを抱える誰かのために、

そのバイオリンを奏でてみせる。

窓の外では、月が静かに輝き続けていた。

それは、悠斗の心の中で、再び灯り始めた小さな炎を、優しく見守るように。


このまま、湖にドボンかもね。

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