あの娘にタッチ
その日、悠斗はリハビリの帰り道、病院の中庭で
美咲を見つけた。車椅子に座り、スケッチブックを膝に乗せている。風に舞う桜の花びらが、
彼女の髪にふわりと触れては落ちていく。
悠斗は、そっと美咲の隣に歩み寄った。
「美咲、何描いてるんだ?」
悠斗の声に、美咲は少し驚いたように顔を上げた。彼女の頬が、桜の色に染まるように淡く色づく。
「悠斗…ここんとこの桜が綺麗でさ。つい、描きたくなって」
美咲ははにかみながら、スケッチブックを
少しだけ悠斗の方に向けた。そこには、
繊細なタッチで描かれた満開の桜並木と、
その下で楽しそうに笑う人々の姿があった。
しかし、よく見ると、描く手の震えが残るのか、
線がわずかに歪んでいる部分もある。
美咲は、その歪みを隠すように、
そっとスケッチブックを閉じた。
「もっと、上手く描けるようになりたいんだけどな。なかなか、思い通りにはいかないや」
美咲の言葉に、悠斗は自身と重なるものを感じた。サッカーボールを思い通りに蹴れない自分、
ペンを握る右手の震え。互いの胸に秘めた
葛藤が、言葉なく伝わる。悠斗は、美咲の
閉じたスケッチブックに、そっと指を伸ばし、
その表紙に触れた。
「あの娘にタッチ」
心の中で、そんな言葉が響く。それは、衝動的で、それでいて温かい、微かな光のような感覚だった。美咲は、悠斗の突然の行動に、さらに頬を
赤らめた。
未来への戸惑いと、確かな想い
夕暮れが迫る中庭で、二人は将来の夢に
ついて語り始めた。
「美咲はさ、将来、どんな絵を描きたいんだ?」
悠斗の問いに、美咲は遠くを見つめるように
目を細めた。
「まだ漠然としてるけど…誰かの心を温かくするような絵が描けたらなって思う。悠斗は?スポーツ心理学、頑張ってるって健太から聞いたよ」
美咲の言葉に、悠斗は少し照れながらも、
自分の抱いている夢を語った。アスリートの
メンタルをサポートしたい、怪我で苦しむ人の
支えになりたい。彼の言葉は、机上の空論
ではなく、彼自身の経験からくる真実の
響きを持っていた。
「世界中がみんな敵になったとしても」
悠斗は、ふと心の中でそんなフレーズを呟いた。
Jリーガーになる夢を諦めざるを得なかった
理不尽な世界。それでも、美咲のように、
互いの痛みを理解し、支え合える仲間が
いることの尊さを、彼は深く感じていた。
「でもさ、中学生が将来のこと語っても、なんか現実味がないっていうか…」
美咲は、そう言って小さく笑った。
その笑みには、漠然とした不安が滲んで
いるように見えた。悠斗も同じ気持ちだった。
目の前の世界は、自分たちの想像以上に広くて、
複雑で、そして時に残酷だ。
「俺もそう思う。でも、今、こうして美咲と話してる時間は、すごく大切だなって思うんだ」
悠斗は、真っ直ぐに美咲の目を見つめた。
美咲の瞳に、わずかな動揺と、
そして安堵の色が浮かぶ。
「僕が僕であるために」
悠斗の心に、確かな決意が芽生えていた。
たとえ未来が不透明でも、今、自分にできること
を精一杯やること。そして、目の前の大切な人を、大切にすること。
揺れる心、それでも進む足跡
別れ際、悠斗は美咲に背を向けたまま、
ぽつりと呟いた。
「美咲、俺…もし、この先、どんなことがあっても、お前のこと…」
そこまで言って、悠斗は言葉を詰まらせた。
続きの言葉を言う勇気が、どうしても出なかった。彼は、この淡い関係が壊れることを恐れていた。
美咲は、悠斗の背中をじっと見つめていた。
彼女もまた、悠斗の言葉の続きを待っていた。
しかし、悠斗から言葉は続かない。
「誰にも言えない秘密をあげよう」
美咲の心の中で、そんな歌詞がよぎる。
彼女もまた、悠斗への特別な感情を抱いていた。
しかし、まだ幼い二人の関係性、そしてお互いが
抱える身体の困難が、その想いを表に出すこと
を躊躇させていた。
悠斗は、振り返ることなく、ゆっくりと歩き始めた。美咲は、その背中が小さくなるまで
見送っていた。そして、誰もいなくなった
中庭で、彼女はそっとスケッチブックを開き、
先ほど描いた桜の絵に、二人の姿を
小さく描き加えた。
その絵の中の二人は、顔を見合わせて、
楽しそうに笑っていた。それが、
いつか現実になるのか、それとも淡い記憶
として心に残るだけなのか。
夕焼け色の空の下、悠斗は未来への一歩を踏み出した。その足跡は、決して力強いものではない。
しかし、彼が胸に抱く情熱の薔薇は、
まだ蕾ではあるけれど、確かに次の花びらを
開こうとしている。そして、その花が咲き誇る時、彼と美咲の物語は、また新たな局面を
迎えるだろう。
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