穢れた箱
緋翠
重なる記憶
よく夢を見る。
誰かを探している夢だ。
それはあまり憶えていない古い記憶で、決して心地の良いものではなかった。
隔絶された辺鄙な大地は、不気味で特異な様相を呈していた。世にに浸透した風潮を排し、俗界と遊離させる事を実現した虚空の空間は、悴んだ静寂で満ちている。断片的に残る記憶の残像と微かな憧憬が霞のように脳裡を掠めていった。
あわよくば卓見を捨象した不確かな時間は、忸怩たる万物の尺度で穿鑿の根底を覆さなければ、再度同一の過ちを繰り返すだろう。さもないと、魂が禁忌の極地に介在している虚構の超越へと昇華されてしまい、九泉を彷徨う羽目となってしまう。
人情の機微はその都度、感得した感情によって左右される。私は何も感じない。苛立ちさえも忘れてしまったのだろうか。
今日も暗い部屋でひっそりと誰かを待っていた。真理を精緻に観照すれば、毎夜私を悩ます焦燥を払拭して、開放されたいだけだ。傍から見たら哀れな姿に映るだろう。私はどうしようもなく寂しかった。深い眠りについたのはいつ頃だろう。今では知る由もない。
時が経った。夜の匂いが充満している。深い深い海の底から忍び寄る魚影のような計り知れない恐怖が突如、全身を縛った。指汗はねっとりしているが、特有の気持ち悪さはなかった。
屈服しろ、屈服しろ、屈服しろ――
間歇的に纏わりつき、脳髄に浸潤していた低い女の声には聞き覚えがあった。
記憶が走馬灯のようにフラッシュバックされる。
あれは、たしか――
城の一角には鍵がかけられていた。透明なフィルム越しに濃淡に富んだ些末な梁の艶が滑らかに伝播し、窓の界隈に熾烈な面影が鬱積されていく。その影は世故に長けたものではなく、遜色のない極めて恍惚とした謹呈であった。ぼやっと眺めていると薄い暗礁に乗り上げた闇が胎動を感じ取り、窓辺の一点が蕩けた。私にとっての枢要な拠点を独占し、新機軸となった辺り一帯には、一筋の光芒が垂れている。その姿は酷く虚しく見えたと同時に心の中で言葉にならない意思が滾った。失望や諦念から満ちる怒りだろうか。見つめていると、気分が悪くなった。倫理の悖った曖昧で仔細が区分されいない潤沢の奇跡が、ただ舶来するのを待つだけでは心が摩滅させられてしまうので、いつものように下界へと飛び出した。外は寒く暗い。だが、室内よりかは幾分、気持ちがよかった。
私は蹌踉めきながら身体だけを立ち上がらせる。息を切らしていた。底入れぬ愛憎感が一辺倒にならない所以は、平素から抜け出すための近道を物にしているからだ。誰がこうさせたのかは不明瞭なままである。周囲には、森閑とした長い長い渡り廊下、鬱蒼とした鎮守の森、典雅で静謐な宮廷、高く聳え立ち、瀟酒な一面を飾る金色の外壁が、淡い月明かりに照らされていた。かつての名残であるだろう優雅な佇まいは言わずとも荘厳で、まるで美女と野獣に登場する城みたいだった。満月の夜空によく似合っている。
見えるぞ。見える。
見えなくなった。
……ここはどこだ。
何故私は此処に立っているのだ。
暗い場所は嫌いだ。
ドクドクドクドクと心臓が五月蝿い。
月明かりでは心許ない。
眼下へと急ぐ。いまさら宙に舞う必要はあるまい。
ジュッジュッと乾いた音が鳴り響く。
眼下には荒い真っ赤な土が広がっていた。
音と風だけがその空間を支配したのは、まさにその瞬間だった。
急遽、頭上に蠢いていた暗黒の塊が雄叫びをあげた。飛行していたであろう泡立った蝙蝠は横に慄え、その肥えた声は嗄れてしまった。翠縹に染まりつつある空に神楽が集積され、体系を成した八百万の神が憤怒した。渦状の屍は事態が錯綜した警笛であり、巨躯な鯱が暴れているように見えた。太陽は隠れている。夜は明けないままだ。方策を考案しようとしたが、講じてたとしても、奴によって阻害させられるだけので諦めた。
数時間が経った。いつの間にか霈然と降っていた穀雨は、潸潸と喚く髫齔の鳴き声のように遠い空へと暈していった。仍重に掠れていく嗄声はもう聞こえない。娑婆気を刮ごうと躍起になるが忽ち湮阨と化した。金剛纂の切り淵から、黒い幎を剥がそうと腕を伸ばす。私と彼女の間には謂れのない逕庭がある。猜疑の念は最後まで払拭されなかった。途端、途方に暮れた。恐る恐る布を捲るとある映像が脳髄を劈いた。とある千仞の険しい谿壑の一角から姿を覗く白金色の髑髏が翩翻と翻り、匹耦の豺狼が鼓譟を綢繆したのだ。それに伴い孤高の陰影も擒縦に彭彭と驀進した。そして、砂砂利を運ぶ浚渫船に搭乗する嫖客が炯眼とした眼差しでそれを巡視している。帳を繹ぬれば霊魂は喞喞と帰結するだろう。魑魅や巫蠱を決して侮ってはならない。私は現実に戻れただろうか。
鈍化した銀色の被写体にヒヤリとした感触が走って画一的な姿が露わになった。純朴な少女の瞳に何が映っているのか、完膚なきまで練り上げられた性根は邪悪な余念さえも猛然とした自尊心へと変えてしまう。目は濡れていない。一石を投じたこの身は躍如として描かれた地獄に過ぎない。気紛れの真骨頂だ。
暗い。暗い、暗い……
鳴り響く鐘の余韻が耳に残っている。
……どこへ行こうか。
ギロリと視線を巡らすと湖畔に陰が連なっていた。
窪んだ大地に林檎の木が植えられていた。多くの文明の興亡が存在した証であった。青い実がなっている。齧ってみたがとてもまずい。熟す前のようだ。木の下方には陥没された都市の造形が彫像されていた。そこに何かある。金具だった。逆立ちになり右手の指腹で穴を弾く。穴は開かなかった。凍った鉄は言下に霧散していった。
ああ、悠長に往還していたら偶像の象徴である波紋を流布してしまう。 先程の穴が開いた。時計の針音が聞こえる。
……っふょぎゅちゃ
私は舌鼓を打った。目尻が下がる。
中には収斂された小さな布状の柔らかいパイプが入っていて、表面の丸く空いた穴からは煙が立ち上りポカポカ音が鳴っていた。すると、緑色の凄まじい光を放ちながら何かが飛び出した。
私は焦慮の色を隠せなかった。別に妄執に囚われて正常な判断が下せなかったわけではない。
「……逃が、…さ、ない……」
実に敏捷な動きだ。その生き物を捉えると岩上で執念深い雄叫びを発しながら、烈しく四方八方に揺れている。縋りついていた手をちぎり正面へと身体を捩らせると、哀れな相貌が受容された。全身、黄緑色をした生物がそこに、いた。頭上に生えた二本の突起の先端は丸くなっており、体躯は人間の形をしていた。赤子のようにたじろいでいる。可哀想に。生命を謳っても無駄である。滋養が削れてしまえば栄養が枯渇してしまう。その時、慟哭と同時に悲痛な叫び声が漆黒の空に響いた。
「殺さないでください!お願いします!」
私の眼前で手を合わせ、漸進的な挨拶で繕った。
ふふ。この生物は昂然と胸を張って命乞いをし本心を披瀝した。逃避という姑息な手段を選ばない。何の衒いと不遜な態度がない頗る良い気概だ。お前に臆病者としての烙印を押してやるにはまだ早い。その律儀な心象に会心の意を込めて礼賛してやろう、うふふ。……気に入った、気に入った。えへへ。うへ。
頭を垂れて私に跪いた小さな生物に向かって告げた。
「奇矯、な……振る、舞いをし、たら……食……っって、やる……」
「ヒイイイイイイイイイイイイ!!!!!!!!!」
「んっふっふっふっふふっふうほっほっほっおおおおおおお」
私は至って冷静になっていただろう。腹が減っているんだ。
「……肝に銘じて、おけ!」
「何卒――」
「……そ、れから、……う、腕……引き、ちぎって……悪かっ、た……な……返す……」
「これはこれは、ありがとうございます。ところで、貴女の名は何と申すのです?」
「……わたしの名前はエステルだ」
穢れた箱 緋翠 @Shirahanada
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