第9話 片桐の選択

暗闇に包まれた地下の電車内。

片桐修太は、冷たい金属の座席に座っていた。

記憶が薄れ、時間も空間も曖昧になっていた。


乗客は皆、沈黙の中に囚われていた。

その顔には何か違和感がある。


どれも、見覚えがあるはずなのに、誰か別の“誰か”の顔を貼りつけられているように感じる。

笑っているのに、怒っているよう。

泣いているのに、穏やかなよう。


目の前の窓に、自分の顔が映る。

だが、その顔にも違和感があった。

眉の角度が違う。

鼻の形が変わっている。

これは本当に自分なのか。


「お前はまだ、顔を選んでいない」


車内のスピーカーから、低い声が響いた。


「この列車は、記憶の断片を乗せて走る。目的地は、お前が“誰か”を選ぶまで決まらない」


座席の前に、鉄製の箱が現れた。

中には、無数の“顔”が整然と並んでいる。

子供の顔、老人の顔、涙を流す女性、目のない男。


片桐は震えながら箱を覗き込む。

触れた瞬間、それぞれの顔が自分に語りかけるように脈打った。


>「お前が選べば、私はお前になる」


その声は、彼の過去を再生する。

大学の授業、初めての告白、父親の怒号、孤独な夜──断片的な感情が洪水のように押し寄せる。


「選ばないと……終わらない」


片桐は、箱の奥で一つの顔を見つけた。

それは、自分の中でもっとも“他人になりたいと思った時”の顔──感情を失った表情だった。


「これなら、誰にも傷つけられない……俺自身も、何も感じずに済む」


だが、その手を止めるものがあった。

美咲の声。

記憶の底から微かに響く。


「修太……君の顔は君だけのもの。誰にも奪わせない」


片桐は迷い、深く息を吸った。


そして、自分の顔を選んだ。

歪で、汚れていて、恐怖に満ちた今の顔──それが、彼自身なのだと。


瞬間、電車が急停車した。

車内の光が爆ぜ、乗客たちの顔が霧のように消えた。


気づけば、彼は一人。

暗いホームに立っていた。


出口など、どこにもない。


しかし、自分の足で歩き出すことだけは選べた。

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