ダブルクォーテーション
志乃原七海
第1話「お兄ちゃん、あと五分だけ……お願い……」
第一話:瑠璃色の境界線
「お兄ちゃん、あと五分だけ……お願い……」
羽毛布団の城に立てこもる妹の声は、まだ夢の続きを紡いでいるかのようにくぐもっていた。リビングのローテーブルに広げた法医学の専門書から顔を上げた海斗は、壁掛け時計に目をやり、苦笑を浮かべる。午前七時。今日もまた、我が家の姫君は朝の訪れを全力で拒否しているらしい。
「沙良、起きないと本当に遅刻するぞ。今日は大事な三者面談なんだろ? 先生に俺が怒られるのは勘弁してくれよ」
沙良の部屋のドアを数回ノックし、声を張る。中からの返事はない。やれやれ、と小さく肩をすくめ、海斗は慣れた手つきでドアノブを回した。彼らにとって、それは数えきれないほど繰り返されてきた、いつもの朝の儀式だった。
部屋に足を踏み入れると、沙良は大きな猫のように丸まり、静かな寝息を立てていた。遮光カーテンの僅かな隙間から漏れる瑠璃色の朝の光が、彼女の柔らかな栗色の髪を淡く照らし、天使の輪郭を縁取っている。そのあどけない寝顔は、海斗がまだ学生服の少年だった頃、突然両親を失い、この小さな妹だけは必ず守り抜くと誓ったあの日から、何一つ変わっていない、彼にとっての聖域だった。
「こら、お寝坊さん。起きないと、秘蔵のチョコアイス、今日のデザートにしちゃうぞ」
悪戯っぽく囁きながら肩を優しく揺すると、沙良は「んんぅ……」と甘えたような唸り声をあげ、ゆっくりと薄目を開けた。
「……おにーちゃん……? おはよ……」
「おはよう。もう七時過ぎだ。早くしないと、特製ふわとろオムレツ、カチカチになっちゃうぞ」
「オムレツっ!」
魔法の呪文のように、その単語が沙良の眠気を吹き飛ばした。ぱちりと瞳を見開き、勢いよく布団から飛び出す。食べ物で釣られる単純さは、昔から少しも変わらない。海斗はくすりと笑い、先にリビングへと戻った。
キッチンには、海斗が手際よく準備した朝食が並んでいる。黄金色に輝く完璧な半熟のオムレツ、こんがりと焼き目のついた厚切りトースト、彩り豊かなグリーンサラダ、そして湯気の立つマグカップには、沙良専用の甘いミルクココア。医学部に通いながら複数のバイトを掛け持ちし、家事全般を完璧にこなす海斗にとって、沙良の「美味しい!」という満面の笑顔こそが、日々の多忙な生活を乗り切るための何よりの特効薬だった。
「わぁ、今日もホテルみたい! お兄ちゃんのオムレツは、本当に世界一美味しいんだから!」
まだパジャマ姿のまま、いそいそとテーブルについた沙良が、子犬のように目を輝かせる。
「大げさなやつだな。ほら、冷めないうちに食べろよ。フォーク、逆だぞ」
「あ、ほんとだ。えへへ」
二人きりの食卓は、いつも屈託のない会話と笑い声で満たされている。学校の出来事、バイト先の面白い客の話、テレビで見たおかしな芸人のモノマネ。両親がいないという現実の寂しさを少しでも感じさせないようにと、海斗が常に太陽のように明るく振る舞い続けてきた結果、沙良もまた、その光を一身に浴びて、誰からも愛される素直で快活な少女に育った。そう、海斗は信じていた。
「そういえば、進路の調査書、ちゃんと準備できてるのか? 三者面談で提出するんだろ?」
ブラックコーヒーを一口含みながら、海斗が尋ねた。沙良は高校三年生。大学進学を控え、人生の大きな岐路に立っている。
「うん、だいたいね。でも、なんかね…戸籍謄本が必要だって言われたんだ。奨学金の手続きに使うみたいで」
「戸籍謄本か。まあ、そういうこともあるな。役所に取りに行かないとだな」
「お兄ちゃん、お願いがあるんだけど…一緒に、行ってくれないかな?」
ミルクココアのカップを両手で包み込み、沙良が上目遣いで海斗を見上げる。その潤んだ瞳は、子猫が悪戯を許してもらおうとする時のそれとそっくりだ。
「当たり前だろ。お前一人じゃ、書類の不備とかありそうだしな」
海斗はそう言って、沙良の頭をくしゃりと撫でた。沙良は嬉しそうに「やった! さすが、お兄ちゃん!」と声を弾ませる。その言葉に、海斗の胸の奥が微かに、本当に微かに、ちくりと痛んだことには、沙良は気づくはずもなかった。
その数日後、沙良は放課後に一人で区役所の総合窓口に立っていた。海斗は大学の急な補講が入り、どうしても一緒に行けなくなってしまったのだ。「一人で大丈夫か? 何かあったらすぐ電話しろよ」と、まるで小学生を初めてお使いに出す母親のように心配する海斗に、「もう高校三年生だもん、平気だよ!」と笑顔で手を振って見せたものの、やはり少しだけ心細いのは否めなかった。
交付窓口で番号を呼ばれ、手続きを済ませると、担当の職員から一枚の薄い書類が手渡された。戸籍謄本。たった一枚の紙切れだが、そこには自分の「存在の証明」が記されているのだと思うと、ずしりとした不思議な重みを感じる。早く中身を確認したい気持ちが逸り、近くのカフェにでも寄ろうかと思ったが、結局、一刻も早く知りたくて、小走りで家路を急いだ。
「ただいまー……って、あれ? お兄ちゃん、まだかな」
リビングに人気はなく、静まり返っている。海斗はまだ帰宅していないようだ。沙良は自分の部屋に入ると、ドキドキと高鳴る胸を押さえながら、丁寧に封筒を開けた。そして、そこに印字された文字の羅列に、ゆっくりと、祈るような気持ちで目を滑らせていった。
自分の名前、生年月日、そして父と母の名前。そこまでは、何度も書いたことのある、馴染み深い情報だった。問題は、その次だ。筆頭者である父の氏名の下に、長男として、海斗の名前がある。
――あれ?
沙良の心に、小さな、しかし無視できない疑問の種が蒔かれた。記憶の中の海斗は、物心ついた時からずっと、優しくて頼りになる「お兄ちゃん」だった。けれど、ごく幼い頃の曖昧な記憶の断片を辿ると、亡くなった両親が海斗のことを、「うちの子」というよりは、どこか「大切なお預かりもの」というような、ほんの少しだけ距離を感じさせる呼び方をしていたような気が、おぼろげながら蘇ってきた。
そして、沙良の視線は、その決定的な一文に吸い寄せられた。
海斗の名前の横に、まるで小さな烙印のように、くっきりと記された二文字。
「養子」
その下に続く、実父母の氏名は、沙良の両親とは全く異なる、見慣れない名前だった。
「…………え…………?」
沙良の手から、戸籍謄本がはらり、と力なく滑り落ち、床に音もなく舞った。
全身の血が逆流し、頭の芯が急速に冷えていくような感覚。
理解が、追いつかない。
「ようし……? お兄ちゃんが……養子……?」
信じられない、という言葉すら、まともに口にできない。だって、海斗は、沙良のたった一人の、血を分けた実の兄のはずだった。両親を亡くしたあの日から、ずっと二人で肩を寄せ合い、支え合って生きてきた、かけがえのない、唯一無二の家族。
沙良は震える手で、床に落ちた戸籍謄本を拾い上げた。インクの滲んだ文字を、何度も、何度も、穴が開くほど見返す。だが、そこに冷徹に記された事実は、変わることなく沙良の網膜に焼き付いた。
海斗は、父の親友夫婦の一人息子で、幼い頃にその両親を不慮の事故で亡くし、沙良の両親に引き取られた。そして、沙良がこの世に生を受ける少し前に、正式に養子縁組の手続きがなされたのだ。その直後に、沙良が生まれ、そして、沙良がまだ物心もつかない幼い頃に、その養父母である沙良の両親もまた、突然の事故で帰らぬ人となった。
「うそ……うそでしょう……? そんな……」
今まで当たり前だと思っていた世界が、足元からガラガラと音を立てて崩れ落ちていくような、激しい目眩に襲われる。
お兄ちゃん。
いつも自分を守ってくれた、優しくて強くて、頼りになる、たった一人の、大好きなお兄ちゃん。
その存在が、急に遠い、知らない誰かになってしまったような気がした。
そして、同時に――なぜか、今まで感じたことのない種類の、胸騒ぎにも似たドキドキとした微熱のような感情が、心の奥底からじんわりと湧き上がってくるのを感じていた。それは、兄妹という絶対的な「境界線」が、不意に取り払われたことによる、戸惑いと、ほんの僅かな期待が入り混じった、名付けようのない感情だった。
「ただいまー。沙良、いるか? 今日、補講長引いちゃってさ、悪い悪い」
玄関のドアが開く音と、それに続く海斗の屈託のない明るい声が、静まり返った家の中に響いた。
沙良は、ハッとして、弾かれたように戸籍謄本を慌てて机の引き出しの奥深くへとしまい込む。
顔が熱い。心臓が、肋骨を内側から叩いているかのように激しく鼓動している。
いつものように、「おかえりなさい、お兄ちゃん!」と笑顔で彼を迎えることができるだろうか。
沙良は、まだ、自分がどんな顔をして海斗に会えばいいのか、全く分からなかった。
今朝、瑠璃色の朝の光の中で交わした他愛ない会話や、海斗が頭を撫でてくれた温かい感触が、まるで遠い昔の出来事のように、霞んで感じられた。
二人の間に、目には見えないけれど、確かな亀裂が生まれた。
その亀裂は、これからどんな未来へと、二人を導いていくのだろうか。
(つづく)
ダブルクォーテーション 志乃原七海 @09093495732p
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