スケッチ

真花

スケッチ

 俺は裸でうつ伏せで、視界は枕でいっぱいで、だからゆっくり目を閉じた。隣でシズカが息をしているのが聞こえる。シズカは俺の後ろ頭を見ているはずだ。もしさ、俺はずっと鎮座し続けた巨岩を押して動かすように口を開いた。

「もしも俺が絵を描かなかったら、俺はつまらない男になる」

 シズカはひと呼吸分考えて、言葉を出す。とても慎重な響きだった。

「どうあっても、レイジのことが好きだよ」

「つまらなくても?」

「つまらなくなんてならない」

「そうかな。俺から絵を取ったら何も残らない」

「仕事しているじゃない」

「そんなの辞めれば消えるものだよ。仕事は何も残しはしない。……正確には、仕事では俺の何かが残ることはない。全うすべき役割があるだけで、それは常に代替可能だ」

 シズカが困った顔をしているのを感じる。一割くらいふてくされている色が混じっている。

「私は仕事しかしていないから、つまらない女なの?」

「仕事しかしていないにも関わらず、面白い女だよ」

「じゃあ、同じでレイジも絵を描かなくても面白くていいじゃない」

 そうなのだろうか。そうであってはいけない気がする。俺は絵を描くから俺なのであって、自立をするために働いていることは、社会の俺は、仮の姿に過ぎない。顔をシズカに向けて同時に眼を開く。焦点が開いたところからシズカの顔に寄って、困ったものを見る顔が映る。シズカが俺の頭をやさしく撫でる。俺はそのさわさわした柔らかさに目を細める。

「俺は描かないとつまらないよ」

 シズカが俺と同じだけ目を細める。だがそれは鏡映しではなくて、急にもっと温かい。

「描けないんだね」

「……全然」

「いつも描いていたもんね。そんなこともあるんだね」

「俺の価値が」

「それだけがレイジの価値じゃないって」

「……そうかな」

 シズカは俺の髪を撫でる。俺はもう一度目を瞑ってその淡い感覚に集中する。今にも走り出しそうだった胸の中に湖が生まれる。それはとても静かで穏やかで、永遠にそのままでも許容されそうだった。そこに安住していてはいけないことは分かっている。だがこのいっときだけは身を任せたい。


 *


 残業のない仕事を選んだ。給料はそれなりだが、生活と画材はキープすることが出来る。

「お疲れ様」

 残業がないのは俺だけではないからいっせいに帰る支度を始める。ロッカーは混み合っていて男の匂いに溢れている。いつも制汗スプレーを使う後輩が今日は香水を振りかけていた。かけ過ぎでロッカー中が扇情するには濃すぎる悪臭で満ちた。後輩以外の全員がその匂いに顔を顰めていた。後輩は満足そうに鼻を動かして一番にロッカーを出て行った。

 隣で靴を履いていた同僚が、ああ、くせぇ、と呟いた。

「誰か注意した方がいいんじゃないかな」

「そうだね。でも誰がするかだよね」

「僕ではない誰かがいい」

「俺だってそうだ」

「そうやって誰も注意しなくて、あいつはまた臭くなる」

「それで俺らは嫌な気持ちになる」

「でも、変わりはしない。仕事も、ロッカーも、変わらない。それを選んだのは僕達だ。……定時に帰るのには理由と価値がある。だから、下手なことは何もしない」

「臭いのは一瞬だよ」

「そうだよな。お疲れ様」

「お疲れ様」

 ロッカーを出て、会社を出て、電車に乗って自宅の最寄り駅に至る。その頃には後輩の臭い香水の匂いは抜けていた。どうしてあんなに臭いものをその身に振りかけるのかが理解出来ない。後輩はちょっと愚かで、私服もバカっぽい。どうしてバカな人と言うのはバカっぽい格好をするのかが不思議だ。別に服装で自分のバカさ加減を表現しなくてもいいはずなのに。結果として俺達はバカな人に関わることを避けることが出来るからそれはそれで意義があるのだが、システムが分からない。俺は絵描きのような格好をしているのだろうか、無意識に。私服の俺を見た人は、あああの人は描く人だ、と把握することが出来るのだろうか。それとも会社員であることの方が俺の服装には反映されているのだろうか。

 駅から出たら牛丼を食べる。

 食べたことによって今日の会社員の俺が終了する。ロッカーから牛丼屋までの間は尾を引くように俺の会社員が残っていて、それが牛丼によって遮断される。

「ありがとうございましたー」

 さあ描こう。今日こそは。

 部屋に戻ると真っ白なキャンバスがイーゼルの上で俺を待っていた。もうずっとそのままだ。部屋にいつもは満ちている絵の具の匂いすら掠れてしまっている。イーゼルの前に座る。ここに何を描いてもいい。どんな制約もない。どう描くかは俺の手についている。なのに、何を描くかが決まらない。

 じっとキャンバスを見ても何も浮かんで来ない。今俺が描くべきものとは何なのか。理論的に導くことも出来ない。そうやって日数だけが過ぎて行っている。真っ白を睨み付ける。だがそこには何もないことは分かっている。見ている側の俺の中に浮かべないといけない。前なら次々に浮かんで順番待ちをしていたくらいなのに心は凪いだままで、ダメだ、ベッドに横になる。当たり前にやっていたことが当たり前過ぎて、そこに戻る方法が分からない。

 描いていない俺なんて存在しないも同じだ。

 いったいどれくらい停滞しているのだろう。数えてみたらもう二週間経っていた。

 俺は何を描きたい?

 耽美的なものか?

 ストーリーがあるものか?

 抽象的な、テーマを内包したものか?

 どれもピンと来ない。もっと具体的なことが必要なのだろうか。

 街。

 空。

 猫。

 人間。

 それとも俺自身の抱えているテーマか?

 何かを遺したいこと。

 仕事を成立させるために仮面を付けていることにそれでも不和を感じていること。

 何者かになりたいこと。

 悪くはないが、今はそこからインスピレーションは浮かばない。

 うんうん唸るばかりで、頑固な便秘のようで、そもそもうんこが存在しているのかすら分からない。ないうんこは出ない。それなら、何かを食べることが必要なのではないか。毎日同じ結論に至って、音楽を聴いたり、映画を観たり、小説を読んだり、画集を眺めたりしている内に時間切れになって寝る。

 朝起きれば仕事に向かう。これでは俺は仕事をするためだけに生きているみたいだ。


 前に一歩も進まないまま日々をこなしていく。仕事はこなすもので、絵画は取り組むものだから、絵画がないなら人生をこなしているだけになる。時間が進むのが嫌に早い。このままでは何もすることのないまま棺桶に入ってしまう。俺はつまらない。ため息だけが一人前に漏れ続ける。心が動くのが後輩の相変わらずの臭さをロッカーで嗅ぐときだけになっている。

 金曜日の夜にシズカと落ち合った。ラブホテルの広くてスプリングの悪いベッドで大の字になる。シズカはベッドの縁に座ってタバコを吸っている。二人を合わせたら犬の字になる。点から煙が出て象形文字のようだ。シズカがくるりと俺の方を向いて、普通のことのように言う。

「描けた?」

 多分、シズカ以外に言われたら俺は激怒しただろう。だがシズカだから権利がある。

「まだ。キャンバスは純潔を保っているよ」

「きっとさ、描かないから描けないんだよ」

「……どう言うこと?」

「前は描くのが当たり前だったじゃない。それがいったん描かなくなったらそれが当然になっちゃって、動き出さないから動けないんだよ」

 俺は思い当たる節があった。描いていない時間の分だけ、次の一作は最高のものにしなくてはならないと言う気負いがあった。シズカは続ける。

「何でもいいから、変な失敗作でもいいから、まず描いたらいいと思う。……そこにメモとペンがあるじゃない。それで私を描いてよ。そう、ほんの遊びで」

 俺は体を転がらせて、シズカのふもとにひっつく。

「名案だね」

 俺はテーブルをベッドの近くに寄せてメモを乗せ、ペンを構える。ここのところ俺を圧迫して殺そうとしていた真っ白が怖くなかった。ほんの遊びだ。世紀の大作を描く訳ではない。タバコを咥えるシズカ、肩までの髪、低めの鼻、ふくよかな唇。乳房よりも上だけを描く。売り物になるほどの美しさではないが、俺にはキュートだし、少なくとも醜くはない。だが、そんな表面の美醜を描く意味はない。この紙の上に展開されるべきなのは俺のためにアイデアを出し、モデルになることを買って出たシズカの気持ちだ。俺にはそれがタバコに見えた。タバコこそがシズカの想いのシンボルだ。俺は人物画を描くのにも関わらずタバコから描いた。

 タバコの最初の線を描いたら、あとはまるでダムが決壊するみたいに絵が一気に完成した。それはタバコを吸うシズカで、シズカの気持ちだった。

「どう?」

 俺は紙を絵をシズカに渡す。シズカは両手に持って絵をじっと見る。まるで絵から出て来るものをゆっくりと咀嚼しているかのようだった。シズカが顔を上げる。俺よりも先にトンネルから抜けたみたいな晴れやかさだった。

「すごくいい」

「描けちゃった」

「これでもう描けるよ、きっと」

「一発で全てを決めようとするのがいけなかったんだね。失敗作を作ることを恐れてはいけないんだ。作ってみてダメなら廃棄すればいいだけの話だったんだ」

「これ、もらっていい?」

「もちろん」

 シズカは絵をもう一度じっと観て、口許を緩ませる。俺が次に言うひと言をもう分かっているみたいだった。だから俺は安心して言葉にする。

「帰ろう。早く描きたい」

「もちろん」

 シズカは絵をカバンにしまって、俺達はさっさと準備をする。それは余韻を楽しむよりもずっと恋人らしく俺達らしかった。


 俺は自分の部屋に戻り、キャンバスの前に座る。イメージは何もない。それでも、絵の具を出して一本の線を、意味も理由もない線を、横向きに筆を走らせて描いた。


(了)

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