第4話 言葉足らずのパズル

 四月十二日、月曜日。

 午前中からの冷たい風が止んで、昼過ぎには柔らかな日差しが窓のブラインド越しに差し込んでいた。

 翔稜学園の図書館は、そんな午後を包むにはちょうどいい静けさに満ちていた。

 本棚と本棚の間に設けられた自習席のひとつ――そこに、咲紀と匡の姿があった。

 二人の間には、校内マップと撮影計画書、そして真白なスケッチ用紙。

 咲紀が手元で鉛筆を走らせ、匡はその横でノートパソコンの画面を確認していた。

 すでに部員は規定数の五人を超え、“クリエイトラボ仮再建”の条件をかろうじて満たした。

 今の目的は、“最初の一歩”として掲げた学園PVの草案をまとめること。

 それに向け、咲紀の“言葉”が必要だった。

「このナレーションの部分、“静かな場所から始まる”って一文……この“静か”って、何の静けさ?」

 唐突な質問に、咲紀は鉛筆を止めて、目を伏せる。

「……無音じゃなくて、“余白”です」

「“余白”?」

 「音がない」という状態ではなく、“そこに何かが入る前の空間”。

 それは、咲紀が大切にしている表現のひとつだった。

 匡は頷き、画面のナレーション案に軽く手を加える。

「じゃあ、“余白から始まる”でどう?」

 咲紀は、少しだけ目を丸くして、それから小さくうなずいた。

「はい。すごく、伝わります」

 それきり、再び鉛筆の音だけが机に戻ってきた。

 静寂が嫌いではない二人にとって、この空気は居心地がいい。

 だが、そこにはどこか――“穴”があった。

 言葉が届きかけて、でも触れられていない“部分”。それは、ふとした拍子に浮かび上がる。

 パラ……と紙の端がめくれ、匡のメモ帳の一角が露出する。

 そこには、“恋愛禁止宣言”の下書きらしき文言が手書きで記されていた。

「……“感情に支配されることで、判断が曇るなら――感情は、後にすべきだ”」

 咲紀の声が、ぽつりと落ちる。

「……それ、匡さんの言葉、ですか?」

 匡は動揺した様子もなく、少しだけ苦笑を浮かべる。

「ううん。麗が、部活方針を言語化するとき、参考にって頼まれて……でも、俺の“本音”もたぶん、少し混じってる」

 咲紀は、ペン先を止めたまま、少し黙っていた。

「それ、分かる気がします。

 好き、って言葉。……言えばよかったって後悔したこともあるけど、言わなくて済んだって安心したことも、同じくらいあるから」

 その目は、まっすぐで、けれどどこか痛みを知っている色だった。

「……もしかして、“言葉”って、そういう風に使い分けてるの?」

 匡の問いかけに、咲紀はゆっくりと首を横に振る。

「使い分け、じゃなくて――“避けてる”だけです。

 言ったことで、崩れる関係があるなら、最初から言わない方がいいって。ずっと、そうしてきたから」

 静かに落ちるその言葉は、図書館の空気と溶け合って、吸い込まれていくようだった。

 匡は少しだけ視線を落とし、モニターの再生ボタンを押す。

 咲紀が書いた仮ナレーション案に、映像が合わせて流れ出す。

 校舎の廊下。差し込む光。空の教室。風で揺れるカーテン。

 どれも人のいない場所だが、そこには“誰かがいたはず”という予感だけが残っている。

 そして、その映像の終盤で――

 画面に一行のテロップが現れた。

《今、この余白に、何かを刻もうとする人がいる。》

 咲紀が、ゆっくりと息を吐く。

「……すごい。自分の言葉が、こんなふうに“動く”なんて」

「“動かした”のは、咲紀だよ。俺は繋げただけ」

 そう言って、匡は不器用な笑みを浮かべた。

 それは、いつもとは少し違う、どこか照れくさいものだった。


 映像が再生を終えた瞬間、図書館の奥から時計の針が“コチッ”と鳴る音が聞こえた。

 時間は午後四時半。夕方が、もう一歩こちらへ近づいてくる。

 咲紀はノートをそっと閉じた。

「……匡さん。私、やっぱり“裏方”でいいですか?」

「もちろん。誰も“前に出て”なんて言わないよ」

 その返答に、咲紀はほっとしたような笑みを浮かべる。

「でも……“言葉”の力って、こんなに届くんですね。私、今までずっと、相手の気持ちが分からなくなるのが怖くて、余計なことを言わないようにしてきたんです。

 でも、何も言わなかったら、“いない”と同じになる気がして。だから今、ちょっとだけ……話せてよかった」

 その言葉は、彼女の中の“恐れ”がわずかに解けた証だった。

 匡は、咲紀の視線にゆっくり頷いてから立ち上がる。

「……俺さ、自分で言葉を選ぶの、実は得意じゃない。だから、何を言えばいいか分からないときは、黙っちゃう。でもそれって――ちゃんと向き合ってないってことかもって、最近ようやく気づいた」

 咲紀は小さく瞬きをする。

「麗や、真季や、奨。それぞれ言葉の持ち方が違う。遼太は“努力”っていう言葉で繋がってる。

 咲紀も、“言葉を避けてきた人”なのに、今はその“言葉”で、俺たちを動かしてくれてる」

 咲紀は、ゆっくりと頷いた。

「……じゃあ、これからも、“言葉足らずなみんな”に、私なりの言葉で手を貸してもいいですか?」

「大歓迎」

 二人はそれ以上、多くを語らなかった。

 けれど、机の上にはすでに新しい台詞案と構成スケッチが重ねられていた。

 それは、“再建”の最初のピースが、一つまた一つと揃ってきた証だった。

 まるで、言葉という名のパズルをはめ込んでいくように。

 言い足りなかった過去も、伝えられなかった想いも、“今”なら少しずつ組み上がっていく。

 帰り際。咲紀が何気なく差し出した小さな付箋に、こう書かれていた。

《まだ全部は話せないけれど、“ここにいたい”とは、言えそうです。》

 それを読んだ匡は、小さく笑って、鞄のポケットにしまった。

 図書館の出口。

 差し込む夕陽が二人の背中を照らしていた。


(第4話:了)

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