第3話 酸味と本音のシェイク

 四月九日、金曜日。夕方。

 購買部横の小さな広場は、昼休みの喧噪が去ったあとの余韻だけが残っていた。

 誰かが置き忘れたペットボトル、ベンチに引っかけられたままのパーカー。

 夕陽が差し込むその一角で、匡は一人、自販機前の影に立っていた。

 手には、紙コップ入りのミルクティー。

 その横に、妙に酸っぱい香りが漂っているのは――彼の隣に、さきほどから座っている奨のせいだった。

「……それ、またレモン味?」

「うん。今日のは“濃いめ”」

 奨は包み紙をくしゃりと丸めながら、口の中で転がすように呟く。

「酸っぱいけど、スッキリする。頭が冴える。で、どうするの? 俺に何か話あるんでしょ?」

 唐突な言い回しに、匡はわずかに眉をひそめたが――否定はしなかった。

「うん。ラボのこと……協力してくれて、ありがとう。けど、たぶん……俺たち、奨の“本音”をまだ聞けてない」

 奨は返事をせず、カバンの中から無造作にガムテープを取り出した。

 匡が目を丸くする間に、ベンチの端に小さな紙を貼る。

《“礼儀より本音”》

 たった一言、それだけ。

「これが俺のルール。あんたらの“恋愛禁止”ってさ、ある意味“建前”に聞こえたんだよね」

「建前……かもしれない」

 匡は素直に認めた。言葉を選ぶでもなく、誤魔化すでもなく。

「でも、麗はそれを“宣言”に変えた。“建前で終わらせないように”って。俺はそれ、いいなって思った」

「へぇ。匡がそういう風に喋るの、初めて見た気がする」

「俺も、自分でびっくりしてる。でも……ラボのことになると、妙に“言葉”が欲しくなるんだよね」

 奨はキャンディを転がしながら、ちらりと横目で匡を見る。

「言葉が欲しい……か。あんた、基本“映像で語るタイプ”だろ?」

「うん。でも、それだけじゃ“仲間”には届かない気がしてきた。

 今回の活動って、ただの作品作りじゃない。ちゃんと“気持ち”を伝えて、ぶつけ合わないと、たぶん続かない」

 その言葉に、奨の表情がふと変わった。

「……気持ち、ね」

「奨は、なんで参加してくれたの?」

「……言ったろ? “雑念が減る”って。それに、ここにいれば、俺の分析スキルが生かせそうだったし」

「それ、“理由”にはなるけど、“動機”じゃないよね」

 奨がキャンディを止める。

 口元に残った酸味が、今にも爆発しそうな“言葉”を引き寄せていた。

 そして、ぽつりと。

「……昔さ、好きな子がいて。演劇科の子。脚本とかもやってて。俺のデータ分析、すげえ感心してくれてさ。

 “君の言葉、グラフにしたらすごく綺麗”って言ってくれたの。……でも、そいつ、俺の本音までは見なかった」

 匡は、何も言わない。ただじっと、隣に座っている。

「俺、あの時“好き”って言えなかった。言ったら、なんか終わる気がして。

 データとか、才能とか、そういうところでしか評価されないのが怖かった」

「……」

「だから、あんたらの“恋愛禁止”って聞いて、正直、ホッとしたのかも。そういうのを一旦脇に置いて、“創ること”だけで繋がっていいなら、それって……俺にとって、最高の“居場所”だなって」

 匡は静かにうなずいた。

「……ありがとう。話してくれて」

「話す気にさせたのは、この“酸味”だけどな」

 冗談めかして言った奨の口元に、ほんの少し笑みが浮かぶ。

 匡は自販機に立ち、缶を一本取り出して戻ってきた。

 手渡したのは、まさかの“レモンスカッシュ”。

「試してみた。酸っぱいけど、冴える。たしかにクセになるね」

「……お前、なかなか面白い奴だな」

 どこか照れくさそうに、奨が笑う。

 そして、次の一言が、まるで次のページをめくるようだった。

「で――次は誰を口説く? “七人目”の話、もうついてるんだろ?」

「うん。図書館に行く。文章の子、咲紀。……たぶん、難航する」

「なら、“酸味”持ってけ。俺のぶん、貸しとく」

 そう言って奨は、最後のレモンキャンディを匡のポケットに押し込んだ。


 図書館は、その日も静かだった。

 放課後の校内がにわかにざわつく時間でも、ここだけは別世界のように穏やかで、棚と棚の間をゆるやかな空気が満たしていた。

 匡は、自分でも驚くほど緊張していた。

 ベンチで交わした奨との会話が、まだ胸に余韻を残している。

 “気持ちを伝える”という行為が、こんなに難しくて、こんなに意味を持つものだとは、今日まで知らなかった。

 そんな思いを抱えたまま、彼は一歩、図書館の奥へと踏み込んだ。

 パソコン閲覧席の脇、窓際の席に咲紀はいた。

 小柄な肩に、柔らかな茶色の髪がふわりとかかっている。画面を見つめる横顔は、どこか緊張していて、どこか脆そうだった。

 匡は迷った。声をかけるべきか、黙って資料を渡すべきか。

 しかし、奨の言葉が頭をよぎった。

「“本音”を隠すな。礼儀じゃなく、感情で動け」

 意を決して、歩み寄る。

「あの、咲紀さん……だよね?」

 咲紀は、はっとしたように顔を上げた。

 大きな瞳が、一瞬戸惑いの色を浮かべる。

「……はい。えっと、何か……?」

「突然ごめん。俺、映像科の匡って言います。今日、話したいことがあって……」

 そう言って、鞄からレモンキャンディを取り出し、机にそっと置いた。

「これは……?」

「“きっかけ”代わり。ちょっと変なお願い、してもいいかな」

 咲紀の目が、ほんの少しだけ柔らかくなった。

 匡はポケットから、プリントアウトした“クリエイトラボ再建企画書”を差し出す。そこには、部活の理念・活動方針・募集要項、そして彼女に関わってほしい理由が、端的に、けれど誠意を込めて記されていた。

「咲紀さんの文章、SNSで読んだことある。“言葉の選び方”が、すごく丁寧で、誰かの背中を押してくれる感じがした。……そんな人が、僕たちのラボにいてくれたら、作品に“芯”が通ると思うんだ」

 咲紀は紙を読みながら、長いまつげの奥で何かを考えているようだった。

 そして、ポツリと。

「……私、人前で話すのは苦手だし、輪に入るのも得意じゃなくて。でも……“裏方”なら、たぶん」

 匡の目が、ふわりと明るくなる。

「本当? ありがとう」

 咲紀は照れたように視線をそらしながら、レモンキャンディに指先を添えた。

「でもこれ、すっぱいんでしょ?」

「うん、ちょっとだけ。……でも、クセになるかもしれない」

 夕陽が図書館の窓に差し込み、机の上のキャンディの包装に反射した。

 そして咲紀が、小さく笑ったのを、匡は見逃さなかった。


(第3話:了)

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