3.ウトマン
ぶん殴られてへたり込んだヴィルピンを、ウトマンはとっさに抱きとめていた。
中央から派遣されてきた応援要員。マレンツィオとダンクルベール。ダンクルベールの方に元気がなかったので、励ますつもりで出した話題がまずかった。
ウトマンはダンクルベールに起きたことと、その本の結末を知っていたので、とっさに止めようと思ったが、マレンツィオが一番に早かった。
ヴィルピンの混乱が落ち着いたあたりで、そのことをヴィルピンに伝えた。ヴィルピンは泣いて謝っていた。
ダンクルベールは、泰然としているようにしか見えなかった。
「仕方ねえな。デブとのっぽでコンビと行こう。おい、ヴィルピン新任少尉。お前は俺と仕事だ」
マレンツィオはそう言って、ヴィルピンの襟首を掴んだ。そうしてずかずかと、奥の方へと消えていった。
「同期のヴィルピンがとんだ不始末をしました。あらためてお詫びをいたします。ダンクルベール主任」
こちらも軍帽を取り、頭を下げた。
「気にしていないから、気にしなくていいよ。あらためまして、ダンクルベールです」
「サミュエル・ウトマン新任少尉です。お会いできて光栄です」
差し出した手を、握り返した。大きく分厚く、柔らかい手だった。
「二件の殺しについて、教えてほしい。俺なりに色々、組み立てていこうと思う。協力をお願いしていいかね?」
穏やかで、温かい声色。ずっと聞いていたいと思うほどに。
つとめて笑顔で首肯した。
資料室に案内した。二件の殺しの資料。文章だけでも、吐き気がするほどに
「二件とも、検死はできていないか」
いくらか残念そうに、ダンクルベールがうめいた。
「欠損部。特に内臓のそれを知りたい」
「こぼれていましたが、すべて揃っていました。損傷はすべて、発見に至るまでの、虫とか
「現場の血液量は?」
「ほとんどなし。犯行現場は別、という推測です。また所感ですが、特殊な運搬方法を用いているかと。馬や
「殺してからそうしている、だな。首や太い動脈に傷はないか。ただ舌が出ているということは、
「おそらくは。所感ですが、絞殺、四肢の損壊と血抜きをして、現場にて腹を割いている。なぜ、そうする必要があるのでしょうか?」
「死体を損壊させすぎたくない。見せしめにしている。見つかる寸前まで晒していない」
「特定の美意識があるということですね。他で同じ殺しをしている可能性があるかもしれません。これは当支部のラブラシュリ次長が指揮して、調査しています」
やり取りの中、ウトマンは無意識に汗を拭っていた。
必死だった。深慮に食らいついていくので精一杯。一切の余裕がない。
これがダンクルベール。これがメタモーフを捕らえた、褐色の巨才。感動を覚えると同時に、走りすぎる才覚に対し、恐怖も感じた。
恐ろしい。精神が、鋭利な刃物のようだ。
「手際がよすぎます。殺し屋の可能性はどうでしょうか?閉会中で、別荘シーズン。各地から貴族院議員、国民議員議員。それに宮廷の王族などもここに集まっています」
「現在、紛糾している法案はない認識だ。どこかの勢力が不利になるものも。殺す必要のない相手をあえて殺している。為政者たちの不安を煽るためか?」
「もっと直接的な方法を執るべきです。市民の煽動、宮廷襲撃。なにもガンズビュールで猟奇殺人を重ねる必要はない」
そこまで言ったぐらいだった。
「ウトマン新任少尉。なかなか話せるね」
一度、手と頭を止めたダンクルベールが、笑顔を向けてきた。
「基礎ができている。その上で議論においての反応がいい。理論と所感をちゃんと分けている点も高評価だ」
「はっ。恐れ入ります」
思わず、顔が熱くなっていた。
その日は、そうやって資料の確認を進めた。
明日、あのボドリエール夫人と会うようだった。
「知らなかった」
独身寮に戻ってからも、ヴィルピンはまだめそめそとしていた。
「ダンクルベール主任、気にしてないってさ。落ち着こうよ」
「でも俺、悪いことしちまったなあ」
「悪いことをした自覚があるなら、それでいいんじゃないか?それで、どうなんだ?マレンツィオ課長は」
「すっげえ厳しい。でも理不尽じゃないから、やっていけそうだ。あの人が後ろにいるって思うと、いくらでも挑戦していいんだってなるよ」
泣きながらも、ヴィルピンはそう言ってはにかんだ。
マレンツィオは、どうやら指揮官、管理職としての才覚が突出しているようだった。
聞き込み調査をヴィルピンにやらせて、他の隊員に情報の整理をさせるということをやっているが、状況の把握と混乱の収束がめっぽう上手い。ヴィルピンがどじを踏んでも、今までの半分以下の時間で持ち直させているようだった。
ダンクルベールはやはり、捜査官としてずば抜けている。何か特殊な能力があるとしか思えないほどだ。ひとつのものから三つ四つの推論をすいすいと組み立てて、そうやって
同じようなやり方をしては、置いていかれる。別のやり方でダンクルベールと向き合わなければ、あの才覚に潰される。
どうすればいいかを考えているうちに、朝が来た。
半分はまどろみの中にいたのだろう。それほどの眠気はなかった。
庁舎には、昨日はいなかった女性士官がいた。
細身の、黒い肌の人。
アナベル・エチエンヌというらしい。
ボドリエール夫人の邸宅。豪奢ではないが、小綺麗で嫌味のない佇まいだった。
「あら。ウトマンさま、お久しぶりね」
いくらかの苦笑交じりで、その綺麗な人は出迎えてくれた。
「お久しぶりです、夫人。その説はご迷惑をおかけしました」
「ウトマン新任少尉、どうかしたの?」
「この間、お酒を過ごしたの。それで、口説かれちゃって」
「本当に申し訳ありませんでした。それも、覚えていないのですよ。ヴィルピンに散々叱られちゃいました」
「わたくしも、人へのお酌は控えることを覚えますわ」
そうやって皆、笑って済ませてくれた。
酒の飲み方が上手でなかった。こればかりは似てなるものかと思い定めた父親の酒癖を、そのまま
酌を断ることを覚えなければと戒め続けているが、何しろ相手があのボドリエール夫人という、格別な別嬪さんだったから、つい浮かれたのだろう。失敗談ひとつ、こさえる羽目になってしまった。
中に入れてくれた。綺麗で、落ち着いた空間。観葉植物や、窓際に干した
ジンジャーティー。それが、緊張を
犯人の見立てをする、ということをやるらしかった。ウトマンはひとまず、メモとペンを用意するまでにした。
「刑罰」
第一声は、ダンクルベールからだった。
「違う、正しくない。首吊り、内蔵
「何かを突き止めた。だから罰した。罰ではないとすれば、ご褒美。丁寧に殺している。そこまでやる必要がないぐらいに」
「肯定。おそらくは、殺してからそうしている。犯人なりの礼節。死体は感謝状、表彰状。晒しているのではなく、飾っている」
「快楽よりは、義務か。あるいは責務。そうしなければならない。儀式」
「違う、正しくない。宗教的な印、もしくは聖句が見られない。無神論者、あるいは宗教に関心がない」
「目的は、殺すこと。誰かを待っている。最終目標。派手にやったのは、そいつを呼び込むため」
「発想、着眼点、大いによし。それは到着している?」
「おそらく。
人でなし、という言葉に、ぞっとした。ヴィルピンが言っていた。
夫人は、いくらか顔をしかめている様子だった。にわかに信じがたい、といったところだろうか。
「それは実在する?」
「する。地元の人間。周囲の人間から理解、尊敬を得ている。本当に普通の人として暮らしている。まさか、という人物」
「発想、着眼点、大いによし。三十代後半から四十代。五十代まではいかない。男?女?」
「女かもしれない。死体の損傷は別がやっているかもしれないが、犯人の見定めと殺し自体は、そいつがやっている。とすれば、男を待っている」
「肯定」
そこで夫人が、とん、と卓を小突いた。
呆気にとられていた。何にしろ早い。そして詳細だ。殺し二件の調書だけで、ここまで犯人像を絞り込めるものなのか。
ダンクルベールが俯いた。大汗をかいている。それを、エチエンヌがつとめて優しく抱きとめていた。
対して夫人。泰然としているようだった。しかし肌にはいくらかの脂が浮いていた。
ウトマンの肌にも、やはり脂が浮いていた。とんでもないものを見た、という心境。ハンカチーフで、それを拭った。
夫人がもう一度、ジンジャーティーを淹れてくれた。甘さと爽やかさが、身と心を清めてくれた。
「ご内儀さまのこと」
夫人がふと、そういう事を言い出した。
「まずは謹んで、お悔やみ申し上げます。きっと、つらい思いをしていると思うの」
「お気持ち、ありがとうございます。ただまあ、そこまでではないです。あれとは最初から、うまく行っていませんでしたので」
「それに、わたくしの本のことも」
瞼を閉じた夫人の頬に、ひとすじ。
「貴方は、わたくしの本を読まない人だから。それでもね、謝らなきゃって、思っているの」
言葉に、胸を締め付けられた。
“湖面の月”。ウトマンも読んでいた。何度も読み、涙した。それぐらいの、悲恋ものの傑作だった。
そして何より、ダンクルベールの妻がその結末をなぞっていたことに、驚きと悲しみを抱いていた。
「ボドリエール夫人、オーブリーはその件については、それほど気にしていないということですので」
「いいの、エチエンヌさま。わたくしの懺悔のために、そして後片付けのために、させてほしいの。わたくしが出した本が、わたくしの本意ならずとも、ダンクルベールさまの家庭を壊した遠因になってしまったことを、どうか謝らせてほしい」
立ち上がる。深々と、礼をした。
「ボドリエール夫人」
ダンクルベール。促されるようにして、立ち上がった。
「貴女を、
そうやって、夫人の体を、ゆっくりと抱いていた。
「これで、おしまいにしましょう」
「ありがとう、ダンクルベールさま。そして」
夫人は、ダンクルベールの顔を見上げながら。
「我が愛しき、オーブリー・リュシアン」
「夫人。その名前は」
「ようやくね、お許しが出たの。シャルロットさまが教えてくれた。呼んでいいって、コンスタンさまが言っていたって」
「そうだったのですか」
「本当は、奪い去りたかった。コンスタンさまから貴方を、貴方のリュシアンという名前を。それでも、貴方に
「それであれば、よろしゅうございます。夫人」
「ありがとう、リュシアン。
そうやって、また抱きしめ合っていた。
リュシアン。それが何を指すのかは、ウトマンにはわかりかねた。
エチエンヌを見る。神妙な表情だった。
「リュシアンというのはね」
邸宅を出たあたり、エチエンヌが言い出した。
「オーブリーの、特別な名前なの」
「ダンクルベール主任のフルネームは、オーブリー・ダンクルベールですよね?」
「渾名。このひとの恩師であり上官であるコンスタン長官だけの、特別な名前。それを呼ぶためには、コンスタン長官のお許しが必要なの」
「そうなんですか」
「オーブリーに恋して、恋い焦がれた末にようやく呼べる名前。恋人よりも、夫婦よりももっと奥の方にある。そういう名前」
「それを、許したと」
そこで、エチエンヌが瞼を重そうにした。
「あのひとは、そしてボドリエール夫人は、そこまでオーブリーのことを大事に思ってくれている」
ダンクルベールは、何も言わなかった。
ちょっと寄るところがあるので付き合ってほしいとだけ、ダンクルベールに言われた。エチエンヌは先に帰るようにとも。
庁舎近くのカフェ・ド・マガリーで、人と待ち合わせているとのことだった。
路地席に、ひとり。髪がいくらか長く、目元がわかりづらい。それぐらいしか特徴のない男。そうとしか言えない。
その男の卓に、腰を下ろした。
「被害者周りでの共通点は?」
「ふたりとも、大のボドリエール・ファン。何度か“
ダンクルベールの言葉からはじまり、男が身を乗り出す。
「新作の“湖面の月”だけ、家にない」
その言葉に、ダンクルベールの顔に険しさが増した。
「すみません。お話についていけないのですが」
思わずで、ウトマンは口を挟んでいた。
かまえて他言無用、とだけ、ダンクルベールに念を押された。
「無作為ではない。品定めをしている。抽選か、あるいは選定。ボドリエール夫人は、それをやっている」
「ちょっと待ってください。夫人を容疑者としているのですか?」
「ああ」
どっかりと椅子にもたれかかり、ダンクルベールは紙巻を咥えた。
ウトマンは困惑していた。あれほど、ボドリエール夫人の恋心を真摯に受け止めておきながら、この人は夫人を疑いの目で見ていたのだと。
「ダンクルベール主任。
「本心。あの人の懺悔を、俺は
開いた眼。ぞくりときた。
夜の海だ。暗闇から、さざ波の音だけが聞こえてくるような。穏やかだが、どこまで深いのかわからない。落ちたら、岸には戻れない。
震えていた。恐ろしいものが、眼の前にいる。
「それとこれとは、別だというだけさ」
緑の瓶。それをグラスに注ぐ。
「犯人はボドリエール夫人。その線で進める」
ダンクルベールはそれをひと息で煽った後、決心したように、そう言い切った。
(つづく)
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