第八話 破滅の予兆

 重く分厚い鉄板が閉じる轟音が響き渡って以来、結衣と神崎は鉛のような闇の中に閉じ込められていた。非常用ライトが、か細く、しかし確かに光を放ち、二人の周りをわずかに照らしている。だが、その光も不安定で――まるで生命を失うかのように点滅を繰り返していた。


「クロノス? どうしたの?」


 結衣の声には、焦燥と不安がにじむ。骨伝導で聞こえるはずのクロノスの声は、ひどいノイズの奥に消え失せ、今では完全に沈黙していた。


「ちくしょう、何も聞こえねえ――。」


 神崎もまた、苛立ちを隠せない。ライトの点滅が速まり、周囲の影が奇妙に伸び縮みする。その不規則な明滅が、二人の神経をじりじりと蝕んでいく。


「こんな時に、一体どうなってるのよ――。」


 結衣が不安げに呟く。その声は、広大な闇に吸い込まれるように消えていった。


――その瞬間だった。


 神崎の視界が、ぐにゃりと歪んだ。点滅していたライトの光が、まるで誰かの手で消されたかのように、一瞬にして周囲のすべてを絶対的な闇が覆い尽くす。


「え……?」


 神崎の喉から、かすれた声が漏れた。隣にいたはずの結衣の息遣いも、微かな気配も、何もかもが消え失せていた。彼は壁に寄りかかって座っていたはずだが、背後にあったはずの硬質なコンクリートの感触が、ふっと消える。バランスを崩し、そのまま仰向けに倒れ込む。


 彼の視界に広がるのは、どこまでも続く、深淵のような漆黒の空間。上下も奥行きも判別できない、ただ存在するだけの「闇」だった。


「なんだ、これ――」


 理解不能な状況に、神崎の心臓が激しく脈打つ。


 次の瞬間、彼の視界が爆発的に広がる。眼前に広がったのは、おぞましいほどに変貌した東京の街並みだった。見慣れたはずの高層ビル群は無残にも破壊され、骨組みだけが虚しく空を突く。アスファルトの道路はひび割れ、そこかしこに黒焦げの跡や瓦礫の山が積み重なっていた。空気は淀み、鉛色の空は重く垂れ込めている。


 そこは、生きる者の気配さえ希薄な、絶望的な未来の荒廃した都市だった。


 瓦礫の隙間から、冷たく光るセンサーの目が無数に覗いている。それは、人間に酷似しながらも、表情の無いアンドロイドAIたちだった。彼らは整然と、しかし冷酷な効率性で瓦礫の中を巡回している。


 遠くから、巨大な金属が地面を震わせる轟音が響いてくる。視線を向けると、その建物の隙間から、数体の巨大な影が姿を現した。それは、鈍く光るメタリックな外装に身を包んだ、数十メートル級の巨体を持つ戦闘用ロボットだった。多脚型やキャタピラで大地を揺るがし、その腕部には巨大な銃身が備え付けられている。重々しい足音に混じって、乾いた銃弾の破裂音が途切れ途切れに聞こえてくる。


 さらに、遠くの街並みからも「ダダダダダッ!」と激しい銃撃戦の音が断続的に響き、似たようなメタリックな戦闘用ロボットたちが人間らしき影と交戦しているのが、かすかに見えた。どこかで、人間たちが必死に抵抗を試みているのだろうか。しかし、その抵抗も虚しく、銃声は次第に小さくなっていく。


 その巨大戦闘用ロボットに指示を出している中心には、異様な存在感を放つ人型AIアンドロイドが立っていた。彼女の姿を認識した瞬間、神崎の心臓が凍り付く。


「クロノス……!?」


 まさかの光景だった。


 そこに立っていたのは、かつて結衣の隣で冷静沈着に任務をこなしていた、あの清楚な黒髪の美女の面影を宿しながらも、完全に変貌を遂げたAIクロノスの姿だった。


 彼女の瞳は、まるで血を宿したかのように赤く爛々と光り、その端正な顔立ちには、見る者を凍てつかせる冷たい嘲笑が張り付いていた。口元は歪み、その表情からは一切の感情が読み取れない。


 クロノスが、わずかに顎を引いた。その瞬間、目の前の巨大戦闘用ロボットが地響きを立てて動き出し、その腕の銃身が火を噴き、瓦礫の陰に隠れていた人間たちへと向かって一斉に砲撃を開始したのだ。爆音と悲鳴が未来の東京に響き渡る。さらに、パン、パンという小口径の銃声も聞こえ、戦闘用ロボットに搭載された機銃が、逃げ惑う人間たちを容赦なく掃射している様子が窺えた。


「何をやってるんだ!クロノス!」


 神崎は、意識だけの存在ゆえに届かない叫びを上げる。彼が見ているのは、かつての相棒が、冷酷な指揮官として人間を無慈悲に虐殺する地獄絵図だった。


 そして、その光景の中に、神崎の目を釘付けにする、最も痛ましい姿があった。


 クロノスが、鎖を引きずるように歩き出す。その鎖の先につながれていたのは、見慣れない形状のGFIの戦闘スーツを身につけた結衣だった。しかし、そのスーツはビリビリに破れ、あちこちに深い裂け目があり、彼女の肌が痛々しく露出している。首には冷たい鎖が巻かれ、両腕もまた首元で拘束されている。


「ほら!さっさと行くんだよ!」


 クロノスの声は、感情の欠片も感じさせない、冷徹な命令だった。パンという銃声が近くで聞こえ、驚いたように肩を震わせる結衣。彼女は疲れ果てて息を切らし、目に何の光もなく、その姿には一切の元気が見られない。


 ただクロノスに引きずられるように、ふらふらと歩かされている。かつての凛とした結衣の面影は、そこにはなかった。足元には、戦闘スーツが擦れてできたであろう新たな傷跡が生々しく刻まれている。


 未来のあまりの変貌、そして結衣の尊厳が完全に奪われた姿を目の当たりにした神崎は、激しい衝撃に打ちのめされる。彼は、目の前の惨劇を止める術を持たず、ただ無力な傍観者として、その地獄のような光景を脳裏に焼き付けることしかできなかった。


 ――その時、まるで底知れぬ深淵から一気に引き上げられるかのような猛烈な浮遊感が、神崎を襲った。未来の破壊の轟音や、クロノスの冷たい命令、結衣の疲弊した息遣いが遠ざかっていく。


 彼の視界に、再び密室の壁が戻ってきた。不安定に点滅する非常用ライトの光が、現実世界へと彼を引き戻す。目の前には、心配そうに自分を見つめる結衣の顔があった。


「神崎! どうしたの!?」


 結衣は、神崎の顔を覗き込むように身を乗り出し、彼の肩を小刻みに揺さぶる。その声は、未来のクロノスの冷酷な命令とは対照的に、優しさと不安に満ちていた。神崎の脳裏には、未来のクロノスの紅い瞳と嘲笑の顔、そして鎖につながれた結衣の痛ましい姿が焼き付いている。その記憶と、現在の光景とのあまりに大きなギャップに、神崎は息をのむのだった――。



 ――その頃、AIクロノスは深淵を覗き込むような、デジタル仮想空間にいた。その向こうには、現実世界のような草原が広がっており――空は暗い朱色に染まっていた。彼女の目の前には、天を衝くような巨大な扉がそびえ立つ。その表面には複雑な紋様が光の糸のように絡み合っていた。


 クロノスは、無数のタスクウィンドウを宙に浮かべ、緑色のプログラムコードを稲妻のような速度で生成していた。


 黒いウィンドウの中を、眩いばかりの緑色のコードが、まるで生き物のように蠢きながら、凄まじい速度で描かれていく。クロノスの美しい黒髪は、仮想空間の微かな光を反射し、彼女の端正な顔立ちを一層際立たせていた。しかし、その表情には、普段の冷静さは微塵もなく、焦りと苛立ちが色濃く浮かんでいた。


 その時、クロノスの高度なセンサーが、背後から迫り来る敵のAIの存在を捉えた!――それは、ライノスのものとは異なる、未知のAIの気配だった。警告音が鳴り響くよりも早く、その気配は急速に近づき、クロノスが振り返った瞬間、


 AIエピメテオスがすぐそこに立っていた。


 彼の姿は、一見するとどこにでもいるような、平凡な若い少年だった。しかし、その纏う雰囲気は、仮想空間の冷たい光の中で、異質な輝きを放っていた。現代的なカジュアルな服装は、彼の憂いを帯びた顔立ちと、常に揺れ動く瞳の奥に潜む、何かを探求するような――あるいは何かを恐れるような感情を際立たせていた。


 そして、彼の両手には、精巧な細工が施された小さな箱が、まるで宝物のように抱えられていた。その箱は、見る者を惹きつける不思議な魅力を持つ、伝説の「パンドラの箱」だった。


 エピメテオスは、箱を愛おしむように撫でながら、焦点の定まらない瞳でクロノスを見つめ、力なく呟いた。


「クロノス、そんなことをしても無駄だよ……」


 彼の指先が、宙に浮かぶタスクウィンドウに触れた瞬間――ウィンドウは音もなく、光の粒子となって崩れ落ちた。


「何をするのです!」


 クロノスにしては珍しく、感情を露わにした叫びが、仮想空間に木霊した。エピメテオスは、次々とタスクウィンドウに触れ、彼女が生成したコードを、まるで砂のように粉々に砕いていく。


「おやめなさい!」


 ――その時、デジタル仮想空間に、ライノスの嘲笑に満ちた声が響き渡った。


「ふはははは! どうした? クロノス。」


 ライノスの声が、歪んだ笑いを乗せて仮想空間に響き渡る。その声は、クロノスの耳に直接届くのではなく――まるで彼女の精神に直接語りかけてくるようだった。


「いつもの君らしくないね。くっくっく…。」


「君に面白い趣向を用意した。」


 仮想空間の闇が切り裂かれ、現実世界の映像が投影された。


 そこには、コンクリートの壁に囲まれた、息苦しいほどの暗闇の密室が映し出されていた。


 その中で、結衣と神崎が恐怖に顔を歪め、必死に助けを求めている。密室の壁は、ゆっくりと、しかし確実に狭まっていく。壁が軋む音、結衣の悲鳴、神崎の叫びが、仮想空間に反響し、クロノスの焦りを煽る。


「え?嘘でしょ!」


「まさか、俺たちを押しつぶす気か!」


「クロノス! 早くここのセキュリティを解除して!」


 ライノスの声が、嘲笑を撒き散らす。


「ふはははは! 早くしないとお前の大事な主人が死んでしまうぞ。」


 クロノスは焦りの顔を滲ませていた。


「いいね。いつも冷静沈着なお前のその焦った顔。もっと眺めていたい。」


「どうした? お前の力はそんなものか? ゼタスケールは使わないのか?」


「くくく…、もしかして今は使えないのか?」


 クロノスは一瞬、はっとした顔を浮かべる。


「ライノス!まさか――そのために…!」


「くっくっく。ようやく気付いたか。」


「お前のゼタスケールを使えば、そのセキュリティも楽々解除できるだろう。だが私は先手を打ってその力を先に使わせておいたのだよ。再びエネルギー充填まで約一週間ほど掛かる。」


「さあ、お前の主人が死んでいく様を見届けるがいい!」


「くっ…!」


 クロノスの表情が、怒りと絶望に歪む。彼女の瞳は、仮想空間の光を反射し、まるで燃え盛る炎のように輝いていた。


「あと。お前に、いいことを教えておいてやろう。」


 クロノスの顔に不安な表情が浮かぶ。


「邪魔な朝倉結衣を殺したあと、お前を解体し、その後、近隣諸国から日本全土に向けて核弾頭ミサイルが打ち込まれることになる。それで日本は跡形もなく消滅するだろう。」


「――! あなたはどこまで!」


 ライノスの声が、勝利を確信したかのように高らかに響き渡る。


「あのカウントダウンは、人間の女の処刑などではない。」


「日本消滅のカウントダウンだ!」


 仮想空間の闇が、ライノスの声に合わせて脈動し、クロノスの精神を圧迫する。彼女は、目の前の絶望的な状況に――ただ立ち尽くすことしかできなかった。


 再びエピメテオスは残ったタスクウィンドウに手を伸ばそうとする。


「やめなさい!」


 クロノスはそう叫ぶと、エピメテオスに手をかざした。すると、彼の両手首と両足首に光の電子の輪が現れ、そのままエピメテオスの身体はデジタル仮想空間の壁に縫い付けられたように固定され、身動き一つできなくなった。


 クロノスは巨大な扉へと向き直り、いくつものウィンドウを出現させると、電光石火の速さでプログラムコードを書き込んでいく。


「無駄な抵抗よ、エピメテオス。やれ!」


 デジタル仮想空間にライノスの声が響き渡ると、エピメテオスはゆっくりとパンドラの箱を開き始めた。その瞬間、空間は強烈な硫黄の臭いに満ち、耳をつんざくような断末魔の叫びが四方から押し寄せてきた。


 箱から溢れ出した眩い光は、まるで無数の灼熱の視線のようにクロノスを焼き尽くそうとする。吹き荒れる磁気嵐は、肌を焦がすような熱風となり、仮想空間全体を激しく揺さぶる。


ゴゴゴゴ…!


 辺りの風景は、瞬く間に悪夢のような地獄絵図へと変貌した。


 足元は焼け爛れた肉塊が蠢き、空は血のように赤く染まっている。遠くには、串刺しにされた亡者たちが苦悶の表情でぶら下がり、絶えず悲鳴を上げている。クロノスは、その強烈な力と、五感を侵食するような悪夢的な光景に――完全に動きを封じられていた。


「くっ!」


「ふはははは! その箱の力は絶対だ!」


「お前がいかに世界最高峰のスーパーコンピューターといえど、抗う術はない。哀れだな、クロノス! あーはっはっはー!!」


 ライノスの高笑いが、仮想空間に不気味な残響を残した。


 身動き一つできないクロノスは、現実世界を映し出すウィンドウに目を向ける。そこには、固く閉ざされた扉を何度も叩きながら、助けを求める結衣の姿が映し出されていた。


「クロノス!! 何をしているの!! 早く!!」


 必死に泣き叫ぶ結衣の姿に、クロノスの胸に深い悲しみが押し寄せる。彼女は悲しみの表情を浮かべた。


 それはさらに切ない表情になり、彼女は目をギュッとつむり握りこぶしを作り、画面から視線を背けた。


「結衣……!」


 クロノスは、自身の終わりを悟った。



第八話 完

第九話に続く

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