第七話 閉鎖空間の慟哭

 夜の帳が降りた東京湾岸。


 黒曜石のような光沢を放つランボルギーニは、滑らかな流線型のボディを妖しく煌めかせながら、無人の幹線道路を吸い込まれるように疾走していた。高性能AIクロノスが操るその車内では、朝倉結衣が運転席で冷たい光を湛えるスマートフォンの画面を操作し、助手席の神崎彰に無言で示した。画面には、緻密に計算された作戦が映し出されている。


「いい?これでわかるわね?」


 結衣の低い声が、静寂を切り裂いた。その声音には、微かな焦燥と、目的遂行への強い意志が滲んでいる。


「ああ、理解した……」


 神崎は、スマートフォンの画面に映る計画を追う目を伏せ、簡潔に頷いた。彼の表情はどこか硬く、瞳の奥には拭いきれない不安の色が宿っている。


 その瞬間だった。


 まるで現実が軋み、剥がれ落ちるかのように――助手席のシートが、続いて車の内装が、音もなく消え去った。


 神崎の視界は一瞬にして純粋な白い光に焼かれる。喉の奥から「え……?」と掠れた声が漏れるが、それすらも光に吸い込まれるように消え失せた。


「――また、この感覚か……いや、今回は違う……」


 神崎の脳裏に、過去の微睡みに近い幻覚とは明らかに異なる、強烈な現実感が叩きつけられる。彼の全身を、底知れぬ恐怖と、理解不能な事態への混乱が襲っていた。


 純粋な白い空間の奥から、耳障りなノイズの隙間に、途切れ途切れの幼い少女の声が掻き消されそうに響いてくる。それは、まるで遠い過去から届く、助けを求めるような、悲痛な叫びのようだった。


「神崎……行っちゃ……だめ……」


「今なら……まだ、引き返せる……お願い、行かないで……」


 声はか細く、しかしその震えが神崎の鼓膜だけでなく、直接脳髄を揺らすような、異常な響きを持っていた。白い空間全体が、まるで何かの悲鳴を吸収しているかのように、微かに震えている。


 そして突然、白いベールが血糊のように剥がれると、信じられないほどの速度で、おぞましい断片的な映像が神崎の脳髄に奔流した。あまりにも速く、あまりにも断片的で、何が映し出されているのか、彼の理性では到底追いつかない。しかしその猛烈な映像の流れの中にも、脳裏に焼き付くような、明確な異物感を伴ういくつかの場面があった。


 一瞬、友好的に微笑む金色の髪の青年が映る。だが、その表情は次の瞬間、絶望に歪み、叫び声にならない悲鳴を上げている。


 温かみのあるブラウン色の瞳を持つ青年は、胸元から血を流し、虚ろな目で宙を見つめる。


 明るいツインテールを揺らすエネルギッシュな女性の笑顔は、次のカットで恐怖に引き攣り、何かに怯えている。


 そして、優しそうな笑みを浮かべる白衣の小太りな男性の顔には、深い絶望と疲弊の色が刻まれている。


 それは、いつもの曖昧な夢の中では決して見ることのない、あまりにも鮮明で、あまりにも残酷な人々の姿だった。


 さらに、鋭い眼光で神崎を射抜く黒髪のスレンダーな女性の瞳は、まるで獲物を見るかのような冷酷さに満ちていた。


 冷たい表情を浮かべこちらを見つめるダークスーツの青年は、その口元に嘲りの笑みを浮かべ、神崎の存在を嘲笑っているかのようだ。


 彼らの肖像は、一瞬にして神崎の心に深く、癒えぬ爪痕を残した。


 断片的な奔流が終わりを迎えると、眼前に広がるのは広大な太平洋の上空だった。どこまでも続く深い青の海原、どこまでも澄み切った天のドーム。そのあまりにも現実離れした光景に、神崎は一瞬、言葉を失った。


 次の瞬間、何もない青空から、まるで空間そのものを引き裂くかのように巨大な母艦が姿を現した。


 ステルスフィールドが解除されたのだろうか。角ばったフォルムを持つその巨艦は、生命を吸い尽くすかのような、禍々しい存在感を放っている。映像が艦内に切り替わり、黒い髭をたくわえた、精悍な顔つきの男が、凍りつくような笑みを浮かべ、歓迎とも呪詛ともつかぬ声で神崎に話しかけている。


 彼の胸元には、鈍い光を放つ「GFI」のバッジが、血のような赤みを帯びて誇らしげに輝いていた。


 巨大な母艦は、大地の呻きのような轟音とともに宇宙空間へと浮上し、空間そのものが悲鳴を上げるような歪んだ光の中を突き進む。ワープ航法だろうか。視界は一瞬で絶対的な、窒息しそうな黒に包まれた。


 だが、暗闇の直後、神崎の脳裏に、内臓を直接握り潰されるかのような、氷のような冷たい感覚が走った。


 深くフードを被った人物が闇そのものと一体化して立っている。その奥は絶対的な闇で、顔の輪郭さえ定かではない。しかし、その暗闇の奥底から、二つの深紅の瞳が、神崎の魂の奥底までを焼き尽くすかのように、鋭く光っている。それはまるで、遠い記憶の断片、あるいはこれから訪れるであろう回避不能な絶望の未来の前兆のように、映画『スター・ウォーズ』に登場する暗黒卿シスの瞳を彷彿とさせる。


 歪んだ口元は、苦悶を貪り、嘲笑するような不気味な線を刻み、明確な姿ではないにもかかわらず、底知れない悪意と、すべてを支配せんとする冷たいオーラが、暗黒卿シス特有の威圧感とともに神崎の心臓を直接、鷲掴みにし、締め上げていた。


「神崎?」


「ねえ、ちゃんと聞いてるの?」


 結衣の呼びかけが、まるで遠い水底から届くような、歪んだ音として神崎の意識に届いた。彼はまるで深海の底に沈められた後、無理やり引き上げられるかのように、喘ぎながら現実へと引き戻される。


 目の前には、見慣れたランボルギーニの助手席の光景が広がっている。しかし、その光景は幻覚のおぞましいビジョンと重なり合い、現実との境界が曖昧に感じられた。喉の奥から「え……?」と、壊れた人形のような、意味をなさない音が再び漏れた。額には冷たい汗が滝のように滲み、全身が微かに震えている。


「どうしたの?ぼうっとして。さっきから話してるのに、ちゃんと聞いてた?」


 結衣は心配そうな目で神崎を見つめている。その瞳には、幻覚の中の冷徹な女性の残像がよぎり、神崎は一瞬、身を硬くする。


「ああ、悪い……少し、夢見心地だった。ひどい悪夢を、見ていたようだ……」


 神崎は、かろうじて平静を装うが、彼の瞳の奥には、幻覚の残滓が焼き付いたかのような、拭い去れない恐怖の色が宿っていた。


 車が廃倉庫付近に差し掛かると、クロノスは速度を落とした。まるで獲物を狙う肉食獣のように、静かに――廃倉庫から少し離れた場所に、車を滑り込ませるように停車させる。


カチャ。


パタン……


 結衣と神崎は、息を潜めるようにして車を降りた。身を屈め、車の影に溶け込むように身を隠す。周囲は、底なしの闇のように黒く、街灯の光さえも無力に跳ね返す。


 海は、まるで何かを飲み込もうとする巨大な口のように、静かに――しかし確実に二人を飲み込もうとしていた。聞こえるのは、微かに、ただ微かに聞こえる波の音だけ。


ザザザ……


 その静けさが、逆に二人の緊張感を極限まで高めていた。


「クロノス、あの建物で間違いない?」


 結衣は、囁くような声でクロノスに問いかけた。その声は、骨伝導を通して、二人の耳に直接響く。


「はい。周囲の建物をスキャンしましたが、人体反応はあの建物のみです。彼女たちが囚われているのは、ほぼ間違いなくあの倉庫の中です。」


 結衣は、身を屈めたままゆっくりと後ろを振り返り、神崎と目を合わせた。彼の瞳には、微かな光さえも反射しないほどの、深い闇――あるいは、拭えない不安と疲弊の色が宿っていた。


「いい?」


「あ、ああ……ここまで来たら、ひ、引き返すわけにはいかないだろう……」


 二人は、ついに国際的テロ組織のアジトの目の前に立った。あの建物の中に、想像もつかない敵が潜んでいるかもしれないと思うと、二人の心臓は、まるでドラムロールのように激しく打ち鳴らされていた。


「こ、このコート、本当にマシンガンの弾も防げるんだろうな?」


 神崎は、結衣から渡された特殊素材のコートを、まるで藁にもすがるように握りしめた。その手は、僅かに震えている。


「ええ。GFIでのテストでは、そのはずだけど……。」


 結衣の声も、わずかに震えていた。


「いい?あくまでも、最優先は彼女たちの救出よ。無用な戦闘は避けるの。」


「ああ、わかってる。俺だって、できることならそうしたい。静かに忍び込んで、さっと助け出す。それが一番だ。」


 二人は、車内で綿密な作戦を立てていた。


 しかし――実際の現場の雰囲気は、二人の想像をはるかに超える異様なものだった。


「行くわよ。ついてきて。」


 結衣は、そう呟くと、まるで忍び足で歩く猫のように、音もなく廃倉庫へと向かった。神崎も、後に続いた。


 そして、二人は廃倉庫の扉の前に立った。


 神崎は、ゆっくりと扉に手を伸ばし、静かに開けようとした。


 しかし、扉は頑丈な電子ロックでしっかりと――まるで内部の秘密を固く守るかのように閉ざされていた。


「やっぱりな。」


 その瞬間、二人の耳に、クロノスの声が骨伝導を通して響いた。


「私にお任せください。」


 クロノスは、まるで熟練の泥棒のように、いとも簡単に電子ロックのセキュリティを突破した。


「さすがだな、クロノス。」


「しっ!油断しないで。この扉の向こうには、たくさんの――想像もつかない敵が待ち構えているのよ。」


 結衣は、神崎を静止させた。


 神崎は、息を潜め、ゆっくりと扉を開けた。


ギィ……


 わずかに開いた隙間から、中を覗き込む。


 そこには――人の気配はなかった。


 しかし、その静けさが、逆に二人の警戒心を異常なまでに煽った。神崎は、さらにゆっくりと扉を開け、結衣と共に、暗闇の中に足を踏み入れた。そして、二人は音を立てないように、静かに扉を閉めた。


パタン――。


 廃倉庫の中は、外の闇よりもさらに深く、二人の存在を完全に隠蔽した。しかし、その闇の中に、何かが潜んでいるような、張り詰めた不気味な気配が、二人を包み込んでいた。


ゴゴゴゴ……


 薄暗い建物の中を、二人はまるで水底を這う魚のように、音もなく進んでいく。錆び付いた金属の匂いと、埃っぽい空気が、二人の鼻腔を刺激する。


ピチャン。ピチャン……


 足元に散らばる割れたガラスの破片が、わずかな光を反射し、まるで無数の小さな目玉がこちらを見ているかのようだ。建物の影に身を潜め、奥の広場に目をやると――


 そこには、異様な、そして目を疑うような光景が広がっていた。


(あ、あれは……!)


 さらわれた女子高生たちが、まるで生きた人形のように、生気を失った無表情で一か所に集められている。彼女たちは、胸をはだけられ、下着一枚という屈辱的な姿で、両手を後ろ手に拘束されていた。口には粘着力の強いテープが貼られ、言葉を発することもできない。その姿は、まるで人間性を剥ぎ取る残酷なショーを見せられているかのようだった。


 彼女たちは、憔悴しきっており、小刻みに震えている。中には、恐怖のあまり完全に意識を失っている子もいた。その顔は、まるで蝋人形のように青白く、もはや生気が感じられない。


「まあ!なんてことを……!」


 結衣は、その光景を目の当たりにし、怒りと、そして深い悲痛に襲われた。その声は、まるで氷のように冷たく、静かに燃え盛る怒りを宿していた。


「おそらく、彼女たちに逃げる気力さえ奪うためでしょう。」


 クロノスは、感情を一切含まない、機械的な声で答えた。


「クロノス、敵の位置は?」


 結衣は、冷静さを保とうと努めながら、クロノスに問いかけた。その声の奥には、微かな焦りが見え隠れする。


ピピ!キュイーン……


「この建物内に敵の反応はありません。我々と彼女たち以外、誰もいないようです。」


「え……?そんなはずはない……」


 結衣は、クロノスの報告に、強い違和感を覚えた。この状況は、あまりにも不自然だ。まるで、何かが決定的に間違っていると言わんばかりに。


「もう一度、念入りに調べて。どこかに、必ず敵が潜んでいるはずよ。」


 結衣は、クロノスに再度指示を出した。


ピピピ!キュイーン……


「……再度スキャンを実行しましたが、結果は同じです。この建物内に、敵の反応はありません。」


 クロノスの言葉に、結衣の疑念はさらに深まった。彼女の視線が、不安げに廃倉庫の天井や壁を彷徨う。


「どういうことよ……?」


 その時、神崎が口を開いた。彼の表情には、ある種の諦めと、奇妙な納得が浮かんでいた。


「ああ、なるほど……」


「この監禁場所の情報を探し当てるためにクロノスが、ゼタスケールを使って膨大なSNS情報からこの場所の情報に辿り着いただろう?」


「ライノスの奴、クロノスがそこまでの高性能なスーパーコンピューターだとは見抜けなかったじゃねえのか?ゼタスケールってのは凄いんだろう?」


 結衣の顔に、張り詰めていた緊張が一瞬、和らいだ。


「そっか。言われてみれば確かにそうかもね。」


「この時代のスパコンはエクサスケールまでが主流だものね。」


「なーんだ、緊張してバカみたいじゃない。ここまで武装してきて。」


 結衣は、拍子抜けしたように自嘲めいた笑みをこぼした。


「まあ、良かったじゃねえか。彼女たちを救出してすぐにここを出よう。」


「ええ。」


 そう言って二人は、彼女たちの傍に歩み寄った。


「もう大丈夫よ。私たちが助けにきました。」


ガコン!


 その時だった。


 床が、ゆっくりと――しかし確実に、底なしの深淵へと下降を始めた。二人は、あまりにも唐突な出来事に、反応する間もなかった。


「え……?」


 結衣が呟いた瞬間、昇降機はどこまでも下降を始め、そして最深部に到達した。


 同時に――頭上の天井は、分厚い鉄板が勢いよく、すべてを叩き潰すかのように閉じられる。


ガン!


「何だ!?」


 神崎が叫んだのとほぼ同時に、上層へと向かって、連続して鉄板が閉じ始める。それは、二人の逃げ道を塞ぐように、凄まじい速度と轟音で閉まっていった。


ガン!ガン!ガン!ガン!


「くそっ!」


 神崎が叫んだ時、二人は互いの姿さえ見えない、絶対的な、鉛のような暗闇の中に閉じ込められた。


「結衣!どこだ!」


 神崎の声が、暗闇を深く切り裂くように響く。


「こっちよ。」


 結衣の声も、すぐそばから聞こえる。しかし、二人は互いの姿を捉えることができない。ただ、声だけが、互いの存在をかろうじて繋ぎ止める。


「ちくしょう!これじゃ何も見えないぞ!」


 神崎は、苛立ちを隠せない。その声には、焦燥が滲んでいる。


「ちょっと待って。」


 結衣はそう言うと、彼女は特殊コートの肩のプロテクターを外し、それは非常用ライトになっていた。暗闇の中に淡い光を放ち、それを床に置く。もう片方の肩のプロテクターも外し、非常用ライトを灯して、再び床に置いた。


「このコートにはそんな機能が――」


 神崎も自分のコートの両肩のプロテクターを外し、非常用ライトを灯す。そして、二人の四隅に非常用ライトを置いた。


 ようやく二人が暗闇に慣れた頃、奥に扉があることに気付く。神崎が扉を開けようとしたが、電子ロックが掛かっていてビクともしなかった。


「くそ、ここもか!」


「大丈夫よ、こっちにはクロノスがいるもの。」


 結衣の声には、まだ安堵の響きがあった。彼女は、通信機の調子を確かめるように耳元を触れる。


「クロノス、さっさとここのロックを解除しちゃって。」


 静寂が、返事の代わりに降り積もる。


 だが――クロノスからの返事は、いつまで待っても返って来なかった。


 無音。


 ただ、絶対的な沈黙だけが、二人を深く、深く、飲み込んでいく。


 その時だった。四隅に置かれた非常用ライトが、まるで生命を吸い取られるかのように、みるみるうちに光を失っていく。淡かった光はさらに薄れ、やがて消え入りそうな灯火となり、周囲の闇に呑み込まれていく。


「――まさか……!」


 結衣の全身に、悪寒が走った。これまで経験したことのない、底知れぬ予感が彼女の心を締め付ける。これは単なるトラブルではない。敵のテクノロジーが、クロノスだけでなく、自分たちの装備すらも無力化しているのだ。


 絶対的な闇が、再び二人の視界を覆い尽くした。そして、その闇は、ただの光の欠如ではない。まるで、生き物のように、二人の存在そのものを押し潰すかのような、重い、重い質量を伴っていた――。



第七話 完

第八話に続く

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