第五話 演算と覚悟

 ――その夜、神崎は不思議な夢を見ていた。


 そこには、異世界で結衣が建てたという風車小屋によく似た建物があった――だが、その様子は明らかに異様だった。かつて色とりどりの花が咲き乱れていたはずのその場所は、風車小屋がボロボロに朽ち果て、周囲には荒れ果てた畑がどこまでも広がり、ところどころ地面がえぐれ、大きなヒビも入っている――意識だけとなった神崎は、その光景を空から見下ろしていた。


ビュウウウウ!


 そして何より驚かされたのは空だった、そこには紫色の禍々しい雲に覆われ、周囲は激しい突風が吹き荒れている。それは、まるで世界の終焉を思わせるような光景だった――


ゴゴゴゴ…


(な、なんだ…これは…?)


 あまりの光景に意識だけの神崎は息を呑んだ。


ガラーン…!ゴローン…!


 その瞬間、世界全体に静寂な鐘の音が鳴り響いた。


(……!!)


 その時だった。東の彼方から凄まじい衝撃波みたいなものがこちらまでやってきて、周囲の木々をなぎ倒した。ボロボロに朽ち果てた風車小屋が崩れ落ちた。


ブアァァァ!


(え……!)


 上空から神崎は東の彼方を見つめてみたが遠すぎて見えない。だが、東の彼方では強いエネルギー同士がぶつかっているようなものを感じる。その周囲の空間だけねじ曲がり、衝突する度に地面が揺れた。


ドッガーーン! バッガーーン!


バチバチバチ…


 その強いエネルギー同士の衝突は他にもいくつも見える。注意深く東の彼方を眺めていると、青白い雷柱のようなものが何本もその中心に向かって地面から天に向かって立ち上がっていた。


ビリビリビリ…!


(一体、あの東の彼方で何が行われているんだ…!)


 一つの青白い雷柱が、紫色をした雷柱と衝突すると、弾け飛ぶように青白い雷がこちらまで飛んできた。それが地面に着地すると、とてつもなく巨大な雷柱が天へ向かって立ち上がり、神崎は追うように空を見上げる。


ドゴォォォォォォォォ!ビリビリッ…


(な、なんだ!)


カッ!


 さらに渦巻き状の衝撃波のようなものが東の彼方から地面をえぐりながら木々をなぎ倒し、こちらにやってきた。その渦巻き状の衝撃波は、周囲の海の水平線の彼方まで巨大なトンネルを作った。しばらくすると海に空いた穴はふさがり海は荒れ狂った。


ズァァァァ!ザッパーン!!


 その時だった。


 風車小屋の周りの小さな石たちが震えながらゆっくりと宙に浮かび始める。


ウゥゥゥン…


(え…?)



カッ…!



 次の瞬間、東の彼方から超高エネルギーが瞬時に解き放たれた! 一瞬音が消え、眩しい閃光が走り、周囲を焼き尽くすような超高エネルギーが徐々にこちらに迫ってくる!


ズァァァァァ!


(うああああーーーー!!)


 その超高エネルギーに神崎の意識が飲み込まれようとした刹那、神崎の周囲に針の先ほどの光が灯り、


ピカァァ!


 瞬時にしてその光が広がり神崎を飲み込む。


シューウンッ!


 そして一瞬にして周囲は昼になった――そこには朽ち果てる前の静かな風車小屋の景色が広がっていた。


ギィ…ギィ…


「はぁ…はぁ…」


 神崎はベッドから飛び起きた――。



 そして時は遡る――



 神崎は、自分の弱さを痛感した――。


 そして、差し出された結衣の小さな手を、自分の震える手を重ね、力強く握り返した。その瞬間、温かい光が、まるで 器を満たす液体のように、結衣の手を通して彼の全身へと流れ込んでくるのを感じた――同時に、これまで感じたことのないほどの平穏と、内面からの力が湧き上がってくるような感覚に包まれた。彼女の心強く、優しく、そして何よりも真剣な眼差しと、その不思議な光が、彼の背中を力強く押してくれたのだ。



「わかったよ。」



 神崎の顔にも、以前のような苦悶の色はなく、穏やかな、しかし確固たる決意を宿した表情が浮かんだ。


 見つめ合う二人の間には、言葉を超えた強い絆と、光に満ちた 希望が満ちていた――それぞれの胸には、犠牲者救出という唯一の目標に向けた、揺るぎない覚悟が刻まれた瞬間だった。



 その時、結衣は少し赤くなった目元で、しかし柔らかな笑顔を神崎に向けた。



 素の状態でも彼女は可愛いのだが、感情を露わにした後の笑顔は、どこか庇護欲をそそるような危うさを含んでいた――神崎は先ほどまでの緊迫感から解放され、胸がじんわりと温かくなった。


(か、可愛い…。なんて、可愛いんだ…。)


 もう一度結衣の笑顔を確認すると、その優しい光に彼は安堵感を覚えた。しかし、三度目に目が合った時、彼は微かな違和感を覚えた。彼女は微笑みを湛えたまま、じっとこちらを見ている。そして――微かな戸惑いを覚えたその時だった。


「ん…?」


 神崎は、先ほどまで握っていた彼女の右手が、まだ温かいのを感じていた。その温もりを感じている最中、まるで足元が急に崩れたかのように、体勢がぐらつき、片膝が床に吸い付いた。


「え?」


 何かに強い力で押し付けられているような、抗えない感覚が全身を襲う――起き上がろうとしても、身体にまるで力が入らない。神崎は、温かい感触が残る彼女の右手を掴んだまま、為す術もなく体勢を崩し、翻弄されてしまう。


「うわわ…! な、なんだ…?」


 そして彼は、結衣を背にして、高級な絨毯が敷かれた床に完全に押さえつけられてしまった。結衣の息遣いが、すぐ背後から聞こえる。


「さっき、私のこと『結衣』って、呼び捨てにしたわね?」


「え? わ、悪い…。興奮してたからつい…。」


 結衣は力を込めずに、しかししっかりと彼の拘束を解いた。


「それは別にいいのよ――みんな私のこと『朝倉様』とか『朝倉氏』とか、堅苦しく呼ぶから新鮮だったわ。」


 結衣は、先ほどの涙の跡が嘘のように、屈託のない笑顔で答えた。タワーマンションの窓から見える夜景が、彼女の横顔を優しく照らしている。


 神崎は「彼女はお嬢様か何かなのか?」と、心の中でそっと呟いた。


「クロノス以外で、私のこと下の名前で『結衣』って呼ぶ人っていないから、乙女心が少しときめいちゃった。」


 結衣は、いたずらっぽくクスリと笑う。


「あのなぁ? 乙女が国際的テロ組織のアジトに乗り込む奴がいるかよ?」


 神崎は、まだ少し痺れる腕を庇いながら、笑顔で返事を返した。窓の外の夜景は、無数の光が瞬き、二人の間にある種の静けさをもたらしているようだった。


「あら? あんた女をわかってないのね? 乙女は強いのよ?」


「乙女は、悪には決して負けないの!――」


 結衣は、真剣な表情でそう言い切った後、一転してキョトンとした顔で返事をする。彼女の横顔には、背後の夜景の光が強く当たり、その瞳の奥には、都会の喧騒とは裏腹の、強い光が宿っているようにも見えた。


「そうなんか?」


「そういうもんよ。」


 彼女は、先ほどまでの険しさの欠片もない、穏やかな微笑みを彼に向けた。


「ところで、さっきのあれはなんだ?」


 神崎は、まだ理解が追い付かない、不思議な体験について結衣に尋ねた。


「私、こう見えて合気道の有段者なの――師範の資格だって持ってるわ。」


 曇りなき瞳で、彼女はそう答えた――背後では、クロノスのホログラムが、二人の会話を静かに見守るように淡い光を放っていた。


「合気道?」


「そう。合気道は昔の日本から伝わる武術の一つで、空手とかに比べれば地味だけど、習得すればさっきみたいな芸当が出来るの。」


「へえ~。」


 神崎は、純粋に関心したように答える。高級な絨毯の感触が、まだ手のひらに残っている。


「合気道は、相手の力を無力化する武術――『体捌き』や『呼吸の一致』ってのを使ってるんだけど、相手の力を利用して使う技なので、力のない女性でも大男を押さえつけることだって出来るの」


「へ、へぇ~…。」


 神崎は、改めて彼女の底知れなさに驚嘆した。眼下の夜景は、まるで宝石を散りばめたように煌めいているが、彼らがこれから向かう場所は、そのような美しさとはかけ離れた危険な場所なのだという現実が、ふと頭をよぎった。


「じゃあ、まったく勝算がないわけでもないんだな。」


「まあね。でも、相手は国際的テロ組織よ……私の合気道がどこまで通じるか…」


「でも、いざとなったら私が投げ飛ばしてあげるわ。」


 神崎は、彼女の言葉に、ほんの少しだけ心強さを感じた。窓の外の夜景は、ゆっくりと色が変化しているようだった。


「あと、こちらにはクロノスという心強い味方がいるわ。そうでしょ?」


 結衣は、ホログラムのクロノスに笑顔を向けた。まるで本物と見間違えるほど精密なホログラムのクロノスは、柔らかな光を放ちながらそこに立っていた。


 感情の起伏を感じさせない声で性能を説明するその瞳は、光学的な冷たさを湛えながらも、二人を静かに見守っているようだった。


「はい。私は実体のないAIですので、物体を掴むということは出来ませんが――私の本体は、世界最高峰を誇るスーパーコンピュータ『テセラックト004GR』です。」


「高性能AI《クロノス・アナリティカル・システム(Chronos Analytical System)》で稼働していますので――瞬時に敵の位置を把握し、次に相手がどんな行動を仕掛けてくるのかをその場で解析して、最適な指示を出すことができます。」


 クロノスは、感情の起伏のない声で、自身の性能を淡々と説明する。窓の外の夜景は、無数の光を瞬かせ、二人の間に静寂をもたらした。


「ライノス追跡に使用したゼタスケールは今は使用できませんが、エクサスケールであれば使用できます。敵の動きを解析して戦略を立てる程度なら問題ありません。」


「そっか、ゼタスケールを使っちゃったんだ。無理もないわね。」


「クロノス、再びエネルギー充填完了までどれぐらい?」


「はい。今、エネルギー充電を急いでいますが、MAXまで約一週間ほど掛かります。」


「まあ、ざっと見積もってそんなところね。」


 結衣は腕組をして、タワーマンションの高い天井を見上げながら答えた。


「おい。さっきからお前らが話してる、その。ゼタスケール?とか、エクサスケールってなんだよ?」


 神崎は、素朴な疑問を結衣にぶつけてみた。


「そっか、あんたコンピューター雑誌の記者のくせに、コンピューターのこと何も知らないのね?」


 結衣は、先ほどの真剣な表情から一転、楽しそうにクスリと笑う。


「どうして、あんたがコンピューター雑誌の記事を書いてるのか不思議だわ。」


 結衣は、さらに肩を揺らして笑った。


「ま、まあ、それは成り行きで…。」


 神崎は、苦笑いを浮かべる。


「スーパーコンピュータは知ってる?」


「ん~。聞いたことぐらいなら…。」


「やれやれ、どこから説明すればいいのやら…。」


 結衣は腕組をしたまま、窓の外に広がる夜景に目をやり、少し考え込んだ。その横では、クロノスのホログラムが神崎を微笑みながら佇立している。


「あのね、神崎。スーパーコンピューターって言うのは、簡単に言えば、ものすごく高性能なコンピューターのことよ。普通のパソコンとかスマホとは比べ物にならないくらいの計算能力を持っているの。」


「計算能力が、すごい…?」


 神崎は、夜景を見つめる結衣の横顔を見ながら、ぼんやりと呟いた。


「そう。例えば、天気予報の複雑な計算をしたり、新しい薬を作るためのシミュレーションをしたり、宇宙の研究で大量のデータを解析したり…とにかく、人間が何年もかかるような計算を一瞬で終わらせることができるの。」


「へえ…そんなにすごいんだ。」


「ええ。そしてね、そのスーパーコンピューターの性能を表す単位の一つに、『FLOPS(フロップス)』っていうのがあるの。これは、一秒間にどれくらいの計算ができるかを表す単位なんだけど…まあ、難しいことは置いといて」


 結衣はクスリと笑った。


「えっと、そのフロップスっていうのは、速さの単位ってことでいいんですか?」


「まあ、簡単に言えばそういうこと! 一秒間に何回計算できるかの回数ね。そのFLOPSの単位がどんどん大きくなってきてね。ギガFLOPSとか、テラFLOPSとか、ペタFLOPSとか…聞いたことあるかしら?」


 神崎は首を横に振った。


「まあ、無理もないわね。で、そのペタFLOPSのさらに上が、エクサFLOPSなの。エクサっていうのは、10の18乗を表す言葉で、ペタの1000倍もすごい単位なのよ。」


「例えるなら、もしペタFLOPSが町くらいの計算速度だとすると、エクサFLOPSは地球全体の情報処理速度くらいかしら。クロノスの本体、『テセラックト004GR』も、普段はそのエクサスケール級の能力で動いているわ。」


 結衣はそう言って、ホログラムのクロノスを一瞥した。


「で、さっきクロノスが言ってた『ゼタスケール』っていうのは、そのエクサスケールのさらに上なの。ゼタは10の21乗。もう、とんでもないレベルの計算能力よ。ゼタスケールがどれくらい凄いか、具体的に説明するわね。」


「2025年現在、世界のスーパーコンピュータの性能ランキングで1位の『エルキャピタン』の性能は約1.74エクサFLOPS、2位の『フロンティア』は約1.35エクサFLOPS、3位の『オーロラ』でも約1.01エクサFLOPSなの。」


「エクサスケールはペタスケールの1000倍だから――普段のエクサスケール級の能力を持つ『テセラックト004GR』も、これらの世界最高峰のスパコンと比べても遜色ない、あるいは凌駕するポテンシャルを持っていることになるわ。」


 神崎は目を丸くし、額に皺を寄せながら結衣の言葉を追いかけた。


「そして、ゼタスケールはエクサスケールのさらに1000倍――つまり、『テセラックト004GR』がその真の力を発揮すれば、現時点の世界最高性能のスパコンの数百倍から千倍以上もの計算能力を持つことになるのよ。まさに、想像を絶する力だってことがわかるでしょ?」


 神崎は、あまりにも途方もない数字を頭の中で反芻し、しばらく言葉を失った。


「これを使うためには、例えるなら、東京都内全域で使うくらいの電力が一瞬で必要になるのよ。」


「東京都内全域の電力…!」


 神崎は目を丸くした。想像もできないほどのエネルギーだ。


「そう。だから、そう簡単には使えない力なの――でも、私たちの『テセラックト004GR』は特別でね。そのゼタスケールを使うために必要な電力を、スーパーコンピューターのすぐ傍に、常に大容量で確保してあるの。」


「そんなことが…どうやって?」


 神崎は驚きを隠せない。


「それは、色々な特殊な技術が使われているから、私も詳しくは説明できないんだけど…まあ、いざという時には、その途方もない力を使うことができるってことよ。ライノスを追跡した時は、その力を使ったの。」


「なるほど…普段のエクサスケールでもすごいのに、さらにそんな力まで…。」


「ええ。まさに切り札みたいなものね。普段のエクサスケールでも十分強力なんだけど、どうしても、って時にはゼタスケールが使える。まあ、滅多なことじゃ使わないけどね。でも、それを使うと、電力の備蓄もかなり減っちゃうから、そう頻繁には使えないのよね――」


 結衣は少しだけ真剣な表情になった。


「ちなみに、そのゼタスケールのさらに上には、ヨタスケール(10の24乗)とか、ロナスケール(10の27乗)、クエタスケール(10の30乗)っていう、もう本当に想像もつかないような単位も理論上は存在するのよ。少なくとも、私たちが観測できている宇宙の法則の中ではね。」


 結衣は、窓の外の星空を一瞬見つめ、意味深な表情を浮かべた。


「まあ、それは本当に未来の話ね」


 結衣は肩をすくめて笑った。しかし、その笑顔には一瞬、何か憂いを帯びたような影が見えた気がした。


「とにかく、私たちが今頼りにしているクロノスは、普段でもエクサスケールっていう、とんでもない能力を持っているスーパーコンピューターだってこと。」


「そして、いざという時には、東京都内全域分の電力を使って、さらに強力なゼタスケールの力も使える。だから、あんまり悲観しないでちょうだいね」


 結衣はそう言って、神崎に安心させるような微笑みを向けた。しかし、その瞳の奥には、ほんのわずかな警戒の色が宿っているようにも見えた。


「スーパーコンピューターは性能を上げれば上げるほど、大量の消費電力が必要になり、ロナスケールともなれば、全世界の消費電力の15倍もの電力が必要になるのよね」


 結衣は少し溜息をつく。


「まあ、それを扱うために、新たな未知のエネルギーを作り出すための研究開発を、私たちの機関で進めているんだけど――なかなか、そう簡単にはいかないのよね。」



「お前……いや、君たちは……一体、何者なんだ……?」



 彼女の語る「機関」という言葉は、普通の組織ではない、より大きな使命を暗示しているようだった――。




第五話 完

第六話に続く

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