第四話 交錯する時間軸
白い空間の奥から、幼い少女の声が途切れ途切れに響いてくる――
「神崎…、行っちゃ…、だめ……」
「今なら…、まだ、引き返せる……」
空気の振動だけが伝わるような、弱い声だった。
そして突然、白いベールが剥がれるように視界が開けると、信じられないほどの速度で、断片的な映像の流れが神崎の脳内を奔流した。あまりにも 速く、あまりにも断片的で、何が映し出されているのか、彼の理性では到底追いつかない。しかしその猛烈な映像の流れの中にも、強烈な印象を残すいくつかの場面があった。
金色の髪の青年が、友好的に微笑みかけながら何かを話しかけている。温かみのあるブラウン色の瞳を持つ青年、 明るいツインテールを揺らすエネルギッシュな女性、そして、優しそうな笑みを浮かべる白衣の小太りな男性。それは、いつもの曖昧な夢の中では決して見ることのない、鮮明な人々の姿だった。
さらに、鋭い眼光で神崎を射抜く黒髪のスレンダーな女性、 冷たい表情を浮かべこちらを見つめるダークスーツの青年。彼らの肖像は、一瞬で神崎の心に深い爪痕を残した。
流れが終わりを迎えると、眼前に広がるのは広大な太平洋の上空だった。どこまでも続く深い青の海原、どこまでも澄み切った天のドーム。その絵画のような光景に、神崎は一瞬、言葉を失った。
次の瞬間、何もない青空から、まるで蜃気楼のように巨大な母艦が姿を現した。
ステルスフィールドが解除されたのだろうか。 角ばったフォルムを持つその巨艦は、威圧的な存在感を放っている。映像が艦内に切り替わり、黒い髭をたくわえた、精悍な顔つきの男が、歓迎するように神崎に話しかけている。
彼の胸元には、鈍い光を放つ「GFI」のバッジが誇らしげに輝いていた。
巨大な母艦は、轟音とともに宇宙空間へと浮上し、歪んだ光の中を突き進む。ワープ航法だろうか。視界は一瞬で絶対的な黒に包まれた。
だが、暗闇の直後、神崎の脳裏に、氷のような冷たい感覚が走った。
深くフードを被った人物。その奥は絶対的な闇で、顔の輪郭さえ定かではない。しかし、その暗闇の奥底から、二つの赤い灯が鋭く光っている。それはまるで、遠い記憶の断片、あるいはこれから訪れるであろう絶望的な闇の前兆ように、映画『スター・ウォーズ』に登場する暗黒卿シスの瞳を彷彿とさせる。
歪んだ口元は、嘲笑とも苦痛ともつかない不気味な線を刻み、明確な姿ではないにもかかわらず、底知れない悪意と冷たい支配のオーラが、暗黒卿シス特有の威圧感とともに神崎の心臓を直接掴んだ。
「神崎?」
「ねえ、ちゃんと聞いてるの?」
結衣の呼びかけで、神崎はまるで深い眠りから引きずり起こされたように、現実へと引き戻された。
目の前には、見慣れたランボルギーニの助手席の光景が広がっている。「え…?」と低い声が再び漏れた。額には冷たい汗が滲んでいる。
「どうしたの?ぼうっとして。さっきから話してるのに、ちゃんと聞いてた?」
―――。
「はっ…!」
激しい動悸と共に、神崎は跳ね起きた――。
「なんだ、今の…?」
額にびっしりと冷や汗が滲み、全身の震えが止まらない。彼は荒い息を整えようと必死だった。先ほどの「現実」と区別がつかなかった光景が、今、薄いベールを纏って、確かに「夢」として彼の脳裏に焼き付いている。金色の髪の青年、巨大な母艦、そしてあの暗黒卿のような赤い瞳……。それらはあまりに鮮明で、まるで実際に体験したかのような生々しさで、彼の心臓を掴んで離さない。
――これは、数時間前の出来事だ。彼がこの予知夢を見るより、ずっと前の。
――AIクロノスは、分解されたピクセル情報を詳細に解析し、高度なステガノグラフィー解読アルゴリズムを瞬時に実行した。彼女の指先がホログラム映像を繊細に操作すると、監禁場所を示す座標と、敵のAI、ライノスからの挑戦状とも言えるメッセージが浮かび上がった。
「東京湾沿岸、古びた廃倉庫。座標は〇〇、〇〇。さあ、間に合うかな?」
神崎は、そのメッセージを読み終えると、豪華な調度品に囲まれた結衣の部屋の中で、憎らしい敵の挑発的な言葉を反芻し、険しく眉をひそめた。磨き上げられた大理石の床に、ホログラムの淡い光が不気味な影を落とし、先ほどまでそこにいたライノスの残像を思わせる。
「くそっ、そんなところに…!」
クロノスは、神崎の低い唸りを拾うと同時に、煌めくホログラム映像をさらに鮮明に投影した。眼下に広がる夜景を背景に、青い光点が東京湾沿岸の暗闇の一角を鋭く指し示す。
間髪入れずに、その座標を含む詳細な地図がホログラム映像に展開され、さらにその場所にあると思われる廃倉庫の、様々な角度からの鮮明な写真や最新の衛星画像が、レイヤーのように次々と重ねて表示された。
それは、一刻も早く最悪の事態が起こりうる現場に急行するための、周到かつ迅速な準備の証だった。
「おい、どうすんだよ? 結衣!」
神崎は、隣に立つ結衣に声をかけた。彼女の白い頬は、先ほどの恐怖と怒りでかすかに紅潮し、普段は冷静な瞳が、今もなおホログラムに残るライノスの嘲笑を焼き付かせているかのように、深く険しい光を宿している。小さな肩は、目に見えないほどの怒りでわなないていた。
「もう、あったま来た!」
結衣は、まるで氷の刃を研ぎ澄ますような低い声で言い放ち、ホログラムに映し出された廃倉庫を睨みつけた。タワーマンション最上階の静寂を破るその言葉には、抑えきれない怒りと、必ず敵を追い詰めるという強い決意が込められていた――。
「どうするって、彼女たちを、助けに行くに決まってんじゃない!」
結衣は、迷いのない強い眼差しで神崎を射抜いた。その瞳には、確固たる決意が宿っている。
「お、おい。わかってんのか!」
神崎の声は心配げだった。眉根を寄せ、結衣の熱意に気圧されたように、わずかに後ずさる。
「え?」
結衣は眉をひそめた。神崎の言葉の意味を測りかね、訝しむように首を傾げる。
「相手は、ただのチンピラじゃない。国際的なテロ組織だ!」
神崎の言葉が、重い石のように結衣の心に落ちた。彼女の表情から、一瞬、血が引いたように色が消える。息をすることさえ忘れたかのように、瞳の奥に、 自覚と、それに伴うわずかな悲しみが滲んだ。
「そんなところに、たった二人で乗り込んで行って、どうなるっていうんだ…。」
神崎は続けた。 まるで自分に言い聞かせているように、声は弱々しい。彼は視線を彷徨わせ、磨き上げられた床の自分の頼りない姿を見つめながら、神崎は過去の苦い記憶を蘇らせていた。
(そうだ、いつもこうだった…)
幼い頃から優しさと正義感を抱いていた彼だったが、肝心な場面で一歩を踏み出せない臆病さも持ち合わせていた。例えば、クラスメイトがイジメられているのを見ても、見て見ぬふりをすることしかできなかった。勇気を出せない自分を、彼は深く嘆いていたのだ。
「みすみす、敵の罠に飛び込むようなものだ。」
(また、逃げるのか…?)
「こういうのは、警察に…。」
結衣の悲しげな表情は深くなった。彼女の唇は、悲しみと怒りで小さく震えていた。
「どうして…?あなたは、彼女たちが可哀想じゃないの…?」
結衣の声は、 今にも壊れてしまいそうなほど震えていた。 彼女の大きな瞳は潤み始め、神崎の目を 痛みと訴えかけるように見つめる。
「そりゃ、俺だって、可哀想だと思うけどさ…。」
神崎は目を泳がせた。結衣の純粋な瞳から逃れるように、視線は部屋の隅へと彷徨う。彼の指先は、心許なく空気を切り、まるで掴むべき言葉を見つけられないでいるようだ。
「だったら!」
結衣は語気を強めた。それまで押し殺していた感情が爆発したように、彼女の声は鋭く部屋に響く。
「助けに行きましょう!」
「しかし…」
神崎の言葉は、結衣の決意に圧倒され、喉の奥でやっと絞り出されたように途切れた。彼の表情には、今までの不安に加え、予期のようなものが浮かぶ。
「どうしてよ!」
結衣は、すでに幾滴もの涙を湛えた瞳で神崎を射抜いた。その透明な雫は、彼女の純粋な心を反映しているようだ。
「きっと彼女たち、暗くて寒い倉庫で、次は自分が殺される番だって震えてるよ? 想像してみてよ!」
その声は、犠牲者への痛切な同情に満ちていた。神崎は、その真っ直ぐな眼差しから逃れるように、重く瞼を閉じた。結衣の言葉が、彼の脳裏に冷たい流れ作業のような映像を呼び起こす。
「あんた、男でしょう!」
結衣は畳み掛けた。彼女の声には、わずかながらも失望の色が滲み始めている。その言葉は、神崎の奥底に眠るであろう自尊心を呼び覚まそうとしているかのようだ。
「男なら、こういう時、どうするのよ! 見て見ぬふりをするの?」
「助けを求めている人がいるのに!」
「男、男ってな!」
神崎は顔をしかめて言い返した。結衣の感情的な圧力に、彼の表情には苛立ちと自己防衛の色が濃くなる。
「お前は、怖くないのかよ!」
彼の声にも、焦燥と恐怖が以前よりも露骨に混じっていた。彼は無関心に自分の両手を握りしめ、その関節はわずかに白んでいる。
「そりゃあ、怖いけど!」
結衣は真剣な顔を彼に向けながら涙をこぼしながら言った。頬を伝う熱い雫は、彼女の恐怖と決意が矛盾しながらも共存していることを示すようだ。
「だから、何だって言うのよ!」
「こんな状況で、彼女たちを見殺しにするつもり!?」
結衣の言葉は、鋭い刃物のように神崎の胸に突き刺さった。彼の呼吸は一瞬詰まり、顔には明らかな苦痛の色が浮かぶ。
「だから、警察に…。」
神崎は、まるで唯一の希望にすがるように、同じ言葉を繰り返した。彼の目は彷徨い、助けを求めるように部屋の様々な点をさまよう。
「警察なんかに言ったところで、信じてくれるはずないわよ!証拠もない、時間もない。そんな悠長なことをしている間に、彼女たちの命は…!」
結衣は、絶望的なまでの危機感を訴えた。
「こうしている間にも、彼女たちの死のカウントダウンは、刻一刻と進んでいるのよ!」
神崎は再び彼女から視線を外し、固く目を閉じた。彼の心の中でも、助けに行きたいという強い衝動と、危険を恐れる本能的な感情が、激しくぶつかり合っていた。拳を握り締め、歯を食いしばる。額には、冷たい汗が滲んでいた。
(くそ…!俺はどうしていつも……)
しばらくの沈黙が、重苦しい空気となって二人の間に漂った。その沈黙を破ったのは、結衣の、断固たる行動だった。彼女はゆっくりと右手を上げ、神崎に向かって、そっと差し出した。
その温かい感触に気づき、神崎はゆっくりと顔を上げた。
結衣の顔には、まだ涙の跡が残っていたが、その表情は、先ほどの激しさとは打って変わって、信じられないほど優しく、そして断固たるものだった。
その透き通った瞳に見つめられていると、神崎の胸の奥に、これまで感じたことのないような、温かい光が灯るのを感じた。それは、絶対的な信頼と、無条件の勇気が宿った眼差しだった。
(そうだ、俺はこれまでの人生で、いつも大事な局面で逃げてばかりだった……もう、そんな自分とは決別するんだ!)
神崎は、自分の弱さを痛感した。
そして、差し出された結衣の小さな手を、自分の震える手を重ね、力強く握り返した。その瞬間、温かい光が、まるで 器を満たす液体のように、結衣の手を通して彼の全身へと流れ込んでくるのを感じた。
同時に、これまで感じたことのないほどの平穏と、内面からの力が湧き上がってくるような感覚に包まれた。彼女の心強く、優しく、そして何よりも真剣な眼差しと、その不思議な光が、彼の背中を力強く押してくれたのだ。
「わかったよ。」
神崎の顔にも、以前のような苦悶の色はなく、穏やかな、しかし確固たる決意を宿した表情が浮かんだ。
見つめ合う二人の間には、言葉を超えた強い絆と、光に満ちた 希望が満ちていた。それぞれの胸には、犠牲者救出という唯一の目標に向けた、揺るぎない覚悟が刻まれた瞬間だった――。
第四話 完
第五話に続く
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