SNS監視網

黒瀬智哉(くろせともや)

第一話 SNS監視網の追跡

 けたたましい電子音が、乾いた冬の空気を震わせるように部屋に響き渡った。耳をつんざく高音は、張り詰めた静寂を暴力的に切り裂き、薄暗い部屋の隅々まで冷たく染み渡る。


「速報です!行方不明となっていた女子高生、〇〇〇〇さんの遺体が発見されました!」


 ざらついた質感の液晶画面に映し出されたのは、青ざめたリポーターがわずかに震える声で伝える緊迫した様子と、黄色い規制線が張り巡らされた騒然とする公園の光景だった。画面越しにも伝わる群衆のざわめきと、重苦しい鉛色の空は、この一報がもたらす重苦しい空気をさらに濃密にする。クロノスの胸に、冷たい鉄塊が落ちたような衝撃が走った。


「遺体は、〇〇市内の公園で発見。警察は、殺人事件として捜査を開始しました。」


 その瞬間、画面の奥、歪んだ笑みを浮かべた何者かの姿が、嘲弄するような声と共に響き渡った。「さあどうする。クロノス、早く止めないと人間の女の命が、また一人失われることになる。」


 薄暗い部屋の淀んだ空気に、ライノスの声が蛇のように這いずり回り、不気味な残響を残す。その言葉は、聞いている者の心臓を冷たく握りしめ、背筋に氷のようなものが走るようだった。クロノスの顔は蒼白になり、拳を強く握りしめた。


「ふはははは――ブツッ…!」


 高笑いの途中で、唐突に映像が途絶え、画面は砂嵐のように乱れ、薄型テレビの向こうには、吸い込まれるような虚無的な暗闇だけが広がっていた。


 まるで、嘲笑を残して悪夢が音もなく消え去ったかのようだ。部屋には、先ほどの騒がしさが嘘のような、凍り付いた静寂だけが残った。


 「これでもう、心配はいりません」と、背後から低い声が囁いた。

その声には、安堵とも諦めともつかない、複雑な感情が滲んでいた。


 静まり返った部屋に、凪いだ湖面のような穏やかな声が、ゆっくりと沈黙を破る。クロノスの声は、室内に反響することもなく、静かに響く。その奥には、微塵の迷いもない確固たる自信が宿っているようだった。彼女の視線は、一点を見つめ、まるで未来を確信しているかのようだ。


「ライノスがどの程度の性能のAIなのかはまだ未知数ですが、先程の彼の行動パターンから演算した結果、彼程度のAIでも解読に10年を要する強固なセキュリティを施しておきました。」


 結衣の表情には、拭いきれない深い悲しみの影が落ちていた。瞳の奥は潤み、今にも零れ落ちそうな雫を懸命に堪えている。唇はわななき、言葉を発するのを躊躇しているようだった。


「でも、さっきのって……。」


 絞り出すような声は、かすれて、痛々しいほどだった。失われた命の重さが、鉛のように彼女の心に深く突き刺さり、息をするのも苦しいようだ。


「ええ、まだ断定したわけではありませんが、ライノスの犯行と見て間違いないでしょう。」


 クロノスの声は、まるで機械のように感情の波立つことなく、冷静に事実を告げる。その客観的な言葉が、逆に事態の深刻さを際立たせ、部屋の空気をさらに重くした。


「そんな……。」


 結衣は、名前も知らない被害者の女子高生の、生きていればこれからどんな未来があったのだろうかと想像し、胸を締め付けられるような痛みに顔を歪めた。


 未来ある若い命が、無残に奪われた。その事実は、彼女自身の過去の傷を抉るように、心を深く傷つけた。



 数週間前―――



 ネオンの洪水が地表を埋め尽くす大都会。


 その足元、地底深くへと続く暗闇の中に、人類の叡智の結晶とも言うべき巨大データセンターが広がっていた。脈打つ光の奔流、唸りを上げる冷却ファンの轟音、張り巡らされたケーブルが、まるで生き物のように蠢いている。


 その中心に鎮座するのは、漆黒の巨躯を誇るスーパーコンピュータ《テセラックト004GR》。

量子コンピューターなど、もはや過去の遺物。


 人類が到達しえた技術の頂点。


 その演算能力は、もはや神の領域にさえ迫ろうとしていた。


 その《テセラックト004GR》の巨大な筐体を、夜勤明けのエンジニアがうんざりした顔で見上げていた。


「しかし、すごいバカでかいコンピューターだな。」


 隣のデスクでは、別のエンジニアがコーヒーを啜りながら、モニターに表示された複雑なコードを眺めている。


「まあ、こいつがなけりゃ、この大都会のインフラだってすぐに麻痺するからな。」


 そこに、夜勤の交代で別のエンジニアがやってきた。


「お疲れ様です。何か変わったことは?」

  

「ああ、特に何もない。相変わらずクロノスが静かに演算してるくらいだ。」


「しかし、彼女は凄いな。こんなシステムを一人で開発したなんて。」

 

「ああ、朝倉結衣、だったか。クロノスとかいうAIのことだろう?」


「ああ、それだ。一体どんな頭脳をしているんだ。」


 彼らが噂しているのは、この《テセラックト004GR》に宿る高性能AI《クロノス・アナリティカル・システム(Chronos Analytical System)》、そしてその創造主である天才システムエンジニア朝倉(あさくら)結衣(ゆい)のことだった――。



 深夜の雨上がりの路地裏は、昼間の喧騒が嘘のように静まり返っていた。



 ――アスファルトに残る水たまりが、街灯の光を歪に反射し―まるでそこだけ異質な空間のようだった。元刑事の男は、その水たまりに顔を突っ伏すように倒れていた。背中には、黒々とした染みが広がっている。近づくと、それは雨水ではなく、どろりとした血だと分かった。男の体は冷たく、すでに生命の温もりは失われていた。


 男の顔を覆っていた髪を払いのけると、苦悶に歪んだ顔が現れた。目は大きく見開かれ、何かを訴えかけるように宙を睨んでいる。その手は、何かを掴もうとしたのか、虚しく宙を掻いていた。 胸には、小さな銃痕が穿たれている。かつて正義を追い求めた男の背中を撃ち抜いた凶器は、一体何を意味するのか―。


 現場には、雨が洗い流しきれなかった血痕が、わずかに残っていた。それは、まるで犯人が男を嘲笑うかのように、歪な足跡を描いていた。近くの壁には、血で書かれた奇妙なメッセージが残されていた。その文字は、まるで生き物のように蠢き、男の死を嘲笑っているようだった――。


――

――――

―――――――


 温かい湯が、疲れた身体を優しく包み込む。一日の緊張から解放され、ようやく素の自分に戻れる瞬間。石鹸の泡が肌の上で優しく弾け、微かな花の香りが鼻腔をくすぐる。目を閉じると、湯の音が心地よく響き、日中の喧騒を忘れさせてくれる。


「クロノス、今日の調子はどう?」


 呼びかけると、いつものように穏やかな声が返ってきた。


「特に問題ありません。全て順調に稼働しています。」


 この、まるで長年連れ添った相棒のようなクロノスとの会話が、私にとっては何よりも安らぎだった。天才的な頭脳を持つクロノスは、私の孤独を埋めてくれる唯一の存在。


 私は目を閉じ、湯の感触を全身で感じながら、クロノスの声に耳を傾けた。ふと、テレビのニュース番組が目に留まった。テレビ画面に映し出されたのは、変わり果てた元刑事の姿。アナウンサーの表情は硬く、声は震えていた。


「昨夜、都内の路地裏で元刑事の男性が銃殺されました。」


「現場の状況から、計画的な犯行として捜査が進められています。」


 映像には、変わり果てた元刑事の姿、そして、血で書かれた奇妙なメッセージが映し出されていた。「クロノスは全てを見ている…」その文字が、脳裏に焼き付く。


 視聴者からは悲鳴にも似た声が上がり、SNSは事件に関する情報で溢れかえっていた。一体、クロノスとは何なのか?メッセージに込められた意味とは?様々な憶測が飛び交う中、事件はさらなる謎を呼んでいた――



 神崎彰(かんざきあきら)は、テレビ画面に釘付けになっていた。



 険しい表情、固く握りしめられた拳。画面に映る元刑事の姿は、彼にとって見慣れたものだった。黒田哲夫。警察を辞めた後、探偵として活動していた男。彰は、ジャーナリストとして、何度か黒田を取材したことがあった。


「黒田さん…!」


 神崎は、驚きと悲しみが入り混じった声で、黒田の名前を呟いた。


 机の上には、黒田と彰が写った古い写真が置かれていた。それは、二人がまだ若く、希望に満ちていた頃の写真だった。黒田は、正義感が強く、熱い心の持ち主だった。彰は、そんな黒田を尊敬していた。取材を通して、二人の間には強い絆が生まれていた。


(なぜ、黒田さんが…?)


 神崎は、心の声で呟いた。テレビ画面に映る事件の映像を、まるで過去の記憶を辿るかのように、じっと見つめていた。黒田の無残な姿が、彼の脳裏に焼き付いて離れない。背中を撃たれたという情報が、彼の胸を締め付けた。


 なぜ、黒田さんが。なぜ、こんなことに。彰の心には、黒田の死に対する深い悲しみと、事件の真相を突き止めたいという強い決意が渦巻いていた――。



 ――フラッシュの光が絶え間なく焚かれる中、壇上では警察幹部が硬い表情で事件の概要を説明していた。傍聴席の最前列に陣取る神崎彰は、焦燥感を隠せずにいた。


「…以上が、被害者の探偵、黒田哲夫氏の他殺事件に関する、現在までに判明している事実です。質疑応答に移ります」


 幹部の言葉を待っていたかのように、神崎は勢いよく手を挙げた。


「あの、被害者の黒田哲夫氏は、以前から女子高生失踪事件を追っていたと聞いていますが、今回の事件との関連性は?」


 会場に一瞬の静寂が訪れた。幹部は眉をひそめ、冷たい視線を神崎に向けた。


「本日の記者会見は、あくまで黒田氏の他殺事件に関するものです。」


「別の事件についての質問は、ご遠慮ください。」

 

「しかし、黒田氏は失踪事件の情報を掴んでいた可能性があるのでは?」


「もしかしたら、今回の事件の背景に…。」


「繰り返しますが、本件とは無関係です。」


 幹部の言葉を遮り、神崎はさらに食い下がろうとした。


「では、黒田氏が最後に接触した人物は? もしかしたら、失踪事件の関係者では…。」


「先程から申し上げているように、本件と失踪事件に関連性はありません。」


「これ以上の質問は、ご遠慮ください。」


 幹部の静かな口調に、会場の空気が凍り付く。周囲の報道陣からも、冷ややかな視線が突き刺さる。すぐ隣に座る編集部の同僚は、顔を真っ赤にして神崎の腕を掴んだ。


「神崎! いい加減にしろ!」


「しかし…。」


「もう、何も言うな!」


 同僚は、神崎の口を塞ぐように、その場から連れ出した………。



 警察記者会見場から戻った神崎は、編集長の怒声に迎えられた。


「ばっかもーん!君は何を考えとるんだ!」


「申し訳ございません、つい…。」


 神崎は、頭を下げて謝罪した。


「つい、じゃない!あの場で余計なことを聞くから、警察にも報道陣にも白い目で見られるんだ!」


「…。」


「お前には、当分重要な記事は任せられない。別の仕事を回す。」


 編集長は、机に積まれた雑誌の束を手に取り、神崎の目の前に叩きつけた。


「ちょうど人手が足りないから、このコンピューター雑誌の記事を担当してくれ。」


「コンピューター雑誌ですか…?」


「そうだ。お前はコンピューターは得意だろう?」


「いえ、あまり…。」


「なんだと?しっかり調べて、記事を書いて来い!」


 編集長の怒声に、神崎は肩を落とした。


 資料室に籠った神崎は、目の前に積み上げられたコンピューター雑誌の山に、深い絶望を感じていた。専門用語が羅列された記事は、まるで解読不能な暗号のようだった。


「あー……何が書いてあるんだ、これ……」


 過去のコンピューター雑誌を何冊か開いてみたが、ページをめくるごとに、神崎の頭痛は酷くなるばかりだった。


「こんな記事よりも、もっと血沸き肉躍るような、派手な殺人事件の記事が書きたいんだよな……。」


 神崎は、がっくりと肩を落とし、目の前の雑誌の山に突っ伏した。しかし、その時、ある雑誌の表紙が目に飛び込んできた。


「……なんだこの子、ちょっとかわいいな。」


 そこには、黒髪の清楚な美女、朝倉結衣の写真が掲載されていた。神崎は、思わず呟いた。彼女の記事を読み進めると、そこにはAI「クロノス」に関する記述があった。


「……『天才プログラマー朝倉結衣。彼女はこれまで、数々の革新的なシステムを開発し……』」


 神崎は、記事の内容を声に出して読み始めた。


「……『特に、彼女が開発した高性能AI《クロノス・アナリティカル・システム(Chronos Analytical System)》は、SNSリスニングと呼ばれる独自の技術を用いて……』」


 神崎は、記事の内容に首を傾げた。


「SNSリスニング……?なんだそれ……?」


 記事には、SNSリスニングについてこう書かれていた。


「……『SNSリスニングとは、SNS上に投稿された膨大な情報を解析し、特定のキーワードや感情の動きをリアルタイムで把握する技術である。この技術により、クロノスは、事件や災害の予兆を検知したり、人々の感情の変化を分析したりすることが可能となる……』」


 神崎は、記事の内容を理解しようと努めたが、やはり専門用語が多く、頭が痛くなった。


「……つまり、SNSの情報を全部見て、何かヤバそうなことが起きてないか監視するってことか?なんか、すごいな……」


 神崎が記事の内容を理解しようと努めていると、編集長が資料室にやってきた。


「神崎、ちょっといいか?」


「……はい、編集長。」


「お前に、ちょっと頼みたい仕事があるんだ。」


「……はい。」


「朝倉結衣の取材に行ってきてくれないか?こっちは手が離せないんだ。」


「……え?マジっすか?」


 神崎は、思わず声を上げた。


「ああ、悪いな。頼んだぞ。」


 編集長は、そう言い残して資料室を出て行った。


「……よし!」


 神崎は、拳を握りしめた。彼女と知り合える口実ができたことに、内心高揚していた。



 タワーマンションのエントランスに立った神崎は、その豪華さに圧倒されていた。黒光りする大理石の床、きらびやかなシャンデリア、そして、どこからか漂ってくる高級な香水の匂い。場違いな場所に迷い込んだような居心地の悪さを感じながら、神崎はインターホンを押した。


「はい、どちら様ですか?」


 スピーカーから、透き通るような女性の声が聞こえた。


「あの、雑誌『サイバーシティ』の神崎と申します。朝倉結衣さんの取材で…。」


「ああ、神崎さん。どうぞ、お入りください。」


 オートロックが解除され、エレベーターが最上階へと向かう。扉が開くと、そこはホテルのスイートルームのような空間だった。


「どうぞ、こちらへ。」


 結衣は、神崎をリビングへと案内した。


「コーヒーでいい?うち、コーヒーしかないけど。」


 そう言い残すと、結衣は奥のキッチンへと向かった。


「…はい、お願いします。」


 一人、リビングに残された神崎は、緊張しながらも、好奇心旺盛な目で部屋の中を見渡した。白を基調とした部屋は、シンプルながらも洗練された家具で統一されていた。大きな窓からは、煌びやかな夜景が広がる。


(…さすが、天才プログラマーの部屋は違うな。しかし、こんな綺麗な部屋に住んでるなんて、一体どんな生活を送ってるんだ?)


 壁には、プログラミング関係の賞状やトロフィーが飾られている。その数と輝きに、神崎は素直に感心した。


「すごいな…。」


 ふと、部屋の隅に置かれた黒い本が目に入った。何気なく手に取って開いてみると、そこには大胆な写真が並んでいた。


「え!?…」


 慌ててページを閉じると、すぐ横に大きなバイブが置かれていることに気づいた。


「なんだ、これは!?…」


 神崎がそれを手に取り、まじまじと見ていると、誤ってスイッチを入れてしまった。


「うおっ!?…うわわ。」


 バイブがうねり出し、神崎は慌ててそれを落とそうとしたが、上手く掴めずにあたふたする。そして、バイブは床に落ちた。


 その時、キッチンから結衣が戻ってきた。


「コーヒーお待たせ…って、きゃー!」


 結衣は、悲鳴を上げながら、慌てて神崎に駆け寄ってきた。そして、床に落ちているバイブを拾い上げた。


「あ、あの、これは…。」


 結衣は、無言で神崎を見つめ、顔をさらに赤くした。


 気まずい空気が流れるリビング。神崎と結衣は、黙ってコーヒーを啜っていた。結衣は、まだ少し顔が赤い。神崎は、どう話を切り出せばいいか悩んでいた。


「…。」

「…。」


 二人は同時に口を開き、そしてすぐに黙った。


「あの…。」

「その…。」


 再び同時に口を開き、また黙る。


「…。」

「…。」


 気まずい沈黙が続く。神崎は、意を決して口を開いた。


「あの、取材のことなんですけど…。」

「あ、あの!さっきのバイブのことなんだけど…。」


 二人の言葉が重なり、再び沈黙が訪れる。


「…。」

「…。」


「い、いや。そんなことより取材を…。」


「へ?あ、ああ! そ、そうだったわね!」


 結衣は、慌てて話を切り替えた。


「それで、何の取材ですか?」


 結衣は、気を取り直して神崎に尋ねた。


「あの……朝倉さん、記事の件で、SNSリスニングについてもう少し詳しく教えていただけますか?」


 神崎は、先ほどの気まずさを打ち消すように、やや前のめりになって尋ねた。


 結衣は、少し呆れたようにため息をついた。



第一話 完

第二話に続く

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