十二、矛盾
夏休みが終わり、定期テストや、高校生のメイン行事と言ってもいい修学旅行がつつがなく終わった。季節はすっかり秋の気配を匂わせてきており、清光との変わらない毎日を過ごしていた。
彼は目まぐるしく変わっていく同級生とは違う時間軸で動いているようで、一人だけ正道との時間を優先して過ごしている。そんな清光を咎める人はいない。なぜなら、彼に構っているほど暇な人間はいないからだ。まるで、彼だけ時間が止まっているみたいだ。
清光を含む三年生の卒業をようやく意識し始めたのは、生徒会長である昇坂が退任した時だった。ようやく、現実の流れが自分の生きている時間と合致した感覚がしたのだ。
正道は、そのまま生徒会の役員として残ることになり、役職は風紀委員となった。正道は、昂崎と波野から職務を引き継ぐため、連日生徒会室に顔を出していた。
昂崎は小さい体でテキパキと動いていた。波野は背が高いので、昂崎と並ぶと、どうしても動作が遅く見えてしまう。
「蔓ってさ、アイツとよく付き合えるよな。あっ、尊敬の意味」
資料をまとめている最中、昂崎が話題を振った。波野が怪訝な顔で昂崎を見ていた。
「あ……はい」
「アイツ、蔓と付き合っても浮気したってマジ?」
「ねえ、なんでそういうこと聞くの?」
波野が眉間にしわを寄せて、ファイルを少し乱暴に閉じた。昂崎はバツの悪そうな顔をして、小さな体をさらに小さくした。
「蔓くん、答えなくていいからね?」
波野はため息をつきながら優しく言ってくれた。正道は「はい」と苦笑いして言う。
「でも、事実なので……」
二人は頭痛に苦しむような顔をした。
「先輩がそういう性なのは、初めからわかっていましたし、受け入れていました。まあ、自分がそういう立場に回ることは想定外でしたけど、浮気現場を目撃したとき、ちょっと優越感みたいなのはありました。僕も少なからず歪んでいたので。先輩の完璧な面を敬いつつも、そういう人としての欠陥部分も好きだったので」
「はぇー……」
昂崎は感心したように大きく頷いた。
「でも、蔓くんはそういうタイプ好きじゃないんでしょ」
「そうですね」
今でも、浮気するような人は好きじゃない。でも、好きなタイプと、好きな人は違う。必ずしも一致しないのだ。これは、佐島が教えてくれた人間らしい矛盾。
「まあでも良かったじゃん。今は浮気してないし」
「はい、二度としないと約束してくれました」
二人揃って「約束できるんだ」と驚嘆した。
「人って変わるんだな」
「ねー、申し訳ないけど信じられないもん」
「満田の時は、私らがどんだけ言っても、聞かなかったのにな」
「本当にね。たぶん日延に『浮気するな、満田に謝れ』って言わなかった人いなかったんじゃない」
「マジそれ」
――そうなんだ。
二人が盛り上がっている中、正道は過去の清光がなぜ浮気をしてしまったのか、疑問に思った。今年、誕生日パーティに出席した清光は、笑顔で帰ってきた。パーティのこともたくさん話してくれたし、愛着の承認も満たされていたはずだ。
「あの、一昨年の清光先輩は、誕生日パーティから帰ってきたとき、不機嫌でしたか?」
二人は互いの顔を見て首を傾げた。
「さあ……不機嫌だったか? 帰ってきたとき、普段通りだったと思うけど」
「うん、私もそう思う」
「兄に嫌味言われた可能性はあるけど、普段から受けているしな」
「そうそう」
「つまり、今と変わらなかったと……」
二人は揃って「うん」と頷いた。
「どうして、清光先輩は、浮気をしてしまったんですか? 聞く限りじゃ、さほど今と状況は変わらないように思います」
満田と付き合っていた時も、浮気はバレていた。追及された清光は、満田を避けていた。そして満田は心を壊し、清光から距離を取った。状況的には、正道のパターンと同じだ。違うとすれば、浮気することを許し、追及しなかったことと、彼の誕生日を祝わなかったことだ。
昂崎は苦笑いした。
「頭おかしいんだよ」
「コラ、そういうこと言わない」
波野は昂崎をキッと睨みつける。昂崎は無視して話しを続けた。
「……好かれているか、確かめたかったんじゃないか。アイツ、嫌われていたし。満田は本当に優しい奴だった。太陽みたいに明るくて、海と同じくらい心が広くて、雲のように繊細だった」
――確かめたかった……。
あの時、清光は嫌われてしまったと錯覚したのかもしれない。
「……わかります」
「会ったことあるのか」
正道が頷いたことに、二人は驚く。確かに客観的に見れば、元カレに会いに行くというのは異常な行動だろう。
「良い人ですよね。言われました。僕となら長く付き合っていけるんじゃないかって」
「私もそう思う」
波野は力強く頷いた。正道は力なく微笑んだ。今では、自信がなかったからだ。
「ありがとうございます」
自信がないことを察したのか、昂崎が若干前のめりになった。
「……何かあったらすぐ言いなよ。すぐ飛んでいくから」
「そうだよ! いつでも相談に乗るから!」
胸の辺りがムズムズした。素直に応援してもらえて嬉しいのだ。
「一応話しておくか。学校で問題なったアイツの迷惑な話をさ」
「そう、だね」
それから二人は、作業の続きをしながら、清光の女癖の悪さと、寮での揉め事などを、残っている記録を引っ張り出してきながら、話してくれた。
「まずは常習だったことな。外出届を出さず、外泊していたことがマジで多かった。一週間に一回はあった。高校一年生にしてはあるまじき不誠実さ」
「その外出先は十中八九女性の家で、全員学生だったよね」
波野は濁しているが、外泊先が年上の女性だということはすぐに察した。おそらく一人暮らししている大学生だろう。
「そして授業には出ない。それで成績維持しているの、バケモンだったな。教えてもらってたんだろうな」
「おそらくね」
「寮の当番もサボってたな」
「いないからね」
「あー、そうそう。寮生との諍いも絶えなかった。特に灘。相性最悪だったな~」
「え、そうなんですか?」
波野が苦虫を嚙み潰したような顔で言う。
「だって、風呂もトイレも、掃除しないくせに掃除中に使ったり、ゴミの分別守らなかったりしてたもん。共同生活向いてなさすぎ。今は改善したけど、最悪だったよ」
意外過ぎるエピソードだったが、なんとなく「お金持ちだから、やったことがない」という結論に達して勝手に納得した。
「ずっと満田が世話してたし、教えていたよな。救いがあったのはそこだわ。ルームメイトが優秀だったってこと。みんな満田に感謝しかなかった」
「そしてその満田が……」
二人は口を閉じた。その先は、正道も知っていることだ。清光は、満田に精神的苦痛を与えた挙句、問題を放棄し、日常生活が送れなくなるほどの影響を及ぼした。
「満田さんは、学校に通えなくなったのに、清光先輩を責めなかったんですか?」
「そういう状況じゃなかった。満田は、まともに会話できなくなっていたんだ。それでなんとか灘が満田の元に通って、清光のことをどうするか話し合った。最終的に問題にしないって結論になって、満田の優しさで、アイツは一ヵ月の謹慎処分を受けただけで済んだ」
「満田はその間にさっさと荷物をまとめて寮から出て行って、別の学校に転校した。日延が謹慎処分を受けている間は、もっと地獄だったね。日延と関わりのある女性たちが、学校に電話やメールをしてきて、私たちまで対応に追われたんだから」
「その間、アイツは珍しく言うこと聞いて、部屋から一切出てこなかったけどな。なんとかしろよって思ったね」
そして謹慎が明けた清光は、本当に大人しくなり、正道が入学してくるまで誰とも付き合うことはなくなった。晨星学園に殺到していた電話やメールは、学園長が直々に手を回したおかげで、三日でぱたりと止んだそうだ。
話し終えた昂崎は、黙って聞いていた正道に笑みを向けた。正道は昂崎を見つめ返した。
「正直言っていい?」
「……あ、はい」
正道は、姿勢を正した。
「みんな頭おかしいから。人には許せて、自分には許せなかったり、可哀想だと思っているのに、その立場を代わってやろうとはしなかったり。でもそれって、自分の中にある許容できる領域を、どうにか守ろうとする防衛反応なんだよ。言い訳に聞こえるかもしれないけど、そういう……そう、プライド」
正道は、腹の中に落ちたその言葉を、口に出した。
「――プライド」
昂崎は頷いた。
「面倒だよな。でも、ずっと付きまとっていくもんだし、役に立つときはあるからさ、無理するなよ」
昂崎のおかげで、自分が無理していることに気がついた。誰かの役に立とうとしたり、人に対して誠実でいようとしたり、自分の失敗を素直に認められなかったり。この頑固な感情を囲っている分厚い壁は、プライドだったのだ。
ずっと暗闇を歩いていると思っていた。これからも、自分の前を飛ぶ一匹の蛍を追いかけて、光のない道を追いかけ続け、光り続ける蛍に届かない悔しさを募らせながら生きていくのだと思っていた。
――清光先輩以外を見ても、いいのかな。
自分にとって、特別な光は、世の中にたくさんある。蛍を追いかけ続けてばかりいたが、少し道を外してみるのもいいかもしれない。
生徒会の引継ぎが終わり、期末テストも終わった。二学期も終盤に差し迫った頃、今年もクリスマスパーティの話題が出た。正道は今年も参加しようと乗り気だった。
しかし、清光は露骨に嫌がった。
「……それ、去年も参加してたよな?」
「は、はい……でも、友達だから」
「俺がいるじゃん」
「だから、クリスマスの日は外します。みんな恋人いるし……予定がある人もいるので。終業式の日にするんです」
「ナオさ、俺が友達にも嫉妬するって知ってるじゃん」
清光の顔を見るのが怖くなって、正道は下を向く。
「だいたいこの学校で友達って……信用ないだろ」
唾を静かに飲み込んだ。目に熱が溜まっていく。
「俺が参加するならいいけど?」
正道は深呼吸をし、笑みを作って顔を上げる。
「わかりました」
正道は翌日、クラスメイトに清光のことを相談した。案の定、佐島やクラスメイトは、あからさまに作り笑いをして遠慮した。正道は、クラスメイトに謝罪し、クリスマスパーティの欠席を告げた。わざわざクラスメイトに言わなくても、想定通りの結果だったが、一応清光が提案したことを相談した実績は欲しかったので、意味のないやり取りをした。おかげで、心に冷たい風が強く吹いた。
その日の夜、清光に受け入れられなかったことを報告すると、清光は興味のない返事をして、急に年末年始は家に来ないかと誘ってきた。
「ナオ、家に帰らないんだろ? なら俺の家に来てさ……」
「いえ、今年は帰ります。有り難いですけど……先輩の家は緊張しますし、そういうのは……僕が卒業してからでも遅くないのでは?」
清光は軽く思案した後、パッと笑みを咲かせて「それもそうだな」と納得した。
本当は帰るつもりはなかったが、この際だから現実から離れるために実家に帰ろうと、正道は決意した。
自分の部屋に戻り、今日の無茶な提案について佐島に謝った。佐島は苦笑いして「いいよ」と許してくれた。
「残念だけどさ、カップルなんだから仕方ないよ」
今まで感じたことのないプレッシャーを感じ、椅子に座っている佐島に近づいて強く反論してしまう。
「でも、綾也の友達はカップルでも、みんなで会うんだよね」
佐島は顔を強張らせて、困った顔をした。
「そ、それはそうだけど……こういう価値観は、人によるから」
「僕は、綾也とパーティも、年越しも……したかったよ」
この部屋には、二人しかいないから。唯一の、心を許せる友人だから。矛盾さえも受け止めてくれる人だから。プライドを外して、気持ちを吐露した。
佐島は困った顔をしたまま、笑みを浮かべた。
「嬉しいけど、恋人優先だろ?」
――プライド。
佐島からの、明確な線引き。こちらはプライドを外して本音を言ったのに、領域を分けられてしまう。
正道は、口角を少し上げた。瞼には熱が帯びていく。
「……そうなの?」
「……正道?」
――清光先輩は、自分の都合を優先するのに?
いくら気を許した友人でも、自分以外には優しくしてほしくなかった。しかも、少なからずよく思っていない相手には。自分の前だけでも、プライドを取っ払って、友人としてのポジションを主張してほしかった。
「力が強いほうが、なんでも優先されるの?」
「え? どうした、正道」
顔を背けたが、涙は止まらなかった。体は震え、手や腕は無意識に涙を払う。
佐島が立ち上がって背中をさすった。何度も、「大丈夫か、ごめんな」と言う。
「謝ってほしいわけじゃ、ない」
「うん、うん」
佐島は正道を抱きしめた。
この状況を清光が見たら、発狂するかもしれない。それでも佐島を突き飛ばすことはできなかった。彼との友情を突き飛ばしたくなかった。
「正道、ありがとう。俺も嬉しい……一緒にパーティも年越しもしたかった」
息を吸って、呼吸を落ち着かせる。涙を拭って佐島と顔を合わせた。佐島は笑っていた。まるでわがままな弟の話に付き合ったみたいに、眦を下げていた。正道はムッと口を尖らせる。
「……来年も、友達でいて」
佐島は「ははは」と笑った。正道もつられて笑う。
「……もちろん。絶対に友達だから!」
佐島は、太陽みたいだ。実際、彼の体は熱い。朝は起きるのが苦手だけど、ご飯を食べれば誰よりも元気で、人の暗い部分に引っ張られることなく明るさを保ち続けている。太陽だから、きっと人の涙も乾かしてしまって、多少の冷たい言葉も気にしないでいられるのだろう。
彼と出会わなければ、きっと、太陽の眩しさに耐えられなかった。
清光とのクリスマスは、去年とは打って変わって、陽が沈んでも眩い光の中にいた。彼の用意したクリスマスディナーは、緊張して味はわからなかったし、寒空の下で見た夜景は綺麗だったけど、空から消えた星に切なさを感じた。去年もらった赤いマフラーは、ほとんど車移動したせいで役には立たなかったし、用意したクリスマスプレゼントは、満点の笑顔つきの「ありがとう」の一言で済まされた。そして最後は、恒例のキス。
いつもと変わらないデートだった。
年末になり、清光に宣言した通り、久しぶりに実家へ帰った。両親は温かく迎えてくれた。晩御飯を食べながら近況を聞かれたので、なんの面白みもない成績のことを淡々と報告し、水溜りに張った薄い氷を踏むような好奇心で、付き合っている人がいるということを正直に話した。反応は意外と、静かだった。むしろ安心しきった顔をしていた。
「男同士だって、嫌がらないの?」
両親は揃って首を振る。
「戸惑いはあるが、正道は成績も落ちていないし、バイトだって頑張っているじゃないか。俺は誇らしいよ」
「そうよ。そこまでしっかりしているのに、これ以上言うなんてありえないわ。寮に入って良かったね。あの学校を選んで良かったね」
一年の頃を思うと、罪悪感で胸が押し潰されそうだ。正道は箸を置いた。
「……父さん、母さん……ごめんなさい」
二人は揃って「え?」と言う。正道は唾を飲み込む。
「しんどいんだ。付き合っていくのが……」
「どうしたの⁉」
「何か言われたのか? されたのか?」
二人は若干腰を上げて、眉をひそめた。
「父さんと、母さんはどうやって結婚を決めたの?」
「結婚⁉ 正道は、その人と結婚したいの?」
目まぐるしく変わる話題に、母親の声色も変わって忙しかった。正道は首を横に振る。
「…………したくないよ」
また、「え?」と声を揃える二人。
「どうしたらいいんだろう……」
その後、沈んでいく心をなんとか落ち着かせようと、両親は必死に正道を慰め、励ました。もうすぐ年が明けるというのに、全員に心残りしかなかった。結局、正道が「大丈夫」と何度も言うことで事は落ち着いたが、解決はしなかった。
翌日、心は追い付かないまま、新年を迎えた。両親は昨日のことなんてなんでもなかった風に振る舞いながら、新年を祝った。お節を突きながら、正月番組をボーッと聞いていると、父親が話しかけてきた。
「正道、どうする? 今日戻るのか?」
長居しても良かったが、自分が帰る時に電車が混むのは嫌だった。帰ってきた時の電車も混んでいたので、昼頃には家を出たいと思っている。
「……うん、そうしようかな」
父親は「そうか」と言ったが、顔はとても寂しそうだった。申し訳ないと思いつつも、考えを変える気はなかった。
昼御飯を少し食べて、荷物をまとめて一時頃、玄関から外に出た。外は新年に相応しく、雲一つない青空が広がっていた。太陽さえも新しく変わっているみたいにピカピカしている。
両親も一緒に出てきた。顔色は暗かった。父親が、口を開いた。
「正道、ずっと教えてこなかったな」
「何を?」
互いの口から白い息が出る。父親の顔は、寒さ故か少し強張っていた。
「どうしたらいいのかわからなくなったときだ」
正道は一度、ゆっくり瞬きをする。
「……教えて」
初めて、親としてではなく、人生の先輩として教えを乞うた。
父親は晴れやかな笑みを作った。さっきまでの暗い雰囲気が、吹っ飛んでいくみたいに。
「とりあえず、明るいところに出るんだ」
「……え」
やけに抽象的な表現だなと、意外に思った。少し残念にも思った。だけど、父親の表情はいつになく楽しそうで、ちょっと聞いてみようかなという気になれた。
「空が明るければ、太陽のあるほうに。雲があるときは、明るい声がするほうに。夜は月が見えるところに。森だったら、蛍のいるところだ」
「何それ」
急にポエムを諳んじ始めて、恥ずかしくなってきた。だが、父親自身はなぜか誇らしげでいる。
「顔を上げなさい」
「そうよ。できないことばかり数えないの。あなたはもう素敵なものをたくさん持っているでしょ。自分が成長したことを自分でちゃんと褒めなさい」
母親が抽象的なことしか言わない父親に変わって、現実的なアドバイスをしてきた。おかげで、肩の力が抜けた。
「父さん……母さん……」
「お前はもう、立派な息子だ。もう誰かの背中を見て、悩む必要なんてないんだ」
清光の顔が浮かんだ。浮かんだ彼の顔は、初めて会った時に感じた、自信満々の不敵な笑みだった。彼に憧れるのも無理はなかった。圧倒的なビジュアルから、見劣りしない能力。懐には容易に入り込めるのに、細やかなプライドが人との格差を作る。
付き合っていくうちに欠点を知って、対等になれた気がした。その欠点も愛おしく思えた。許せる自分を誇らしく思った。
――でも今は……。
気がつけば、劣等感まみれ。彼の誠実さを許せなくなっていた。
――父さんの言う通りだ。
「ありがとう……本当に」
両親に言われて、気づくことができた。自分の行きたい先、なりたい者。もう、清光という完璧な存在を無理して追いかける必要もないのだ。
母親が両手で拳を作って、胸の前に上げた。
「自分を信じて。大丈夫よ」
「はい」
返事をすると、満足そうに微笑む。隣にいる父親は、右手を上げた。
「いってらっしゃい」
「いってきます」
正道は両親に手を振って、実家の敷地を出た。先程父親に言われたように、なるべく影を踏まないように駅へ向かう。足取りは軽かった。空を見上げると、ちょうど自分の真上に太陽があった。
駅で電車を待っている時は、耳を澄ませて音を聴いた。駅のアナウンス。鳥の鳴き声。遠くの方で聞こえる子どものはしゃぐ声、階段を上る足音。自動販売機でペットボトルが吐き出される音。車道を走る自動車やバイクの音。そして、電車がやってくる音。
電車に乗った後は、わざと陽が当たる場所に座った。座席は温かかった。車窓を流れる景色を追わず、進行方向を見続ける。
世界は、明るくて、輝いていた。
冬休みが明け、朝のホームルームで卒業式の話が出た。去年と同様、卒業式の準備期間に入ったからだ。教室の空気は、去年と違ってかなり重たい。三年生の中には、恋人がいる人も多いからだろう。あと三ヵ月もないと思うと、心が追い付かないのかもしれない。そのせいか、先にあるバレンタインについて話している人が多かった。
「今年のバレンタインは、どうする?」
「受験でそれどこじゃないだろ」
「今月末にやればいいんじゃね」
「さすがに二月は入っとかない?」
「でも節分あるじゃん」
「節分潰せよ」
「節分はやらないと!」
「じゃあ豆にチョコ掛ければいいじゃん」
「鬼を舐めすぎだろ」
クラスメイトの賑やかしい会話を聞いていると、佐島が頬を緩ませながら見つめてきた。
「何?」
「え~、正道は今年のバレンタインどうするのかなって」
「あー……準備してあるよ」
佐島が瞬きを数回して、目を丸くした。
「既製品だけど、なんかオシャレなやつ」
「なんだ、てっきりまた相談してくるかと思ったのに」
「……もう迷わないよ」
「そう?」
「佐島には浮いた話ないの?」
佐島は肩をすくめて、大袈裟にため息をついた。
「ないね」
「やっぱ、年下か年上狙ったほうがいいんじゃない」
「え、なんで?」
「お兄ちゃんっぽいから」
佐島はガクッと肩を落とした。そして、急に自分の顔を揉みだした。もちろん、因果関係はない。顔つきのことを言われていると思ったのだろう。笑いを耐えるのが大変だった。
それから、あっという間にバレンタインがやってきた。去年と同様、清光の部屋に向かった。清光は扉を開けてすぐ、正道を中に引っ張り込んだ。鼻腔にラベンダーの香りが広がった。
そして正道は、清光が紅茶とケーキを用意している間、チョコレートの入った紙袋をテーブルに置いて、ベッドの脇にある本棚の一番端に指を差し込んだ。そこには、自分が去年の誕生日に差し込んだ、清光からの手紙がまだあった。彼は、気づいていないのだろう。ここに自分が書いた手紙が差し込まれていることを。
清光は紅茶とケーキを運んできた。正道は手紙を本棚からは出さず、テーブルに向き直った。
「どうした? なんか、借りたい本でもあった?」
清光が右隣りに座り、ベッド脇の本棚を視線で舐めた。
「いえ……」
正道は、ショートケーキを取って、傍に引き寄せた。
「先輩って、あそこに並べてある本、読み直すことはあるんですか?」
「う~ん……ねえな。入れ替えることはある」
正道はいただきますと言って、ケーキにフォークを入れ、口に運んだ。相変わらず、スポンジの舌触りが絶品だ。生クリームも上品な甘さで、イチゴの存在感を引き立てている。これが来年度からは食べられないと思うと、少し口惜しい。
「卒業するとき、本はどうするんですか?」
「家に持って帰るけど。いる? 好きなだけ持って行っていいよ。会う口実になるし」
清光は眼鏡の奥で、目を細めた。
「いえ……先輩なら手離しちゃうのかなって思ったので」
清光は正道の腰に手を回し、密着した。正道の右肩は、清光の頬を支える。
「俺はこれから先、何も手放すつもりはない」
正道は黙ってケーキを口に運んだ。ケーキは飲み込むたび、味が薄くなっていった。それは、考え込んでいたからだ。清光が卒業した後のことを、想像していた。しかし、何も浮かばなかった。白い大きな紙を渡されて、世界地図を描いてみろって言われているような、そんな気分だった。
「そうだ、ナオこれ」
紅茶を飲んでいると、清光が赤い薔薇を一本渡してきた。去年と同じだ。正道は「ありがとうございます」と言って受け取った。
「僕はこれを」
正道は流れるように紙袋を渡す。清光は顔を綻ばせ、「ありがとう」と言った。
「大事に食べるわ」
「既製品ですけどね」
「そういうこと言わなくていいから。俺だって、種から育ててないし」
「そういえば、薔薇が好きなんですか?」
「え? まあ……綺麗だし、派手で印象残りやすいだろ。あと、花言葉とか……」
恥ずかしいのか、だんだん口ごもる彼の様子を見て、口角を上げた。
「もしかして、薔薇嫌い?」
「好きでも嫌いでもありません」
「あっそう」
清光は、口を尖らせた。
「印象に残るっていうのは、確かにそうですね。今後……薔薇の花をプレゼントする人なんて、現れないと思いますし……唯一無二な先輩にぴったりだと思います」
赤い花弁をじっくり観察しながら言うと、彼は少し機嫌を直してくれた。
「ナオの好きな花は?」
「え?」
「薔薇以外で好きな花」
ふと浮かんだのは、藤だった。藤奏のことじゃない。藤という植物のことだ。ただ、浮かんだからと言って、好きかどうかはわからない。
「……ラベンダーですかね。良い匂いするから」
清光は、正道にキスをした。突然のことで身体が固まる。至近距離で彼と目が合った。瞳には、呆けた顔をする自分が映っている。
「本当に、沼だな」
ただ、数少ない知っている花の名前を言っただけ。清光と言えば、ラベンダーの匂い。そういう方程式が頭にあったから、言っただけ。それだけなのに、彼は大好物を目の前にした小学生みたいに喜ぶ。単純だけど、扱いづらい。それでも、注がれる愛は純粋無垢で、受け取る分には気分がいい。
清光はもう一度、正道と口を重ねた。その後、すぐにラベンダーの匂いに包まれた。
それから一週間後、学校であるジンクスが流れた。卒業するまで相手とお揃いのアクセサリーを身に着けると、関係が永遠になるというものだ。
正道は去年のことを思い出した。バレンタインは若干揉めて、その数日後にそのジンクスが流れて、指輪をもらったクラスメイトを羨ましいと見つめていた。彼はあれからジンクス通り、二歳上の彼氏とうまく付き合いを続けている。
教室でジンクスについて盛り上がっている最中、携帯にメールが入った。清光からだった。今日も、部屋に来ないかという誘いだ。正道は承諾の返事をして、クラスメイトの楽しい話題に混ざった。
生徒会の仕事が終わり、アルバイトに行くまでの一時間を、清光との時間に捧げるため、正道は三年生の寮に向かった。清光は相変わらず、紅茶とケーキを用意していて、正道を隣に座らせた。
「僕、あと四十分くらいしかないんですけど」
腕時計を見て言うと、清光は生クリームの乗ったプリンを正道の前に差し出した。正道はいただきますと言って、スプーンを取った。生クリームを口に入れた瞬間、いつもケーキを作ってくれているパティシエのものだと気づいた。少し硬めのプリンと、ふわふわな生クリームの相性がいい。下のカラメルも、絶妙な苦味を効かせ、全体のバランスを整えていた。
――美味しい……。
プリンを黙って堪能していると、清光がプリンから意識を奪うようなことを言った。
「ナオ、指輪いる?」
「え?」
味わおうとしていた舌の上のプリンを、咀嚼せず飲み込んでしまう。だけど、それよりもショックな光景が目の前に広がっていた。清光が気恥ずかしそうにしていたのだ。
「流行っているんだって。卒業式に渡すと、関係が永遠になるらしい」
――そういうの、乗ってくるタイプだっけ……。
「そうなんですか。だからみんな指輪を……」
冷静になろうと、ジンクスのことを今知ったみたいに装った。手に汗が滲む。心臓の脈も速くなっていく。
清光が顔を近づけた。耳や頬が赤く、リムレスの奥にある瞳が、月光を受けた海面のように静かに揺れている。
「ナオはそういうの好き?」
彼は、不安そうにしている。断られることを怖がっている。いつもの自信が、今日だけはどこかに落としてきたみたいだ。
――なんか……違う。
彼はキスも、身体に触れるのだって、許可を取らない。友人と立てた計画も、お構いなしに自分の予定に被せてくる。だから、たったアクセサリー一つに、自分の意思を求められ、非情に違和感を覚えた。
「そういうのは、もっと先にしましょうよ。僕が卒業したときにでも」
思考を素早く回転させ、無難な答えを返した。肯定とも否定とも取れる、自分の意思がない回答だ。
清光は少し寂しそうな顔をしつつも、頷いて笑みを見せた。
「そうだな。それに俺たちにはそんなものなくたって、永遠だし」
「そうですね」
正道は微笑んで、プリンに手を付ける。すると、清光がプリンに負けないくらい甘い言葉を呟いた。
「ナオ、大好き」
思わず清光の顔を見る。いつものあらゆることに自信満々な彼に戻っていた。正道はほっと息を漏らした。
「……はい。僕も」
彼はプリンを食べなかった。気分じゃなかったのかもしれない。もしくは、回答を間違えたか。
それでも、指輪を欲しいと言わなかったことに、後悔なんてなかった。
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