第2話 父との別れ

 結婚して数週間が過ぎた。兼家は仕事と物忌み以外の日は毎日姫君のもとを訪ねていた。もう結婚したのでこれからは姫君のことを女と言おう。すぐに通いが絶えてしまうかもしれないと不安だった女は、兼家の態度に少し安心していた。その日は女の邸が物忌みになったため、忌みを避けるため侍女を引き連れて他所に仮住まいすることになった。移った家は小さい家で京にごく近い山を少しだけ入ったところにあった。いつもの邸の方へ連絡した兼家は、女が仮住まいしていると知りそこを訪ねてきた。仮住まいの家は調度なども十分に揃わず何かと不都合なうえに狭かったので、結婚したての熱い夫婦の営みの様子が隅の方に控えていた侍女たちにまる聞こえだった。女は恥ずかしさのあまりじっと息を殺すようにしていた。翌朝、兼家から、

『いつも忙しくて今日くらいはあなたのところでのんびりしたいと思っていたのに。迷惑そうだったから早々に失礼したよ。どうしている?まるで山に隠れてしまったようだね。』

と手紙を送ってきた。返事には歌だけを書いて撫子の花を添えて送った。


『思いがけない垣根に折れば撫子の 花に露はとどまらないのね』


 九月になった。それまで兼家は女のもとに毎日のように通って来ていたのに、二夜連続で来ない日があった。女はもしかしたら来るかもしれないと待ち焦がれて眠れないまま一人の朝を迎えた。早朝に兼家から手紙が来た。今夜もまた来ないつもりなのかしらと思い辛くなった。すぐに返事を書いて、


『消え入りそうで露も乾かぬ袖の上に 今朝は時雨まで降っているわ』


と歌を添えた。兼家は仕事や人付き合いでの宴席に出かけることが多く多忙だったが、女が寂しがっていることを心配してできるだけ行こうとしていた。それでもどうしようもなくその日は仕事で朝になってしまったのだった。手紙を書いて少し仮眠をとっていると、女から歌が届いた。すぐに返事を書いて送った。


『君を思う心が空になったから 今朝は時雨が降っているようだ』


手紙を出すとすぐ着替えて女のところに出かけて行った。

 兼家はやり手の若い政治家で多忙を極めていた。最初の妻の時姫のところではたまにしか通ってこなくなったと心を痛めていた。やっと歩き出した幼い子のお世話をしながら悲しみを紛らせていた。兼家にしてもあまり何日も行かないわけにいかないと時折は時姫のところも通っていて女のところに行けない日もあったが、時姫のところにいても心は女のことを考えていて上の空だった。降っている雨を眺めているとたまらなく女に会いたくなって、こっそり『今夜はきっと行くよ』と手紙を書いて送った。その手紙を受け取った女は本当だろうかと半信半疑だったがすぐ思いを歌に詠んで送った。


『柏木の森の下草暮れごとに 待てというのか雨が漏るのに』


と柏木とは兼家の勤める役所の兵衛の異名だ。守ると約束したのに心細くて泣いている女を思うとたまらなくなり急いで支度して出かけようとした。

「あなた、どちらへ?」

「急に仕事で呼ばれて行かなくてはならなくて。」

時姫は女のところの使者が夫に手紙を運んできたのを知っていたのでどうせ女のところに行くのだろうと思ったが、悲しみを隠して、

「いってらっしゃいませ。お仕事頑張ってくださいね。」

「あぁ。またすぐ来るよ。」

後ろめたい気持ちで逃げるように時姫宅を後にした。

 女の家が物忌みになり数日間二人は会うことができない時があった。女とできるだけずっと一緒にいたいと思う兼家は、会いたいのに会えないのが辛くてならないと長々と手紙に書き綴った。歌が添えられていた。


『夢だけでも会いたいと裏返した衣の上に 涙だけでなく時雨まで降る』


なぜ兼家はこんなに女に夢中だったのだろう。女が美しかったかもしれなし、女の家が上品で趣味が良かったかもしれない。会話に知性があって歌のやり取りをするのが面白かったからかもしれない。確かに最初の妻とは違ったセンスの良さと気品があった。穏やかに応じる態度の中に強い芯のようなものがあった。一緒にいて手応えがあったし、面白かった。


 倫寧は秋の除目で正式に陸奥の守に任命されていたが、十月にいよいよ陸奥へ下向することとなった。陸奥は辺境の地でまだ未開拓の土地がたくさんあり、それらの土地を支配下に置くことを朝廷から大いに期待されていた。また辺境の地で力をつけている豪族を見張る役割もあった。中央政界で出世の望めない倫寧にとってこの人事は大きな躍進だった。何より倫寧が喜んだのは、陸奥は大国で実入りが多く経済的に潤うということだった。それは落ちぶれてしまった身分を補って余りあるものだった。旅立ちには多くの家来や使用人を伴って、相当な賑わいぶりだった。小さな子を持つ若い妾の乗る美しい女車もあった。出立にあたっては倫寧の別邸に各々集合してそこから列をなして出かけることになっていた。

 兼家の妻となった女の邸はもともと母方の家で、父の倫寧の主な住まいになってはいたが通っているという形だった。それでこの邸の使用人たちはそのまま京に残ることになっていたが、夫が陸奥に従者として行き離れ離れになる侍女も何人かいた。嬉しい中にも涙が出そうなのを堪えている姿があった。初冬の空の景色はあまりにも侘しく悲しかった。それが愛しい人と別れなければならない人々の悲しみをいっそう濃くしていた。女は兼家とまだ打ち解けるというほどの関係ではなく、何かと頼りにしていた父と離れるのはひどく辛かった。

「僕がいるんだから、安心していて。もっと僕を頼るといいよ。」

会うたびに女が泣いてばかりいるので、兼家は言葉を尽くして慰めたがまだとても安心できるような関係ではなかった。


 いよいよ今日が出立という日、倫寧は妻子に最後の別れをした。母君は京に残ることが決まっていた。夫が若い妾を伴っていくことも承知していた。成人した子供達のお世話をするために自分が京に残ることは妻として母として当然なことと考えていた。それにしても地方官とは落ちぶれたものだと、王家の血筋を引く母君は内心思っていた。しかも夫が妾を伴っていくことも面白く思っていなかった。子供達と家を守ること、その役目を果たすことで母君は自尊心を保っていた。倫寧は他の息子や娘たちと別れを済ますと、最後に女の部屋にやってきて、

「今回の晴れがましい出立は、すべてお前の手柄だ。父がいなくても素晴らしい夫君がいるのだから、安心して暮らしなさい。」

「まだ結婚したばかりでとても安心などできないわ、お父様。」

そういうと突っ伏して声を上げて泣き出した。父も溢れる涙を拭いながら何も言うことができずにいた。

「出発のお時間が過ぎております。」

と従者に促されたが立ち上がることもできずにいた。泣きながら黙っていた父君はおもむろに傍にあった文机に向かって何か書き始めた。女は何をしているのだろうと少し起き上がると、父君が書き上げた手紙を巻き上げて硯箱の中に入れているのが見えた。父君は目にまた涙が溢れてきて、顔をくしゃくしゃにしながら出ていった。何を書いたのだろうと女は気になったが、すぐには見る気がしなかった。しばらく門のところで見送ろうと集まっている人々で賑わっていたが、倫寧の一行がすっかりいなくなると家の中が静かになった。女は悲しくて泣いてぐったりしていたが、父の手紙が気になって気を取り直して硯箱を開けてみた。父が書いた手紙には歌が書いてあった。


『君だけを頼りに旅立つ心には 行く末遠く思われることです』


あぁ、あの人に読んでもらおうと書いたのだわと思ったら、またわっと涙が溢れてきた。元通りに手紙を硯箱に戻すと、少しして兼家がやってきた。女は泣き腫らした目を隠すように袖で顔を覆いうつむいていた。

「どうしたのだ。こんなことよくあることなのに。そんなに悲しむとは、僕を信じていないのだろう。」

とあれこれ慰めていた。女のために歌でも書きつけようと兼家は硯箱を開けると中の手紙に気づいた。

「不憫な。」

と言って、出立のために集まっている倫寧の一行のところに手紙を送った。


『我のみを頼むというなら行く末の 松の契りを来て見てほしい』


こうして女は父が遠くにいってしまって、娘時代の生活がますます遠くなった。兼家は多忙で時々通って来る程度だったので、女を家族として拠り所にしているようには見えなかった。遠くにいる父のことを考えながら毎日悲しい思いで過ごしていたのだった。


 十二月になった。比叡山の横川に右大臣師輔がお堂を建てたその関係で息子の兼家も横川に籠ることになった。

『雪に降られて閉じ込められていて、ずっとあなたのことばかり考えているよ。』

といった内容の手紙が女のもとに届いた。女はすぐに歌を詠んで手紙を持ってきた使者に渡した。


『凍てついた横川に雪が残るのは 消え入る私ほどは悲しくないのね』


 年が明けて兼家が二、三日通って来ないことがあった。用事があって仕方ないとは思うけれど、待つばかりで不満だった女は出かけようと思い立った。

「殿が来たら渡して。」

と侍女に手紙を渡して出かけていった。手紙にはこうあった。


『知らないわ鶯みたいに出ていくわ 鳴きながら行け野にも山にも』


帰ってくると返事が届いていた。


『鶯が気まぐれで行く山辺でも 鳴き声を聞けば訪ねて行くさ』


 その頃から女は体の調子は普通でなくなって、春夏と具合が悪く過ごし八月の終わりに男の子を出産した。兼家は出産前後を通じてさまざまな儀式を盛大に行い、生まれた子を大切に扱った。女はそれを自分と子が大切にされている証と受け取って幸せを感じていた。

 九月になった。兼家が帰った後、女は手慰みに歌でも書きつけようと硯箱を開けた。すると他の女に宛てた手紙が入っていた。あんまりだわと思った女は見たことを知らせてやろうと手紙の端に歌を書きつけた。


『疑うわ他の人への手紙とは ここは見限るということかしら』


それから女は兼家の浮気に気を揉んで心が休まらなかったが、思ったとおり十月の終わりに三夜続けて来ない日があった。浮気相手を正式な妻に迎えたのだった。その後兼家は平然とした態度でやって来て、

「しばらくの間あなたを試しているんだよ。」

などと含みを持たせて言った。夕方になると突然、

「避けられない急用ができたから失礼するよ。」

といって出ていったので、女は使用人に後をつけさせると、

「町の小路のこれこれというところにお車をお停めになりました。」

と報告してきた。女は嘘をつかれたこと、私を一番に愛すると言ってたのに裏切られたこと、いろんな思いが込み上げて悔しくてならなかった。何か文句を言ってやりたいと思ったがどう言えばいいのかわからなかった。二、三日後の暁ごろ、女の邸の門を叩くものがあった。女はきっと夫だろうと思ったが頭に来ていたので開けさせなかったら、兼家はそのまま例の女のところに行ってしまった。翌朝、女はこのままでは済ませられないと手紙を書いた。


『嘆きつつひとり寝る夜の明ける間は どんなに長いものか知ってる?』


いつもより細心の注意を払って美しい紙を選び、筆跡も取り繕って書いて、色の移った菊に結んで送った。返事は、

『開けてくれるまで様子を見ようと思ったけれど、急用を知らせて来た使いがあってね。お怒りなのも仕方ないとは思うが。


もっともだ冬の夜ばかりか門の戸も 遅く明けるのは侘しいものよ』


 その後も兼家は何事もなかったかのようにして以前ほどではなかったが女のもとに通って来た。女が浮気のことを責め立ててもそんなこと当然のことだろうと言った態度で平然としていた。女は夫が他の女のところに通うにしても「宮中で用があって」とか言い訳をしてくれた方がましだと思った。一番に愛すると約束したのにこんなふうに自分が愛人の中のひとりの扱いをするのは裏切りだし屈辱的だった。


 翌年三月、桃の節句の日に女は夫が来てくれるのを期待して花を用意して待っていたが来なかった。同じ邸に住む姉のところでも普段は夫が入り浸りなのにその日に限って来ていなかった。姉妹で退屈を慰め合って節句のお膳を少し食べたりして過ごしていた。翌朝早朝に兼家と姉の夫の為雅が揃って現れた。昨夜から準備して待っていた侍女たちが、

「このまま無駄にしてしまうよりは。」

と言って用意していた食事や飾りを運んで来た。美しく咲いていたのを折った花が運ばれて来るのを見て、女は黙っていられず近くにあった紙に歌を書きつけた。


『待つうちに昨日を過ぎた花の枝を 今日おるなんて甲斐のないこと』


あぁ悔しいと女は書いたものを隠したらすかさず兼家はそれを奪い取って横に歌を書いた。


『三千歳を見るべき我は年毎に すくわけでない花と教えよう』


別棟で過ごしていた為雅がこのやりとりを伝え聞いて女のもとに歌を詠みかけてきた。


『花によってすくというのが嫌なので 昨日はよそで過ごしたのですよ』


 兼家は今は公然と町の小路の女のもとに通うようになっていた。女は毎日嫉妬で悶々としていた。何を見ても聞いても夫の浮気と結びついて苦しかった。侍女の中で一番親しく仕えている乳母子が主人を慰めようと噂話をした。

「一番最初に結婚した時姫様でさえ、町の小路の女のことでは珍しく不快にお思いのことが多いそうですわ。」

女は同じ苦しみを味わっている人が他にもいると聞いて少しは慰めになったが、嫉妬が身を苛んでどうしようもなかった。

 同じ邸に住んでいる姉の夫が頻繁に出入りしているのを見かけるにつけ、羨ましくてならなかった。世の中にはこんなに仲睦まじい夫婦もあるのに夫はどうしてあんなに薄情なんだろうと思って辛かった。それにしても同じ姉妹なのにどうしてこんなに違うのだろうと考えて苦しんだ。

「お姉さま、昨日も殿は来なかったわ。町の小路の女が憎くて身が焼かれるようよ。」

「かわいそうに。一時的なものでしょうから、ぐっと堪えて様子を見てみましょう。そのうちあなたのもとに戻って来るわよ。」

「でもその間が辛くてならないのよ。ねぇ、一緒に物見に出かけない?気分転換に。」

「ごめんね、今日夫が来るのよ。また別の日に行きましょう。」

「あ、そうなのね。こちらこそごめんなさい。支度があるでしょうから、そろそろ失礼するわ。」

為雅が来ると姉は、

「妹が殿が来ないのをとても苦にしているの。私のところにあなたが来ることまで辛そうに思っているみたいなのよ。どうしてあげることもできなくて私まで辛いわ。」

「僕も気を使って居心地悪いことが何かとあるよ。前々から考えていたんだが、家を用意するからそちらで一緒に住まないか?」

そんなやり取りがあって間も無く為雅は用意した家に姉を移すことにした。女は姉まで自分から離れていくと思い辛くてならなかった。小さい頃からずっと仲良くして来た姉が出ていってしまう、もうこれからは今までみたいに気軽に会うこともできないと思い悲しかった。姉の転居の日、荷物をすっかり運び出していよいよ姉を連れて行く車が寄せつけられた。女は姉に歌を詠んだ。


『なぜこんなに嘆きの木は繁るのに 人は枯れていく宿なのかしら』


歌を受け取った姉は心が動揺して泣くばかりだった。代わりに為雅が返事をした。


『思いやる我が言の葉をあだ人ゆえに 繁るなげきに添えて恨むな』


そんな歌を言い置いて姉夫婦は出ていった。女はみんな自分から離れていくのだと嘆きながら夫の来ない家で寝たり起きたりを繰り返すばかりだった。

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