道綱の母という女

@masayo-i

第1話 結婚

 時は平安中期、天暦の治の誉れ高い村上帝の御代のこと。地方で起こった反乱は鎮まり宮廷歌合などが催され穏やかな時代だった。京には、帝の住む宮殿を中心に貴族たちが豪華な邸宅を構えていた。その中にかつての栄光を思わせるような少し古びた邸宅があり、そこにある姫君が住んでいた。


「ねえ、この歌はどうかしら?」

「大変お上手でございます。姫様は本当に歌の才能がございますわ。」

「姫様は全ての歌集を暗記なさっていらっしゃって、さすがは歌人を多く輩出した御家系にお生まれだこと。」

侍女たちはみんなで誉めそやしていた。

「それにしてもたくさんの殿方からのお手紙ですわねぇ。」

侍女たちはあたり一面に読み広げられた手紙と手紙に添えられた花などを眩しそうに眺めながら、こんな素晴らしい姫君にお仕えしている自分自身までありがたいような気持ちになっていた。

「面倒だから放っておいたらいいと思うけれど、無視しては失礼だと母上がうるさいものだから。」

「母上様の言うとおり身分のあるお方ならそれ相応の対応をしなければなりませんわ。」

侍女たちは口を揃えて言う。

「でもね、身分関係なく中には素敵な歌を送ってくる殿方もいるのよ。挑まれると負けまいと歌を詠んでしまうわ。」

姫君は歌の書かれたひとつの手紙を取り上げると、勝気で茶目っ気のある瞳を細めながらにこやかに言った。


一方、姫君の詠んだ歌は宮中の貴公子たちの間で噂になっていた。

「倫寧殿の二の姫が優れているとういうことだぞ。」

「本当か?」

「間違いない。歌に自信のある馬の助が返事をもらったとか。歌も筆跡も見事だったらしい。」

「情報通の大輔が言うには、知り合いの侍女を通じて容姿も素晴らしいと聞いているらしいぞ。」

若者たちが話しているところに兵衛佐の兼家が現れた。

「誰の噂だ?」

「倫寧殿のニの姫が才色兼備だという話だよ。」

「そうなのか?」

「まさか興味を持ったんじゃないよな。結婚してまだそんなに経っていないうえに子供が生まれたばかりだというのに。」

「男はたくさん娶ってたくさん子供を儲けてこそ出世するというもの。」

「ただの色好みのくせに、格好つけて。」

「さぁどうだか。」

兼家は自信たっぷりな瞳を輝かせて悪戯っぽく笑った。


 その数日後、宮中の渡り廊下を歩いていた兼家は、美しい白砂の敷き詰められた庭を歩いている倫寧に声をかけた。

「ちょっと、そこの倫寧殿。近くへ。」

気づいた倫寧は渡り廊下の近くの敷石に片膝をついて頭を下げた。

「そなたのところの二の姫のことで聞きたいことがある。」

「はい、どのようなことでしょうか。」

「もう決まった相手はいるのか?」

「いいえ、そのような人はおりません。」

「ならば、私を婿にするという考えはあるかな。」

「はい?」

倫寧は驚いてぽかんと口を開けて固まっていると、兼家は紛らわすように声を立てて笑い扇で顔をあおぎながら去っていった。倫寧は家に帰ると急いで姫のところにやってきた。興奮ぎみでことの次第を話すと、

「やだわ、冗談でしょう。」

「あれはそなたと結婚したいという意味だと思うぞ。もしそうなれば我が家も安泰だ。なんといっても右大臣師輔様の御三男兼家様だからな。あの家と縁ができるというのは、この貴族社会で出世できるということだ。」

「あなた、おやめになって。」

侍女から話を伝え聞いた母君が姫の部屋に入ってきて言った。

「はっきり求婚されたのならともかく、みだりに騒いではなりませんわ。姫も困っているではありませんか。」

「そうだな。」

母君は侍女たちに向かって、

「あなたたちもこのことは一切口外してはなりませんよ。両家の体面を傷つけかねないことですから。」

倫寧は冷静になって思い直すようにして出ていった。その後姫君は話にもならないわとすっかり忘れて過ごしていた。

 翌日、使者が馬に乗ってやって来て門を叩いた。

「どなた様でございましょう。」

使者は何をわかりきったことを聞くと言った態度で馬上から睨むように言った。

「右大臣家の御三男兵衛佐様からの使いである。決して失礼があってはならぬぞ。」

と大声で言って兼家からの手紙を差し出した。応対した召使たちは驚いて大騒ぎをして奥へ取り次いだ。それを聞いた奥でもまた大騒ぎになった。

「どういうこと?昨日の話は本気だったの?」

「とりあえず、何が書いてあるのか手紙を見てみましょう。」

侍女に促されて見ると奇妙な手紙だった。恋文ならば美しい色の料紙に趣向を凝らして美しく書かれているものなのに、これは分厚い事務用の紙に適当に流し書いたといった風情だった。


『噂だけ聞いて悲しいほととぎす 言い交わしたい思いがあります』


花も何も添えられていなくてそれだけ書いてある。

「嫌だわ、お返事を差し上げなければならないのかしら。」

侍女たちと相談していると奥から母君が騒ぎを聞きつけてやって来た。母君は怪訝な表情をして手紙を読んでいたが、

「やはりご返事なさるのがいいですよ。」

と言った。王の血筋で古風な母君はしきたりや礼儀を重んじていた。母君にそう言われると逆らえなくて、姫君は仕方なく返事の歌を書いた。


『語り合う人ない里にほととぎす いたずらに声を無駄にするかと』


このやりとりをきっかけに兼家から何度も手紙が来たが、姫君はずっと無視していた。すると兼家から悲痛そうな文面の手紙が来た。


『不安です音無の滝の水なのかと あてどなく瀬を探しています』


姫君もこれはさすがに無視するわけにいかず、『後ほどこちらからご連絡いたします。』と体よく断ったら、反応があったのに気をよくした兼家は、


『人知れず今か今かと待つけれど 返事がないのはわびしいものです』


この返事を目にした母君は、

「なんとまぁ恐れ多いこと。大人の女性の対応をして、きちんとご返事なさい。」

母君にそう言われて姫君は恥ずかしくなったが、筆まめな侍女に代筆を頼んでそつない返事を書かせてごまかしていた。代筆とはいえ返事が来たことを一歩前進と喜んだ兼家は、それから何度も手紙を送ってきては代筆の手紙を受け取るというやり取りが続いた。いつまでも代筆ばかりで埒があかないと思った兼家は、母君に手紙を書いて結婚の承諾を乞う戦略に出た。その手紙に添えた姫君への手紙には、


『浜千鳥の足跡渚に踏み(文)見ぬは 我越す波が打ち消すのかと』


なかなか上手な歌だわと姫君は思ったが、兼家との結婚などとんでもないと考えていたので相変わらず筆まめな侍女に代筆させてやり過ごした。

『いつも丁寧なお返事をくださいますのは心から嬉しいのですが、今度もまた代筆というのではあまりにも辛いことです。


なんにせよ嬉しい気持ちはあるけれど 今度こそあなたの言葉が欲しい』


と兼家からいつになく真面目な心情を書き綴った手紙が来た。ずっと相手にしていないのに諦めずにこうして熱心な手紙を送ってこられると、姫君は本気なのかしらと心が揺れた。それでもすでに妻があって子供までいる兼家と結婚するのは、妻として辛い立場になるのはわかりきったことと思い直して今までのように代筆で返事をした。こうして何事もなく月日が過ぎた。


 このままでは慎重な姫君と結婚できないと思った兼家は、摂関家の三男という立場を利用して強引にことを推し進めた。姫君の父に結婚の許しを乞う手紙を書いたり、自分の父親の右大臣師輔に姫君との結婚を後押しするよう頼み込んだりもした。

「どうしても倫寧殿の二の姫と結婚したいのです。実直な倫寧殿が舅になって私を支えるのは大きな力になります。」

「でも五位の倫寧殿でどんな力になろうというのか。中央政界での出世は望めない家だろう。政治的才覚のある男でもないしな。真面目な人物であるのは評価できるが。」

「そうなのです。あの真面目さが私の力になると思うのです。中央政界とおっしゃいましたが、むしろ地方に道があると思うのですが、父上はどうお考えになりますか?どこか大国の国守ならあの真面目なお人柄でしっかり徴税してお上のためになりましょう。大国の国守の地方の情報と莫大な財は私にとっても大きな力添えになろうかと思うのです。」

「ははは、お前は倫寧殿を大国の国守にしろと言っているのだな?政治的な才覚とは、お前に相応しい言葉だな。考えておこう。」

そう言って師輔は席を立った。それから少し経って宮中で倫寧を呼びつけた右大臣師輔は、

「うちの三男がそなたの二の姫と結婚したがっているのだが、そちらではどうお考えなのだろう?うちの三男では不足だろうか?」

「いえいえ、決してそのようなことは。うちのような家柄では身分違いということで恐れ多く存じております。」

「そこで提案なのだが、今度陸奥国の国守の席が空くのだが、そなた、いかがかな?陸奥国は辺境で治めるのは難しいが実入りも大きい。もし受けてもらえるのなら、息子にも力になってもらえそうだが。」

「恐れ多いことでございます。右大臣様の仰せのことでしたら、どのようなことでもお受けいたす所存です。」

「よかろう。それでは、そのようにしよう。息子を頼んだぞ。」

倫寧はひれ伏すようにお辞儀をした。大急ぎで家に帰って、姫君の部屋にやって来た倫寧は、

「お前は兼家様と結婚するのだぞ。もう決まったことなのだ。お父上の右大臣様ともう話がついておる。」

「どういうこと?なぜ?」

姫君は頭が真っ白になって、動揺した。奥からやって来た母君が、

「あなた、何があったのですか?」

と問いただした。倫寧は昼間宮中であったことを説明すると母君は、

「それならば仕方がありません。可愛い姫や、心づもりなさい。そういう運命なのですよ。」

と言った。姫君は母君だけは自分の不安を理解してこの結婚に反対していてくれたのに、その母がそう言うならもうどうすることもできないと思った。右大臣家の権勢に押し切られたことや兼家の二番目の妻になるということが不安だったし屈辱を感じていた。翌日、父宛てに兼家から手紙が来た。姫君宛ての手紙も添えられていた。

『ご用心し過ぎのように思われるのが辛く、我慢しておりましたがどうしてでしょう、


鹿の声の聞こえぬ里に住むけれど なぜだか合わない目をみることです』


今度はもう代筆というわけにもいかなくて、姫君自ら手紙を書いた。


『高砂山の高嶺のあたりに住もうとも それほど眠れぬとは聞きませんのに


不思議ですわね。』

とだけ書いた。権力で押し切ってきた兼家に対するささやかな抵抗だっった。たとえ家柄の差があろうともただの男と女として対等でいるよう心を強く保とうと決心した。

 それから結婚の準備がどんどん進められた。邸の建物の中で最も格上の寝殿に姫君の部屋をしつらえて高貴な婿を迎え入れる準備をした。不安に打ちひしがれる姫君の心をよそに、邸内の者たちはこの玉の輿婚に浮き足立っていた。家中の上等な調度品が集められ、足りないものは新しく新調して寝殿は美しく整えられた。その日はいよいよ婿に迎える兼家と姫君が御簾越しに会う約束だった。日が暮れて暗くなった頃、兼家はこざっぱりした車に乗り、念入りに選んだと思われる花薄の襲を着て現れた。御簾奥の姫君の部屋の方は明かりが落としてあり、庇の間に入ってきた兼家の姿がよく見えた。直衣の下からのぞく袿は艶やかで動くたびに柔らかく滑っていい香りがした。

「やっと近くでお話しすることがかないました。大変嬉しく思います。」

姫君が黙っていたので侍女が気を利かせて返事をした。

「姫様はこのようなことは初めてですので緊張しておりますが、お目にかかれましたことを喜んでいらっしゃいます。」

姫君は自分の不安をよそに周囲が勝手にことを運んでいるのが辛かった。姫君がずっと無言だったので気まずい雰囲気が流れた。侍女たちは場を持たせようと兼家に話しかけると、兼家は陽気に応じた。兼家のもつ明るくはっきりした性格が場の雰囲気を明るくしていた。姫君を深く慕っていること、末長く添い遂げたいと考えていることを熱意を込めて語っていた。不安な気持ちとは裏腹に、姫君の目には兼家の情熱的で堂々とした態度が魅力的に映った。

「今日はこの辺りで失礼します。初対面なのにあまりしつこく居座って嫌われてはいけませんから。」

兼家が立ち上がると簀子で控えていた従者たちも素早く立ち上がり去っていった。その姿はいかにも若くて美しい貴公子そのものだった。

兼家の一行がすっかりいなくなった後、

「兼家様はなんて素敵なお方なのでしょう。あんな方に求婚されるなんて、姫様はお幸せですわ。」

侍女たちがため息をつきながらそう言って騒いでいる。

「まだ結婚すると決まったわけでないし、どうなるかわからないわよ。」

姫君は強がって言ってみるが不安で仕方なかった。

「それにしてもすでに奥様がおありなのが惜しいですわ。男の子もお生まれになっているとか。」

「時姫様のことでしょう。一番最初に結婚したというだけで、大したことありませんわ。家柄なら姫様の方が優れていらっしゃるくらいですわ。なんと言ってもお父様の倫寧様は兼家様のお父上の右大臣とまた従兄弟のご関係ですもの。」

あけすけにものを言う姫君の乳母子がそう言うと侍女たちは、

「そうですわね、順番よりも家柄とご寵愛の深さが勝りますわよ。姫様なら誰よりもときめく奥方様におなりですわ。」

姫君が二番目の妻になることに不安を感じていると知っている侍女たちは、ことさら姫君を勇気づけようと喋っていた。あまりにもあからさまな話に恥ずかしくなって来た姫君は、

「もうやめてちょうだい。この話はこれでおしまいよ。」

と言ってその後も辛い気持ちで過ごしていた。


 それから兼家は毎日のように訪ねてきた。姫君が自分の情熱に応じる態度が見えなくて焦れていた。その日も姫君に熱く語って御簾に手をかけて奥に入ろうとしたが、うまくあしらわれてしまった。姫君に触れることもできず興奮気味に帰っていった兼家だったが、帰ってすぐあたかも後朝の文のように少し萎れた花に細く手紙を結び付けて歌を送ってきた。


『逢坂の関がなんだというのだ 近いのに越えられなくて嘆いて過ごす』


姫君は何もなかったのに恋文みたいに返事するのは気が引けたが、風情のないのも嫌だったので歌を書いて固い蕾のついた萩に結んで送った。


『逢坂の関というより 陸奥の勿来(来るなかれ)の関こそ越えられないのです』


 姫君が強情でなかなか落ちないのに焦れた兼家は、姫君の父上と母上に縁起の良い日を伝えてその日を結婚初日にするよう強引に推し進めた。八月の初めのことだった。夜更けて町が静まった頃、姫君の邸では今夜こそ新婚初夜と準備万端だった。姫君の部屋で焚くよい香りが廊の方まで漂っていた。兼家は美しく整えられた装束を着て現れた。まだ心を決めかねている姫君は泣き出しそうな気持ちだった。

「とてもよい香りがしますね。これは黒方ですね。」

御簾の奥にさらに几帳を隔てて隠れている姫君に話しかけた。

「今日を心待ちにしていたのです。どれほどこの日を待ち望んでいたか。私がどれほど恋焦がれているのかあなたにはお分かりにならないでしょう。」

「わかりませんわ。この先あなたのお気持ちもどうなるかわかりませんもの。」

兼家は周囲にいる侍女たちが息を潜めて控えているのを確認すると、御簾に手をかけて軽やかに中に入っていった。姫君は顔を伏せて小さく震えていた。

「今はもう頑ななあなたの肩をもつ者はいない。でも、代わりに私がこの先一生あなたの味方でいると約束しますよ。」

兼家は震える姫君の肩を優しく撫でると、軽やかに抱き起こした。

「すでに奥方のいるあなたにこの先どれほど愛していただけましょう。」

「あなたを誰よりも一番に愛そう。」

「所詮私は二番目の妻です。」

そういうと姫君の目に涙が溢れた。

「結婚した順番が気になるのか?私が一番に愛しているのはあなたなのに。」

「信じられません。私より愛している人がいるなんて嫌です。一番に愛しているのでなければ。」

「一番に愛するよ。約束する。この先ずっと末長く守っていくつもりだ。」

姫君は不安でならなかったが、優しい言葉を甘くささやく兼家に身を任せた。翌朝、兼家から後朝の文が来た。


『夕暮れの流れ来る間を待つうちに 涙は多いの川になろうぞ』


姫君は熱い情熱を体に感じながらもいつまで愛されるのだろうと不安な思いでいっぱいだった。兼家が手紙を結んできた太めの枝に朝顔の花を添えて手紙を送った。


『思うことおおいの川の夕暮れは 心にもあらず泣けてしまうわ』


結婚のしきたりどおり二日目、三日目の夜になると兼家はやって来た。三日目の夜明け前のまだ暗いうちに姫君はぐっすり眠る兼家を起こして帰るように促した。兼家は帰りたくなさそうにしていたが、渋々帰って行った。


『東雲に置いて帰った心は空に なぜだか露と消えそうだった』


と兼家から儚そうな手紙が来た。


『儚くも消えそうと言う露のあなたに 虚しく頼る私は何なの』


こうして姫君は正式に兼家の妻となったのだった。

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