17話 僕は監禁される趣味、ないですよ
僕らは血の痕を辿って、朽ちかけた廃屋の奥へと足を踏み入れた。
踏みしめる床板が軋むたびに、埃がふわりと舞い上がる。壁は崩れ、空気は澱みきっていて、かすかに鉄錆の匂いが鼻をついた。
「……ここ、地下があるな」
アルヴィーが床の一部を蹴り上げる。軋む音とともに板がずれ、そこからひんやりとした空気が吹き出した。
「本当に、行くの……?」とイーリスが不安げに問いかける。
僕は、小さくうなずいた。
「……行く」
その声に、壁にもたれかかっていたメルクが鼻を鳴らした。
「嫌な予感しかしないね。これは“やばい匂い”がプンプンする現場だな」
「どうせ戻れませんよ」
地下への階段は狭く、暗く、そして冷たかった。降りた先には、石で囲まれた小さな空間が広がっていた。まるで古びた教会の納骨堂──死者の囁きが聞こえてきそうな、そんな場所だった。
そして、その中央に──何かがいた。
「…
それは影。人のようで、人ではない“何か”。
膝をつき、首を垂れ、動かない。けれど僕たちの気配を察したのか、肩がびくりと震え、ゆっくりと顔を上げた。
「……な、に……こいつ……?」
イーリスが息を呑む。
その顔は──僕に“似ていた”。
けれど、明らかに“違った”。
真っ黒にくぼんだ眼窩。濁った瞳。僕の影が、そのまま実体を持って抜け出してきたかのような、禍々しい存在。
「逃げ──」
僕が声を出すより早く、それは跳ねるように動いた。
《ガッ!》
床石が爆ぜ、アルヴィーが反射的に剣を抜く。
「下がれ、ウーア!」
《キンッ!》
鋭い金属音が響く。だが、斬撃はまるで手応えがない。不気味なまでに柔らかく、まるで斬った刃がゴムに吸い込まれるようだった。
「おいおいおい! なんでこうなるんだよ!? 俺、ただの情報屋だぞ!?」
柱の陰から、メルクが情けない声を上げる。
「なら情報で援護して! 弱点は!? 早く!!」
イーリスがツタを放つ。空気を裂いて伸びたそれが、影の肩に突き刺さる。しかし黒い液体が“ぶしゅっ”と噴き出すだけで、まるで痛みを感じていない様子だった。
「そんなの知らねぇって!……うわ、マジか!?痛覚ゼロかよ!?」
メルクが柱の陰から顔だけ出して、青ざめた顔で呻く。
「ダメだこの人、全然使えない!」
イーリスは眉を吊り上げながらも次のツタを繰り出すが、やすやすと避けられてしまう。
「アルヴィーさんなら、何か分かりますよね!?」
僕は必死に声を張った。アルヴィーの背中に、すがるような視線を送る。
「……いや、分からん」
返ってきたのは、無情なひと言だった。鋭い目で影を見据えながらも、その表情は読みづらい。
「ええっ!?」
僕の声が裏返った。喉が渇く。
(てっきり敵の正体に気づいてると思ってたのに……!
だって、あんなに落ち着いてたのに……!?)
影は立ち上がったまま、首をかしげている。人間の動作に“似て”いるだけで、どこか歪だ。
じわじわと、体温が奪われていくような感覚──全身が粟立つ。
「くそっ……っ!」
僕は歯を食いしばり、一歩前へ出た。震えそうになる膝を、意地で踏みしめる。
この“影の僕”を、見過ごすわけにはいかない。
逃げ出したい気持ちもある。でも、それ以上に──許せなかった。
僕の姿をして、僕じゃない“何か”が、仲間を襲っていることが。
それが、どうしようもなく──許せなかった。
(リヒトを……指先に込めて)
胸の奥が、熱を帯びる。脈打つように、掌に光が集まっていく。
体の奥底に宿った“何か”が、目を覚ますようにざわめき、血管の中を逆流するような衝動が走る。
空気が変わった。
「──
声とともに、世界が震えた。
掌から放たれた光が、音もなく弾ける。まるで水面に石を投げたように、目に見えない波紋が空間に広がっていく。
──瞬間、すべてが止まった。
影の腕が空中で固まり、イーリスのツタも途中で動きを失う。
床を蹴ろうとしていたアルヴィーの足も、宙で凍りついたように動かない。
音さえも消えた。
僕だけが、そこに“残されていた”。
時間も空気も凍りついたかのようなその世界で、僕の鼓動だけが響いていた。
一歩踏み出すたび、砂のように静寂が崩れていく。
「今です、アルヴィーさん!」
僕の声が、沈黙を裂く。
その瞬間、空間を閉じ込めていた光がひび割れるように砕けた。
止まっていた空気が一気に動き出し、世界が音を取り戻す。
剣を構えたアルヴィーの体が動き、イーリスのツタが再び風を裂いた。
だけど──
影だけが、止まったままだった。
人ならざるものが、時の外に取り残されたかのように。
膝をついた姿勢で、顔だけをこちらに向けて、瞬き一つせずに。
「っ! ああ、任せろ!」
アルディーが吠えるように返事をし、踏み込む。
その足取りは迷いなく、一直線に影の胸元へと剣を突き立てた。
……はずだった。
しかし手応えは、なかった。
影の身体が音もなく崩れ、まるで霧のように消えていく。
「倒した……のか?」
「いや……感触がなかった。斬った、というより……すり抜けた」
石室に、静寂が戻る。
焦げたような、鉄と煙が混じった匂いだけが、ほんのわずかに残っていた。
メルクがそっと立ち上がり、服についた埃を払う。
「……ま、悪くない現場だったな。生きて帰れたし」
「どこがだよ!」
僕とアルヴィー、イーリスの三人が、見事にハモった。
「ははっ、こりゃチームワーク抜群だな。俺、感動して涙出そう」
翌朝。
昨日の石室での戦いが嘘のように、レゾナの街には穏やかな朝日が差し込んでいた。
僕たちは、またあの酒場にいた。……いや、飲みに来たわけじゃない。メルクが「朝飯はうるさい場所で食うのが一番うまい」と、妙な理屈をこねたせいだ。
「なーんだかんだで、情報ってのは“噂”から始まるんだぜ」
「逃げなくていいんですか? 昨夜あんなことがあったのに……」
「もちろん命は惜しい。でも腹が減ってたら走れないだろ? しっかり食っとくに越したことねぇ」
「それ、完全に逃げる気じゃないですか……」
そんな他愛ないやりとりの中、店内の空気に違和感が混ざってくる。
「……なんか、変じゃね?」
「さっきから、急に静かになってる……?」
イーリスが振り向いた、その瞬間だった。
扉が勢いよく開かれる。
「出たぞ! “通り魔ウーア”だ! 今度は衛兵の目の前で消えやがったってよ!」
酒場が、凍りついた。
「……また、か」
「昨日、影を追い払ったばかりなのに……」
ざわつく店内。視線が、じわじわと僕たちのテーブルへ集まってくるのが分かった。
そして――それは、すぐだった。
《ガンッ!》
今度は重々しい音と共に、酒場の扉が再び開け放たれる。
鎧に身を包んだ兵士たちが入ってくる。そして、その中央には──
「……ウーア、だな」
「……え?」
「通り魔の容疑により、身柄を確保する」
「ま──」
言いかけた瞬間、僕の両腕に硬い縄の感触が走った。
「待って! 彼は違うんです!」イーリスが立ち上がる。
「彼は無実です!」アルヴィーが剣に手を伸ばすが、数が多すぎる。
「お、おいおいおい……マジかよ!? 俺の報酬、どうなんの!?」
「いや、今それ!?」
騒然とする中、なぜか僕の内側だけが妙に静かだった。
──また、だ。
また、僕に似た“何か”が暴れた。
分かってる。何かが、どこかで繋がっている。その痕跡を、確かに感じる。
……でも、知らなければ、本当に“僕”が通り魔になってしまう。
なら、これは──知る機会だ。
「……分かりました。行きます」
「ウーア……!」
「大丈夫。良い情報、持って帰ってきますから」
イーリスの叫びを背に、僕は兵士たちに囲まれながら街の奥へと連れられていった。
---
詰所
街の北端、冷たい石造りの詰所。鉄の扉が重く軋み、空気はひどく静かで冷えていた。
連れて来られたのは、簡素な部屋。机ひとつ、椅子がふたつ。余計な飾りは一切ない。
僕が腰を下ろすと、扉の向こうから一人の男が入ってくる。
「……あれ?」
「覚えてるか? 俺のこと」
静かな声。以前、果物を盗んだ子どもを捕まえたときに見かけた兵士だった。
「ルドガー・カスタム。衛兵長をやってる」
「……偉い人だったんですね。立派な髭……って、あれ? ない?」
「悪かったな、今朝剃ったんだよ」
「清潔……!」
「――本題に入ろう。正直に言ってくれ。お前、昨夜の刺殺事件に関与してるか?」
「してません」
「目撃証言がある。“背が低く、黒い外套、金髪、緑の瞳”……」
「僕に似た“誰か”が現れたんです」
ルドガーの目が鋭くなる。
「つまり、お前は“本物”じゃないと」
「違います。僕が“本物”です。似てる奴が“偽物”」
「ややこしいな……」
彼の目には敵意というより、義務と慎重さがにじんでいた。
「……すまないな。お前が正義感の強い奴だってのは分かってる。だが、なぜ“本物”が捕まってる?」
「それ、ルドガーさんが命じたんじゃないんですか?」
「いや、通報があったらしい。市民から、との報告だが……腑に落ちん……また来る」
そう言い残して、彼は立ち上がり、扉を閉じて出ていった。
残されたのは、静まり返った部屋と僕一人。
---
「──で!? なんで捕まってんの!? わたしたちのウーアが!」
イーリスが裏路地で叫ぶ。メルクはというと、得意げに腕を組んでいた。
「ふっ、落ち着けお嬢ちゃん。ああいう場面じゃ、“情報を握ってる側”が勝つんだよ」
「いや、握られてるのウーアなんだけど!?」
「……で、アルヴィー。アテはあるのか?」
「詰所の牢屋だろうが、正面突破は無理だ。……でも、裏から抜けられる“抜け道”があるという噂はある」
「お、それだそれだ。昔、俺も使ったっけな……なに驚いてんだよ? 俺だって“詰所の常連”だった時代があるのさ」
「犯罪歴告白しないで!というか、衛兵に“人違いですー”って訴えてもダメなのかな」
「分からんが……ウーア君を狙ってる“何か”が動いている。彼の身が危ない」
「よし、決まりだ。抜け道は旧水路だ。詰所の北にある排水口から入れば、牢の真下まで行けるかもしれん」
「分かった。待っててウーア。絶対に迎えに行くから──!」
---
鉄格子の奥。蝋燭一本だけが灯る、冷たい石の牢。
僕は石のベンチに腰掛け、静かに天井を見つめていた。
(さて、どうやって情報を引き出すか)
ルドガーは戻ってこず、見張りの兵がいるだけ。
(兵士からでも話を聞ければ……)
そう思い立って立ち上がろうとした、その時だった。
──ガシャン。
格子の外で、何かが転がる音。
……石? いや、紙が括られている。
拾って広げる。
《見ている》
《お前は本物か?》
手書き。癖のある筆跡……どこかで見覚えがある。
(見られてる?)
そっと顔を上げた、その瞬間。
壁の向こう。人の気配はないのに、“何か”の視線が確かにある。
あの“影”のような、あの異様な、ひんやりとした気配。
(まさか、ここまで……)
ゆっくりと格子に近づき、声をかける。
「そこにいるんですか?」
返事はない。ただ、壁の奥から、くぐもった気配が流れてくる。
(やっぱり……まだ、終わってない)
---
「よし、今しかねぇ。衛兵の交代が終わった。裏門の見張りも減ってる」
メルクが小声で指示を出す。イーリスとアルヴィーは身を低くして、詰所の裏手に潜んでいた。
「ねえ、本当にここから入るの? ……ただのドブにしか見えないんだけど」
イーリスが鼻をつまむ。
「“ただのドブ”だからいいんだよ。見つからねぇ。……昔、盗賊仲間とここから逃げたっけな。まぁ詳しくは…いいか」
「すぐに捕まったりしてないよね!?」
「しっ。行くぞ。合図したら一気に潜れ」
蓋を外すと、そこには意外にしっかりした煉瓦の水路が現れる。苔と湿気にまみれた、古びた地下の通路。
「……ダンジョンのようだな」
「うわあ……やっぱり他の手段探そ?」
「黙れ、滑るな、濡れるな、喋るな。以上!」
三人が進む中、背後で──カラン、と、小石が転がる音が響いた。
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