Ⅰ-Ⅲ 日常
*四月五日 金曜日 学生寮
カーテンの隙間から差し込む太陽の光に、目を細める。
柔らかな春の日差しは僕を掛け布団ごと包みこんでいた。
「朝か……」
好き勝手寝ていた癖が未だに抜けない。
このまま二度寝してしまいたいけれど……。
寝ぼけ眼のまま、枕元に置いてある時計を見る。
ぼやっとした視界からこなれてきた目が、数字の輪郭をはっきりと写していく。
「そっか……八時一〇分……」
目から入った情報をそのまま口に出す。
寝起きのため、情報を噛み砕くのに時間がかかるのだ。
「…………?」
そして気付く。
「! ね、寝坊してますよこれっ!」
昨日の不安が本当になってしまった。
いくら学生寮から学園までの距離が徒歩五分とはいえ、八時三〇分開始のホームルームまではギリギリの時間だ。
「うわ……っ!」
急いで身体を起こそうとするも、勢い余ってベッドから片手が落ちてしまう。
顔面からベッドに突っ伏し、生きている痛みを実感する。
今度こそ立ち上がり、滑るように床へ駆け下りる。
「き、着替え! 早くしないと……っ!」
備え付けのクローゼットを開き、ハンガーから制服を引き剥がす。
まだ着慣れないその制服に急いで袖を通し、入学前に一生懸命練習した通りに赤色のネクタイを結ぶ。
「良かった……昨日よりはスムーズに着ることができ――――あれ?」
鏡の前で安堵したのも束の間。
髪の毛にペンダントの鎖が引っかかってしまってしまう。
「こ、こんな時にですか……っ!」
思い切り引っ張ってしまいたいけれど……。
おじいちゃんの形見を乱暴に扱うなんてことできない……。
「いたたた……っ」
いくら藻掻いても、その絡まりが取れる気がしない。
というか、どんどんひどくなっているような……。
「ひ、ひとまず休戦しましょう……!」
こういうことは落ち着いた場所で直した方が案外すんなりと取れるものだ。
急がば回れ、おじいちゃんもそう言ってました。
今はとりあえず早く学校へ行かないと……!
*四月五日 金曜日 並木道
桜の花びらが舞う並木道を、ひたすらに走る。
次々と移り変わる景色は入学式当日の記憶を思い出した。
通学のピークは去ったのか、辺りにはほとんど人がいない。
もしかしたらあの先輩に会えるかもしれないと僅かに期待したけれど、それは叶うことはなかった。
だいぶ息が上がったところでようやく学園の正門が近づいてくる。
ゴールが見えたことに安堵し、歩く速度を落とした。
「ん?」
顔を上げれば、大きな正門の横に寄りかかっている人物が目に入る。
残念ながら、僕を助けてくれた先輩ではないようだ。
緑色のネクタイをゆったりと締めているから、二年生だろう。
どこかで見たことがある気がするのだが、はっきりとは思い出せない。
その人は女生徒達へ向かって軽く手を振ったり、会話をしたりしている。
そして。
「や」
目が合うと、まるで親しい友人にするような笑顔で片手を上げた。
視線の先にあるのは僕のようだが、知り合いではない。
……たぶん。
辺りを見回すが、僕の他に正門を通ろうとしている人はいない……ということは、やはり僕に話しかけた?
突然のことに動けずにいると、その人は笑顔を携えたまま近づいてきた。
思ったよりも近い距離で立ち止まる。
肩まで伸びる黒髪だが、伸びっぱなしというわけではなく、よく手入れされていてサラサラと風に靡いていた。
人懐っこい笑顔なのだが、小鳥遊くんとは少し違い、その笑顔は仮面のように感じる。
群青色の布地に金色の文字が入った腕章には、『生徒会』の文字が入っていた。
「あ……」
思い出した。
どこかで見たことあると思ったら……入学式で生徒会長さんの後ろに立っていた人の一人だ。
「そろそろホームルームの予鈴だ。もっと早く登校するように」
長身から僕を見下ろしながら、強い言葉をぴしゃりと言い放つ。
「す、すみません」
今日は遅刻検査の日だったのだろうか。
こんな時に寝坊してしまうなんて、なんてタイミングが悪いんだ……。
「なーんてね。ウソウソー。まだ時間あるから大丈夫だよ」
「へ……」
さっきまでの硬派な口調から一変して、人懐っこく穏やかに微笑む。
右手をヒラヒラと降り、今度は不思議そうに僕の顔を覗き込んだ。
「あれ? ウケない? 今の会長のマネなんだけど。おっかしいなあ。女子には大ウケなのに」
「はあ……」
あっけにとられて返事を返せないでいるが、先輩はなおも話し続ける。
「会話するのは初めてだけど……。ボクのこと、覚えてる?」
「えっと……入学式の時、生徒会長さんの後ろに立っていらっしゃった……」
「よく覚えてたね。さすが編入試験、満点合格の宮守四季君」
「……あ、ありがとうございます」
「うーん。なんかイメージと違ったなー。もっと堅物の予想だったんだけど」
先輩は長い前髪をかき上げると、右腕につけた腕章を僕に見せる。
「ボクは
「は、はい……よろしくお願いします」
「うんうん。一年生は素直が一番。それじゃ、遅刻しないようにね」
バイバイと顔の横で手を振れば、黄色い声を上げた女生徒複数人が、宮村先輩の周りに集まってくる。
「宮村せんぱーいー!」
「こらー遅刻だぞーっ」
宮村先輩は笑顔を崩さずに、女生徒へ話しかける。
「ごめんなさーい」
女性とは嬉しそうに声を上げて、宮村先輩に近付いていく。
なんだかすごい人だ……。
僕は集まってきた女生徒達の隣をすり抜け、急いで自分の教室に向かった。
*四月五日 金曜日 教室
ホームルーム終了の鐘が鳴り、僕は机にへたり込んだ。
全速力で走ったため、目標の時間に間に合ったものの……朝からの疲れが一気に出てきた感じだ。
「朝から疲れてるねえ」
後ろを向いた小鳥遊くんが、僕を見てくすくすと笑う。
「はい……寝坊してしまいまして。全速力で走ってきました」
「四季くんって寮に住んでるんだよね? 徒歩五分じゃなかったっけ?」
「そうなんですよ。本当ならもっと余裕をもって登校できるはずなんですが……」
「近いと油断しちゃうよね。その気持ち、分かるなあ」
「お恥ずかしい限りです。急いでいる時に限って、制服が上手く着れなかったり、ペンダントが――――あ」
そこで、さっきまでペンダントとの格闘をしていたことを思い出す。
「あの……この絡まりを取っていただけませんか?」
惨状を見せるため、襟足にかかる髪の毛を上げる。
「うわーめっちゃ髪に絡まってるじゃん。いたそー」
「ですね。地味に痛いです」
首元を覗き込む小鳥遊くんの表情が手に取るように分かり、つられて笑ってしまう。
「ボクにできるかなぁ。あ、ボク、手冷たいから……ビックリしたらごめんね」
そう言いながら、絡まった髪とネックレスに触れる。
確かに、小鳥遊くんの指はまるで氷のようにひんやりとしていた。
肌に触れないように気を遣ってくれているのか、触れるか触れないかギリギリに当たる手が少しだけくすぐったい。
「あー! もー! 取れない!!」
「……諦めるの早。うっさいし」
隣の席から抗議の声が上がる。
スマホから目を離した浅倉くんが、ジッとこちらを見ていた。
「だってさー。これ、取れないんだもん」
小鳥遊くんは僕のうなじをペチペチと叩く。
「…………」
浅倉くんは立ち上がると、小鳥遊くんと立ち位置を交代する。
「……はい」
その声と共に、引っ張られていた髪の感覚がすぐに無くなった。
「うわ、一瞬」
「俺、器用だから。こういうゴチャゴチャしたもの、解くの得意」
浅倉くんはそう言ってサラサラとした髪をかきあげる。
「どーせボクは不器用ですよーだ」
口を尖らせた小鳥遊くんは、再び自分の席についた。
「ありがとうございます。助かりました」
「別に。この位大したことないよ」
浅倉くんは頷くと、同じく自分の席に戻った。
「でも意外だよね、四季くんってアクセサリーつける感じしないのに」
「あ……これ……おじいちゃんの形見なんです。お守りみたいなものですね」
僕はペンダントの先を持ち上げる。
それを小鳥遊くんが興味深そうにそれをマジマジと見つめた。
「ドッグタグ? 珍しいもの付けてるね」
「たぶん歴史的に価値があるとかではないんですけど……おじいちゃんがとても大切にしていたものなんです。それを唯一の肉親であった僕にくれたんです」
「へえ。いいなぁ、そういうの。特別って感じ」
小鳥遊くんが羨ましそうに目を細めるのと同時に、教室へ猫背の先生が入ってきた。
「じゃ、席戻るね」
そう言って名残惜しそうに自分の席に座る。
僕もドッグタグを胸元に戻し、姿勢を正した。
*四月五日 金曜日 昼
「お昼行ってくるねーっ」
昼休みのチャイムがなるや否や、小鳥遊は意気揚々と荷物を肩にかける。
「リア充め……」
教科書に目を落としながら、浅倉くんが恨めしそうな表情で唸る。
「そんな顔しないでよ。これあげるからさ」
カサっという音がして、各自の机の上に何かを乗せた。
「何これ」
浅倉くんが不思議そうにそれを手に取る。
それはクッキーが入ったの小袋だった。
透明なビニール袋の中に並べられた丸型のスノーボールクッキーは、上の部分が金色のワイヤーモールで閉じられた可愛らしい形をしていた。
「昨日の放課後、よく行くケーキ屋さんの新作プリン買いに行ったんだけど、売り切れちゃっててさー。それの代わりに買ったクッキー」
「貰ってしまっていいんですか……?」
「いーのいーの。お裾分け。おやつにどうぞ」
「ありがとうございます……!」
僕はその包みを受け取ると、じっくりとそれを眺める。
そこには手書きの筆記体で『パティスリーウエノ』と書いてあった。
小鳥遊くんは満足そうに笑うと、軽い足取りで教室から出ていった。
「幸せそうで羨ましいです」
「お、俺は別に羨ましくなんかないけどね。そもそも恋人がいることイコール幸せってわけじゃないし」
「それは……確かにそうですね」
「ちょっと、そんなに深く考えないでよ。ただの負け惜しみなんだから」
浅倉くんは思い出したように携帯電話を取り出し、何か操作を始める。
しかしすぐに小さなため息を吐き、サイドのボタンを押した。
「で、今日は学食行くの?」
「そうですね……」
僕は少し考え……。
「今日のお昼はこれにしましょう」
「え、クッキーだけ? 朝ご飯も食べてないんでしょ?」
「原材料が小麦粉と砂糖なので、実質菓子パンみたいなものかと……」
「どこのマリーアントワネット……うん、まあそういう考え方嫌いじゃないけどね。いいんじゃない一食位……どうせ俺も食べないし」
複雑な顔を浮かべる浅倉くんだったが、僕は早速ピクニックのように机の上に広げる。
「浅倉くんも、良かったら僕のをどうぞ。一緒に食べましょう?」
「え……あ、うん」
浅倉くんは少し目線を泳がせながら、遠慮がちに手を伸ばす。
「あ、おいし……」
浅倉くんの少しだけ笑った顔を見て、僕も嬉しくなった。
*四月五日 金曜日 放課後
「あー眠かったー」
授業終了のチャイムと同時に小鳥遊くんが机に倒れ込む。
クラス中が、週末に向けてのまったりとした空気に包まれていた。
「小鳥遊くん。さっきいただいたクッキー、とても美味しかったです」
「それは良かったー。駅を東口から出て、まっすぐ行った商店街にあるんだよ。イートインコーナーもあるから、放課後デートに最適。駅ビルのカフェは混んでてなかなか座れないしさ」
「それはとても興味深いです……!」
せっかくだし、今日の放課後に行ってみようかと心の中で画策する。
「そういえば、部活探しはどうなったの?」
「あ……それが、興味が持てそうな部活がなかなか見つからなくて……」
「まあ、色々あるもんねー。中学の時はどんな部活やってたの?」
「ええと……き、帰宅部です」
「なるほどー。それじゃあ高校から運動部入るのもシンドイよねー。部活の推薦で来た人達と差がすごいだろうし。大学のサークルみたいにさ、交流目的の部活とかあればいいのにね」
「あ……」
部活の話をしていたら、昨日の出来事が頭の中をよぎった。
カバンの中から、不思議な先輩から廊下でもらった用紙を取り出す。
「そういえば昨日、校舎で迷っていたら、部活の案内書をいただきまして……」
中に入れっぱなしで、中身をしっかり確認していないことを思い出す。
一体何の部活だったんだろう。
「『WRA部』……?」
二人はそのプリントを見ながら首を傾げる。
「昨日、学校内で迷っていただいたところを、二年生の先輩に助けてもらいまして……。その時にいただいたんです。土曜日、待ってるねって言われて……」
「これ……って、もしかして二年の
「ああ……」
小鳥遊くんと浅倉くんが顔を見合わせる。
「ご存じなんですか?」
「二年の東郷先輩が好き勝手やってる部活。あの先輩直々に勧誘されたなんて凄いね」
「有名な方なんですか?」
「ある意味、ね。まあ、そのうちイヤでも色々耳に入るんじゃないかな」
「そうなんですか……」
そんな人にどうして声をかけられたんだろう。
本年度、第一回活動日は四月六日土曜日……明日の放課後と書いてある。
明日は午前中だけ授業があるから……見学しようと思えば行けるけれど……。
「まあ、何がなんでも部活に入らないといけないわけじゃないしさ。帰宅部でさ、勉強に集中してもいいんじゃない? この辺なら、遊ぶとこにも困らないし」
「そうですね……それじゃあ今日は、街を探検することにします」
「一人で行くの? せっかくだし、響くんにこの辺案内してもらいなよ」
「なんで俺が」
「だってヒマでしょ?」
「俺をなんだと思ってるわけ?」
「だ、大丈夫ですよ! 一人でフラフラするの嫌いじゃないですし」
浅倉くんだって忙しいのに、僕の予定で振り回すわけにはいかない。
「自分で言っといて、少し心配だなあ……。今日デートじゃなかったら、いくらでも案内してあげるんだけど……」
「リア充爆発しろ」
「はいはい。まあ日も長くなって来たから平気か。路地裏とか狭い道には近づかないようにね。あとここが一番大事。黒い詰襟の制服がいたら不用意に寄りつかないこと。話しかけられたら全速力で逃げること」
「あー……それは言えてるかも」
浅倉くんが珍しく小鳥遊くんに賛同する。
「黒い詰襟?」
「この近くの
「……そだね。寮の門限までに帰れば大丈夫だと思うけど」
「分かりました。危険そうな人には近づかないようにします」
僕は二人にそう約束すると、早速教室を後にする。
今日の目的地は、小鳥遊くんおすすめのケーキ屋さんだ。
*四月五日 金曜日 商店街
「や、やっと着きました……」
僕は商店街の入り口に立って、辺り一面を見回す。
商店街はアーチ型の屋根の下にあり、雨の日でも気にせず歩くことができるようだ。
学校から出て、駅を通り、商店街へ……。
慣れてしまえばなんてことない道なんだろうけど……初めての場所を地図も無しに歩くのは、なかなかスリリングな体験だった。
思ったよりも遅い時間になってしまったため、いっそのことタクシーを使ってしまえば良かったかもしれないと、今更になってそんなことを思う。
空が紫色に変化を始めた夕暮れの商店街は、老若男女、さまざまな人が歩いていた。
学校帰りの学生も、たくさんいる。
そういえば、商店街の周りを囲むように、いろんな学校があるんだっけ。
だから放課後には、色とりどりの制服を来た学生達が自然と集まってくるみたいだ。
きっと一人一人にお気に入りの場所があるんだろう。
夕暮れの太陽が眩しくて思わず目を細める。
僕は商店街をまっすぐに進んだ。
夕方のためか、お惣菜のいい匂いがしてきた。
今日の夕食に買って帰るのもいいかもしれない。
少し脇道を覗き込めば、ブルーに塗られた雑貨屋さんを見つけた。
メイン通りから、路地裏にある店までを網羅するとなると、とても一週間じゃ足りなさそうだ。
駅前のキラキラしたブランドが立ち並ぶ通りよりも、こちらの方が日本らしい趣きがあって好きだと感じた。
「ええと、小鳥遊くんが言っていたケーキ屋さんは……」
ある程度歩いたところで立ち止まり、看板でもないかと探してみる。
小鳥遊くんの言い方から、見つけにくい場所にはないと思うんだけど……。
そこで僕は、すれ違う人が、ケーキの箱を持っていることに気付く。
その人が歩いてきた先……そこに小さな可愛らしい外観のお店があった。
店の前に置かれた立て看板に、『パティスリーウエノ』と筆記体で書かれている。
間違いない、このお店だ。
駅から歩いて、商店街のちょうど真ん中辺り。
ようやく目的の場所に辿り着いた。
「あ……」
店の近くまで来たところで、入口の扉に、プリンが完売したことを知らせる張り紙が貼られているのが見えてしまった。
「残念ですね……」
やはり小鳥遊くんの言う通り、早い時間に行かないと売り切れてしまうようだ。
また今度、休みの日に再チャレンジしてみることにしよう。
少し中を覗いてみれば、美味しそうなイチゴのショートケーキが見えた。
「いっそのこと、ケーキにしましょうか……」
心の中で迷いが生じたその時だった。
「……ん?」
どこからか風に乗って音楽が聞こえてきた。
その旋律に惹かれ、その音の方へ顔を向ける。
音は真っ暗な路地裏の更に奥から聞こえているようだ。
「覗いてみましょう」
その音に誘われるように僕は足を進める。
路地裏を進み、控えめなライトが光る立て看板の前を通り過ぎ、そのまた奥へ。
暗くなっていく道とは真逆に、明るい音楽と歓声が近くなっていく。
辿り着いた路地裏の最奥には、三〇人ほどの観客の集まる広間があった。
その中心には瓦礫を積み上げステージ代わりにして演奏をしている三人組の姿。
各々が身体を揺らしたり、手拍子を入れたしてそのリズムを楽しんでいるようだった。
「凄い……」
よく見ると、ベースを演奏している人は僕と同じ臙脂色の制服を着ている。
メッシュがたくさん入った髪型が、とても良く似合っていた。
大人しそうな人が多い学校だと勝手に思っていたけれど、自分の好きなものを貫き通している人もいるんだなぁ。
ギターがソロパートを弾き切ると、さらに会場が盛り上がる。
仄かな光の街灯に照らされた汗が、キラキラと輝いていた。
「あ」
時間を忘れてその光景を見入っていたが、ふいに我に返る。
気が付けば、寮の門限の時間が近づいていた。
「いけない……! 帰らないと……!」
門限を破ると反省文を記入しなければならないと、寮の規則に書いてあったことを思い出す。
せっかく入学できたのに、変なことで名を残すわけにはいかない。
僕はさらに増えたギャラリーをすり抜け、急いで元来た道を引き返す。
「あ……」
その途中、足元に置いてあったギターの箱を見つけた。
中にはパラパラと投げ銭が入っている。
「ありがとうございました」
小さな声でそう言うと、財布から千円札を取り出し中に入れておいた。
路地裏から見える先……商店街のメイン通りには、街灯のライトがつき始めていた。
早くしないと、寮が閉まる時間になってしまう。
僕は足を早める。
しかしそれを塞ぐように、二つの影が目の前に現れたのが見えた。
「おーい、そこの椿乃学園の生徒さん」
「え……?」
椿乃学園……っていったら……。
僕、だよね……?
恐る恐る顔を上げると……。
そこには……申し訳ないけれど、決して好青年とは言えない二人組が並んでいた。
明るい街を背にして、狭い道を通せんぼするように立ちはだかっていた。
よく見ればその二人は黒い詰め襟の学生服を着ている。
小鳥遊くん達の話を思い出した時にはもう遅かった。
じりじりと距離を詰められる。
「そう、キミだよキ・ミ」
一歩、また一歩と。
耳用ではなさそうな大きなピアスをつけた人が、こちらへと足を踏み出す。
「な、なんでしょう……」
「今、オレ達お金ないんだよね~」
「はぁ……」
「ちょっと貸してくれると嬉しいんだけどな~」
「え……?」
一瞬頭の中が真っ白になり、そして思いつく。
……そうか!
も、もしかしてこれが……カツアゲってやつ……!?
すごい……この時代に、ホントにあるんだ……!
しかもおじいちゃんが治安がいいと言っていた、この日本で!
自分の置かれている立場とは裏腹に、不思議と気持ちが高揚していくのを感じる。
しかし喜んでもいられない。
こういうのは、ちゃんと断るのが大事なのだ。
「あ、あの……それが……僕、お金持ってなくて……ですね……」
「んなわけねーだろ? だって、なぁ……」
「ああ、その制服だぜ?」
二人は顔を見合わせ、そして鼻で笑う。
「制服……」
そうか。
この学校は、確かにお金持ちが多い。
しかもこの色……とにかくこの制服は目立つんだ。
残念ながら僕はそんなすごいステータスは持ち合わせていないのだけれど、今ここでそれを証明することはできない。
「あ、えっと……ですね」
ズリズリと小刻みに動きながら、逃げ道を確保する。
「す、すみません……今、持ち合わせがなくて――――ということで、失礼しますー……」
「まあ、待てって」
「!」
伸びてきた足が壁を蹴り、僕の行く先を塞ぐ。
「ちょっとでいいから、な?」
「っ」
ネクタイをグッと掴まれ、一瞬息ができなくなる。
これは、思っている以上に危険な状況かもしれない。
いっそのこと、財布を投げて……自分の身だけでも守るべきか……。
頭の中で思考を巡らせていたその時だった。
「おい」
「あ?」
「何うちの学校の後輩、カツアゲしてんだよ」
「!」
恐る恐る視線を上にあげた、その先には……。
スラっとした長い足を持つ、人影があった。
逆光で良く顔は見えないけれど……。
この状態から僕を助けてくれるその人は、ヒーローのように思えた。
「本当、その制服のヤツラはいっつも碌なことしないな」
雲の隙間から月明かりが差し込んだ。
その光が……。
その人の姿をゆっくりと照らす。
ウェーブのかかったピンクベージュの髪が、肩まで伸びている。
あまりにもこの場に似つかわしくないほど、美麗な顔立ちの人だった。
長いまつげに、切れ長の瞳。
見た目では、男性か女性かすら判断できない。
声の低さからやっと男性だと分かる程度だ。
その人は、僕と同じ制服を着ていた。
「ったく、相変わらず
不機嫌そうにそう言うと、両手の指をバキバキと鳴らした。
「誰だ、テメエ……」
「オマエらなんかに名乗る名前なんかないっての」
小バカにするように、鼻で笑う。
「ちょっと待て。コイツもしかして、せんけ――――」
「は? 知るかよ! ふざけやがって……っ!」
大きなピアスの人が、仲間の静止も気に留めず、その綺麗な人に殴りかかる。
しかし。
膝蹴りによって、見事にカウンターを決めたのは……その綺麗な人の方だった。
顔を蹴られた男は、ピクリとも動かない。
「よっわ! よくそんなんで俺に殴りかかってきたな!?」
その人は倒れた相手に向かって、実につまらなさそうに視線を送る。
もう一人は悲鳴を上げながら逃げ出してしまった。
「んだよ、友達なんだろ? 置いてくなよな」
コツンと足先で倒れている方を蹴飛ばす。
う……とうめき声が漏れた。
どうやら、まだ息はあるようだ。
僕はホッと胸を撫で下ろした。
「大丈夫か?」
「え……っ」
突然声をかけられ、思わず声が上ずってしまう。
「ったく、この制服も損だよな。放課後ブラつくならさ、着替えといた方が安全だぜ?」
僕を見た時のその微笑みがあまりにも美しくて……。
言葉を失う程に見とれてしまった。
「どうした?」
「い、いえ……あの、助けてくださって、ありがとうございます……」
「気にすんなよ。オマエ、一年だろ? 次からは気をつけろよ」
「そ……そうします」
僕が返事をすると、先輩は長い髪をかきあげる。
二年生の証である緑色のネクタイが目に入った。
「じゃ、オレはこっちだから」
先輩はそう言うと、街の明かりが見える方へ歩いて行ってしまった。
「綺麗な人でした……」
僕は先輩が見えなくなるまでその背中を見送っていた。
まるでテレビで見る芸能人のようだと思った。
*四月五日 金曜日 学生寮
「帰って……これました……」
自分の部屋の匂いに安心して、ベッドになだれ込む。
通って来た道を素直に戻ったはずなのに、何故か直前で迷い、時刻は寮の門限時間ギリギリだった。
締め出されなくて本当に良かった。
そういえば、昨日も校舎で迷った気がする。
自分が方向音痴の部類に入ることを、改めて自覚した日だった。
小鳥遊くんの説明だけでケーキ屋さんに辿り着いたのが奇跡だったのかもしれない。
これからはちゃんと下調べをしてから出かけよう。
僕はそう決心する。
「はぁ……毎日、貴重な経験ばかりです……」
初めて路上ライブを見て、その上カツアゲまでされるなんて思ってもいなかった。
たくさんの経験を積み重ねて、成長していくんだなぁなんて。
入学三日目にして少し達観した気持ちになる。
たくさんいろんなものを見て、いろんなことを感じて、少しずつ大人になっていけばいいと、おじいちゃんもそう言っていたから……。
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