夏休み、僕は神田さんの指導のもと、富士山のふもとで合宿訓練を受けていた。父は知っているけど母は僕が合宿していることを知らない。ずっと家に居て、いつもの様に診察の見学をしていると思っているらしい。それと云うのも、クラウンさんが母に、僕が家に居続けているという幻覚を見せていると云うことなのだ。なんだかそんなに長いこと幻覚なんか見ていたら、頭がおかしくなっちゃうんじゃないかと心配なんだけど、クラウンさんが云うには現実も幻覚も見る仕組みは同じだから気にすることはないって。色々詳しく説明してくれたけど余りよく理解できなかったな。感覚が如何どうとか、脳が如何とか。印象的だったのは、現実も幻覚の一種だから、余り現実を信じ過ぎるなって云われたこと。ちゃんと理解出来ているかは判らないけど、なんとなく、そんなもんなのかなと納得した。

 この合宿では、もっぱら治癒ではない方の訓練をしている。バリアを張って飛んで来るボールから身を護ったり、クラウンさんの幻覚や催眠の攻撃を無効化したり。それと、催眠術掛けられた人の催眠を解いたり。なんだか思い付きで次々と色々なことをさせられている様な感じだ。

 「よう、今日は面白いヤツ連れて来たぞ」

 そう云って訓練所にやって来たのは、佐々本部長さん。合宿中に何度か顔を合わせている。神田さんの上司で、昔は父の上司でもあったと云う。相変らず父の昔の仕事に就いては、何も知らないのだけど。

 佐々本さんの背後には、なんだか不思議な感じの短髪のお姉さんが居て、目に掛かるほど長い前髪の隙間からじっとりとこちらを見詰めている。訳もなく不安な気持ちが湧いて来る。この尻の座りの悪い感覚が、お姉さんの能力に因るものだと気付く迄には暫く掛かった。

 「あぁー、そういうことかぁ!」

 そうしてこの不愉快な空気を跳ね返すと、お姉さんはにっこりと微笑んでくれた。

 「坊主、遣るやないの。うちのイヤイヤパワー跳ね返したのん、君が初めてやで」

 これまたコテコテの、大阪弁? 河内弁? なんかそんな感じ。

 「ほな、これはどないや!」

 そう云うと、周りの空気が急に変わった。何事かと思ってキョロキョロしていると、お姉さんの驚いた声が聞こえる。

 「なんや、君、普通に動けるんかい!」

 「え?」

 「うち時間止めてんで」

 「はっ?」

 云われて改めて周りを見ると、佐々本さんも神田さんも、なんだか中途半端な姿勢の儘固まっている。体を動かすと、なんだか空気がまとわり付いて来る感覚があり、動き辛い。気の所為か呼吸もし辛い。

 「時間止めてるからな、周りの空気も止まってんで。まあ停まってるゆうのんは云い過ぎで、実は物凄ぉゆっくり動いとるんやけど」

 そう云うことか。原理が判ると対応も出来る。周りの空気を自分と同じ様に動ける様にするのは、大して難しくなかった。

 「いやいや、君凄いな! ねぇちゃん感動やわ!」

 なんか褒められた。嬉しい。

 「でも、お姉さんの効果を完全に消すのは難しそう」

 「そらそや。舐めたらあかん」

 「自分と、その周りを効果の外にすることぐらいしか……」

 「それだけでも大したもんやねんで」

 佐々本さんも動ける様にしてみた。

 「おっ? 時間停まってる?」

 「あーあ、おっちゃん迄動ける様にせんでも……もう少し君と二人で話したかったわぁ」

 「えっ、それは御免なさい……」

 「おいおい都子みやこ君、そんな連れないことは云わないでくれよ」

 佐々本さんはがははと笑った。

 「それにしてもどうだね、このユウキ君は。大したもんだろう?」

 まるで我が事の様に誇らしげに云う。

 「何で佐々本さんが得意気なんか知らんけど、こン子は将来有望ですわ。――将来と云わず、即戦力やな」

 「そやろ?」

 佐々本さんに大阪弁が伝染うつっている。

 「ほな、うちの出番はここ迄で」

 そう云うと都子さんは、時間停止を解除した。

 「でさ、X国案件本当に来られないの?」

 「月曜だか火曜だか迄ですやんね? その月曜日に絶対外されへん試験がありよるんですわぁ。必修科目なんで。ほんまかんにん!」

 そうして手を合わせると、都子さんはそそくさと退場して仕舞った。

 「佐々本さん、今のは?」

 神田さんが不審げに都子さんの後姿を目で追っている。そう云えば神田さんはずっと停まった儘だったので、停まっていた間の遣り取りを一切聞いていないのだ。佐々本さんがお姉さんを連れて来て、僕と佐々本さんと二、三会話したと思ったら、その儘くるりと踵を返して帰って仕舞った、としか認識していないのだろう。神田さんも動ける様にしてあげれば良かったな。――あ、しかしてこれ、クラウンさんの云っていた「現実を信用するな」って話に関係ある?

 「あの子は、天現寺都子君。時間停止したり、場の空気や雰囲気なんかを操作したり……名付けて、フィールディングの都子君だ。ユウキ君の訓練相手として連れて来たんだけど、如何だったかな?」

 そう云って佐々本さんは僕を見た。

 「時間停止って面白いですね。僕には掛からなかったみたいですけど。部分的に解除する方法も理解しました」

 「大したもんだよ、君は」

 佐々本さんは僕の頭をポンポンと叩いた。

 「時間を止めて遣り合っていたのか……御蔭で何があったのか全く認識できてませんよ」

 「ごめんなさい、神田さんも解除してあげれば良かったんですけど、そこ迄思いつかなくて」

 「いやいや、ユウキ君を責めてるわけじゃないですよ。どっちかと云うと佐々本さんを責めているのです」

 「おいおい。俺だって止められていたのだ。如何やら会話の途中から参加させて貰えた様だけど、それ迄にどの程度、どの様な遣り取りがあったのか、俺も全く知らねぇのだよ」

 「ご、ごめんなさい」

 「いや、だから」

 「気にするなって」

 二人交互に云って、笑った。僕も一緒に笑っておいた。

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