父から子へ
里蔵 光
一
「加藤さん、診察室へどうぞ」
待合室に日奈さんの声が響く。日常の光景だ。診察室では母が、カルテを
「あれ、ヒロくん帰っとったの? ちょっと通るよ、ごめんね」
看護師の希理子さんが僕を
「やあヒロくん、今日もお
ガーゼや包帯を抱えた多恵さんが、目の前を通り過ぎる。
希理子さんが消毒薬を持って戻って来ると、「オキシドールでーす」と云って多恵さんに手渡した。
診察室では母が、
「なんか
患者さんがそんなことを云っている。
「何云っとりゃあす、消毒して包帯巻いただけだで。
母にはおべんちゃらなど通じない。冷たくあしらうと、「はい次の方ー」と云って患者を追い出した。
僕は幼稚園から帰ると、いつもこうして母の仕事を見守り、時々鳥渡だけ手助けしている。母は僕がそんなことをしているなんて気付いていないし、僕の能力のことも知らない筈だ。これを知っているのは父だけ。
次の患者は食
こんな調子で次々来る患者の治療を鳥渡ずつ手助けしている
この診療所は母を始めとして、女の人しかいない。受付の日奈さん、看護師の希理子さんと多恵さん。日奈さんが三十前半で、看護師二人は二十代らしい。皆僕を可愛がってくれるから、
「はーい、今日の診察はおしまいでーす」
日奈さんが診察室に終業を知らせに来た。
「はい、お疲れさん。キリちゃんと多恵ちゃんもお疲れさん」
母が白衣を脱ぎながら、皆に
「それでは、失礼しまーす」「キリちゃん、お茶行かない?」「あー、今日用事あるもんで、ごめんねぇ」
そんなことを云いながら看護師達は
「
丸椅子からぴょんと飛び降りて、母の手を握る。
「今日も大人しゅうしとったね。退屈せなんだの?」
「うん、楽しかったわ」
「何がほんな楽しいかね。わからんねぇ」
外に出ると、冷たい風が首筋を
「ただいまぁ」
「おかえり!」
帰宅すると、父が出迎える。父は在宅で仕事をしている。何の仕事をしているのかはよく知らないけど、今はどの会社も、出社しないで在宅で働くのが普通なのだそうだ。
そういえばその感染症も見たことあるよ。
診察は午後六時に終わっているから、そこから夕御飯の支度をして、遅くとも八時迄には食べ終わって、それから父とお風呂に入る。お風呂の中で、今日のことを話す。治療の手伝いをした件に就いては
「そりゃあやり過ぎだよ。もう少し手を抜けよ。もっと人の自然治癒力を信頼しろな」
「別にそこは、信頼してないわけじゃないよ……」
「そうかな。だったら
父はこの辺の生まれじゃないから、ちっとも
「そうだヒロ、お前そろそろ他の能力も覚えてみないか」
「他って?」
「毒の中和とか」
「毒って……なんとなく判るよ」
「そうなのか?」
「ちゅうわってのは、したことないと思うけど……あれが毒だな、ってのは判る」
「流石だなぁ、父さんがそれ判る様になる迄には、結構時間掛けたんだけどな」
「えへへ」
多分褒められたんだと思う。なんだか嬉しかった。
「じゃあさ、このお風呂の水にどんな毒が入ってる?」
「どんなって……水道の水には全部この……臭い奴入ってるけど、毒なこともあるけど、でもこれが無いと水腐るよ」
「塩素な」
「えんそ?」
「そう。正確には次亜塩素酸イオン。大量にあったら
「うーんと……こう……かな?」
じあえんなんとか云うモノを、鳥渡クルっとしてみたら、桶の中のソレが連鎖的にパタパタと消えた。何で消えたのかは
「上手いなぁ」
また褒められちゃった。でもその代わりに、なんか別の悪いものが増えて行く気がする。
「次亜塩素酸が消えたから、この水の中に別の毒が増えてきたの判るか? これは雑菌だな。風呂の水なんか雑菌だらけだ。カビとか、レジオネラとか、バクテリアとか、皮膚の常在菌とか」
どれが何かとか、名前は好く判らないけど、良くないモノ――毒が増えて行くのは判る。
「この毒も消せるかな?」
やってみた。クルリクルリと捻ると、次々と毒性のモノが消えて行く。形あるモノは破裂したり溶解したりして、分解、吸着、結合を繰り返し、あるモノは沈殿し、あるものは拡散し、毒素が次々と消滅してゆく。
「凄い凄い。父さんよりすごいぞ!」
また褒められたみたい。非常に嬉しい。
「どれが何て名前なのか、
父が色々な名前を教えてくれたけど、ややこし過ぎて直ぐには覚えられそうにないから、後で図鑑とかネットとかで復習しようと思う。
「今日はこんな所だな。他にもいろんな毒があるから、今度教えてあげるよ」
なんだか不穏な会話だと思うけど、楽しみの方が勝って仕舞う。それにしても父は、なんでこんなに色々と教えてくれるのだろう。診療所で患者を直すのは良くないと云う癖に、なんだか迚も愉しそうに、僕に色々教えてくれるんだ。
そんな父が、僕は大好きだ。
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