第58話 外伝 怪談師の異界漂流記 ⑨

最上階の扉の先に広がっていたのは、想像していた「賢者の部屋」とは程遠い、時間の止まったような静謐な寝室だった。部屋の中央、純白の天蓋付きベッドに横たわっているのは、一人の少女。透き通るような肌と長い銀髪を持つ彼女は、まるで精巧な蝋人形のように、呼吸の音さえ感じさせない深き眠りについていた。


 「待っていましたよ、語り部様。ディンも長い道のり、ご苦労さまでした」

 ​姿なき声が空間に響く。ディンはその声を聞いた瞬間、武器を置き、敬虔な信徒のように跪いた。

​「語り部様、あなたをこの世界へ招いたのは、私……この地を統べる精霊です。そして、このベッドで眠る子は、私の依代よりしろであり、かつての『賢者』と呼ばれた存在の娘なのです」

 ​只見は、隣で俯くディンと、宙を舞うパピを見た。パピの青い光が、今までになく切なげに揺れている。


「セージ、隠しててごめん……」

ディンが掠れた声で話し始めた。

「俺が本当の目的は……この子、エリシアを目覚めさせることだったんだ。俺たちホビットの部族は代々、この塔の守護者だった。予言があったんだ。『異界の言霊を持つ者が、死せる眠りを打ち砕く』って。俺は、あんたを見つけるためにあの荒野にいたんだ」


 ​パピもまた、震える翅を休めて只見の肩に止まった。

「ボクは、エリシアの心の欠片なんだ。彼女を守ろうとして呪いの魔女と戦ったけど、力及ばず、あの教団のヘビに飲み込まれて……。セージ、お願いだ。あんたの声なら、彼女を連れ戻せる」


 ​ 只見は大きな溜息をついた。

 騙されていた、という憤りよりも、この一年近くの旅で培われたディンとの絆が、その嘘を「必然」として受け入れさせていた。

 ​「……やれやれ。マネージャーがタレントを騙して営業に連れて行くようなもんだな。だが、連れてこられた以上、プロとして仕事は完遂させてもらうよ」

 只見は背負っていた狩猟笛ハンティング・ホーンをゆっくりと下ろし、ベッドの傍らに立った。


 150年。夢魔の魔女がかけた呪いは、絶望という名の深い淵だ。生半可な「希望」では、彼女の魂には届かない。

 ​只見は目を閉じ、喉をリラックスさせた。

 彼が語り始めたのは、かつて日本で収録した『深夜零時の囁き』の、どの怪談よりも暗く、そしてどの物語よりも「熱い」語りだった。


 「——そこは、何もない場所だ。音も、光も、明日さえも存在しない。」

 ​只見の声は、地を這うような低音から始まった。狩猟笛が微かに共鳴し、重低音のバイブレーションがエリシアの心臓を物理的に震わせる。

 「君は今、その暗闇の中で、独りきりで歩いている。怖くて、寒くて、声を出すことさえ忘れてしまったかもしれない。……でもね、思い出してほしい。」

 ​只見の声色ねいろが変わった。それは、孤児院の子供たちを笑わせた時の陽だまりのような温かさ。


 【精神干渉:全感情の共鳴】。

​「君がいた世界は、こんなに賑やかだったんだ。蟹の焼ける美味しそうな匂いや、間抜けな少年の嘘、勇気を出して立ち上がった人々の喝采……。君が守りたかった世界は、今も君が目を開けるのを待っているんだよ。」

只見は狩猟笛の弦を、一気に掻き鳴らした。


 ジャラーーーン!!

 黄金の音波が部屋中を乱舞し、アリアを縛り付けていた漆黒の影――夢魔の触手が、悲鳴を上げて焼き切れていく。

 「エリシア、仕事の時間だ!!……起きろッ!!」

 ​只見の「一喝」。それは、舞台の幕を強引に引き開けるような、圧倒的な意志の爆発だった。

 その瞬間、少女の長い睫毛が震えた。

 深淵の底から、一筋の光を掴み取るように、エリシアの瞳がゆっくりと、しかし確実に開かれた。

​「……あ……あああ……っ!」

 ​エリシアが大きく息を吸い込み、上体を起こした。彼女の瞳から、150年分の涙が溢れ出す。パピが光り輝きながら彼女の胸へと飛び込み、ディンは子供のように声を上げて泣き崩れた。


 部屋を支配していた不気味な静寂が消え、暖かな風が吹き抜ける。

 「……お目覚めかな、お嬢さん。おはよう」

 只見は、少し照れ臭そうに、舞台挨拶をする役者のように一礼した。

 ​エリシアは涙を拭い、掠れた声で、しかしはっきりと微笑んだ。

「……ありがとうございます、異界の語り部様。あなたの声が、暗闇の中に道を照らしてくれました」

 ​彼女が完全に目覚めた瞬間、塔全体が眩い光に包まれた。

「私は精霊の加護を受け継ぐ者。あなたの望みは、元の世界へ戻ることですね。……時間はもう、あまり残されていません。この光が消える前に、扉を通りなさい」


 ​エリシアの手の中に、次元の歪みが収束し、小さな渦が生まれた。あの大阪のビル、三階の倉庫へと繋がる道だ。

​「セージ! 行っちまうのかよ!」

 ディンが駆け寄る。その顔は涙と鼻水でぐちゃぐちゃだった。

 ​「ああ。俺の居場所は、あっちにあるからね。……ディン、カニカマーのロイヤリティーはちゃんと孤児院に届けてやってくれよ。それと、みんなを大切にな」

 ​「当たり前だ! あんたのことは一万年語り継いでやるからな! 『最高に口うるさい英雄』だってよ!」

 ​ 只見は笑いながら、光の渦へと足を踏み入れた。

 最後に振り返った時、エリシアとディン、そして元の姿である輝く精霊に戻ったパピが、並んで手を振っているのが見えた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る